7月の「今日」  幕末日誌文久3 テーマ別文久3  HP内検索  HPトップ

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文久3年6月16日(1863年7月31日)
【京】攘夷親征:翠紅館会議。真木和泉・長州藩士、攘夷親征について協議。
【京】小笠原処分:徳川慶勝、小笠原長行の処分を江戸で行うことを奏請
【京】攘夷監察使正親町公菫、親兵を引率して西下
【江】将軍着府

将軍東帰
【江】文久3年6月16日、将軍家茂は江戸に到着しました

家茂は6月3日に攘夷のための東帰の勅を得ていました(こちら)。9日には小笠原処分を名目に退京して大坂城に入り(こちら)、13日に海路江戸に向かって出発していました(こちら)

関連:■開国開城:「将軍家茂入京-大政委任問題と公武合体策の完全蹉跌」■テーマ別文久3年:「第2次将軍東帰問題と小笠原長行の率兵上京
■攘夷親征(大和行幸)
【京】文久3年6月16日、真木和泉は京都東山の翠紅館での長州藩士と会合し、攘夷親征に向けての具体策を協議しました

長州藩からは桂小五郎・清水清太郎・佐々木男也・寺島三郎が出席したそうです。このとき真木は以下の「五事策」を示し、その内容を説明したそうです。

一、攫攘夷之権事。
一、標親征部署事。下令算在京之兵事。
一、新天下耳目。
一、収土地住民之権事。
一、移蹕浪華事。

たとえば、五事策中の「収土地住民之権事」の条項には、「親征し給いて男山までも行幸の時、俄かに公卿二員・侯伯一員に命じて、詔を稟して将軍に下すべし。御受の有無は論ずるところにあらず。彼の手に授くれば事済むなり」とあるそうです。(詳細は『真木和泉守遺文』にある模様ですが・・・)

<参考までに>
『七年史』の文久3年7月17日の項に、日付不明の近衛忠煕・近衛忠房父子の久光宛書簡の要約が収録されており、そこに五事策の概容が書かれています。

「御親征は、議は叡慮に出るにはあらで、真木和泉が長藩人と謀りて、此議を企て、三條中納言以下の堂上等、信用するもの多く、中川宮と余等とを嫌忌すること甚し、和泉は、献策に五ヶ条あり、其一は攘夷の権を執り、不測の辞を以て、敵心を感服し、勅旨を下の関に下し、叡旨を諸侯に伝ふべし、其ニは親征の部署を定め、在京の兵士を閲し、錦旗革車を作り、仮に服色を改めて、戎衣と為べし、其三は攘夷使諌官を置き、公卿三人、諸侯三四人を挙げて、其次官と為し、以て天下の耳目を新にすべし、其四は土地人民の権を収め、仮に税則を二等に定め、戸部の撰を重くすべし、其後は 輿を大坂に止め、摂海の兵備を厳にし、其地要衝の地十ヶ所に関門を設け、許多の大砲軍艦を製造すべしと、余等固より此計の成らざるを知れども、実に憂慮に堪へざれば、願くは速かに上京ありて、彼等を挫厭せられんことを望む」

<ヒロ>
真木は、文久2年4月の寺田屋事件で京都挙兵計画が挫折した後、7月に国許の久留米に送還されて幽囚の身となりました。文久3年2月、朝命によって釈放されましたが、4月には徒党を組んで不軌を企てた罪で、再び投獄されました。これを知った在京長州藩士や出奔して長州にあった公卿中山忠光らによる救解運動により、5月17日、釈放されました(こちら)。真木は22日に久留米を発って東上の途につき、山口で長州藩主毛利敬親(慶親)に閲し、6月8日、入京していました。翌9日には将軍家茂が幕兵とともに退京したこともあり、真木の入京で在京尊攘急進派の気勢が上がったことは想像に難くありません。

参考:『維新史』三p531-542・『徳川慶喜公伝』2p253-256・『修訂防長回天史』(2004.8.10)
関連■テーマ別文久3「大和行幸と禁門の政変

■長州藩の攘夷戦争
【京】文久3年6月16日、朝命により、攘夷監察使正親町公菫は、親兵45名等を率いて西下しました。親兵は水戸・肥後・久留米・姫路・土佐藩士から成っていました。(『綱要』)

その目的は、攘夷を実行した長州を慰労し、西国諸藩の奮起を促すことによって長州を援助しようとするものだそうです(『維新史』)。

後日、近衛忠煕前関白父子が島津久光に報じたところによると、攘夷監察使は主に三条実美の周旋で実現したものですが、国事掛のうち上級公卿から成る「勅問之御人数」の知らぬところで朝命が下りました。公菫は速やかに御請し、近衛前関白らが異論を申し立てたときには、既に出立した後だったそうです。

「朝議グレ付候御事」は、傍観の身ながらも、行末どうなるかと「痛歎」の限りない。其許も篤と事情をご理解の上、「早々御奮発」されたい。
長州は攘夷を開始したというので、格別に御依頼の勅命が出され、殊に「暴論」家のうち、正親町少将が監察使とかいう名目で下向することになった(注:6月14日)が、実にもって一切分明ではなく、何とも後患を恐れる次第である。この監察使の一件についても、三条中納言が「一鼻立言上」し、専ら周旋したものであり、左府(=一条忠香)以下「勅問之御人数」の面々へは御沙汰なく仰せ出され、(正親町は)速かに御請申し上げた由。実にもって監察使とか申すことなど、甚だ容易ならざる儀であり、あれこれ申し立てたが、最早出立後であった。何分、前もって承知せぬ儀である故、とかくの致し方もなく、実に嘆かわしい。
(出所:6月下旬付島津三郎殿宛忠煕・忠房書簡『玉里島津家史料』ニp347-348より作成。箇条書き、()内by管理人)。

参考:『維新史料綱要』四p467、『維新史』三p527、『玉里島津家史料』ニp347-348(2004.8.10)
関連■テーマ別「長州藩の攘夷戦争」「長州藩VS小倉藩」「親兵設置

■薩英戦争
【横】文久3年6月22日、英国代理公使ニールは艦隊を率いて横浜を出港し、鹿児島に向かいました。

英国は前年の生麦事件の下手人引渡しと償金支払いを幕府と薩摩に求めていました。5月、幕府は、老中格小笠原長行の決断で償金を支払いました。英国は、次に薩摩と直接交渉するため艦隊を率いて鹿児島に向かいました。

関連:■開国開城:「幕府の生麦償金交付と老中格小笠原長行の率兵上京」「薩英戦争」■テーマ別:「薩英戦争」■薩摩藩日誌文久3

■老中格小笠原長行処分
【京】文久3年6月16日、将軍補翼徳川慶勝は、率兵上京を企てた小笠原長行の処分を江戸で行うことを奏請しました

<ヒロ>
小笠原は10日に老中格を罷免となり、大坂城代預かりになっていました。

関連:■開国開城:「将軍家茂入京-大政委任問題と公武合体策の完全蹉跌」「幕府の生麦償金交付と老中格小笠原長行の率兵上京」  ■テーマ別文久3年:「第2次将軍東帰問題と小笠原長行の率兵上京

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