8月の「今日の幕末」 幕末日誌文久3) 事件:開国:開城 HP内検索 HPトップ
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■越前藩挙藩上京計画(越・薩の政変計画)&久光召命 【京】文久3年7月13日、近衛忠煕前関白は、越前藩士村田巳三郎(氏寿)に対し、天皇は越前藩の国論を「至極尤に思食、頼母しき事なりと御沙汰在らせられた」ので国許に知らせるよう告げ、「憤発」を決断した際には、尽力を依頼すると述べました。 また、村田が主張する島津久光上京前の朝廷改革(急進派処分)断行については、尤であり勘考しようと答えました。 ●越前藩の藩論について(天皇の賛同)
●攘夷親征に関する朝議(天皇・近衛前関白ら親征反対派の巻き返し)
●久光上京前の急進派公卿の処分
<ヒロ> 前日に再入京した村田は、その日のうちに薩摩藩士吉井幸輔に面会し、吉井から島津久光召命について知らされると、急進派から嫌疑を受ける久光の上京前の朝廷改革(急進派追放)決行を提案しました。吉井はこれに同意しましたが、近衛前関白らから暫く「鎮静」せよと釘をさされたばかりでもあり、村田から入説するよう求めていました(こちら)。 久光には召命の沙汰を出したのに、越前藩には時機がくれば沙汰を出すのでそれを待つよう要請。温度差を感じます。越前藩の出兵については、近衛前関白が「心配」するほどの「容易ならさる風説」が流れていたわけで(おそらく、武力をもって朝廷を脅し、開国論に導くという類の噂だと思われます)この段階でも、警戒心をもっていたのかもしれません。 また、近衛前関白は、暴論の輩も大いに閉塞し、日頃勢いが挫かれたと述べていますが、急進派公卿は、7月6日、幕府への攘夷委任の不可&攘夷親征の布告を建言し(こちら)、翌7日、因幡藩主池田慶徳に攘夷親征布告を諮問、次いで9日には真木和泉を召出して親征に関する意見を質すなど、親征布告の実現に向けて活発に動いています。さらに、11日には、長州藩家老益田右衛門介・根来上総、攘夷親征等を建議するため入京。急進派はもりあがっている最中だと思うのです・・・。。 関連:テーマ別■「越前藩の挙藩上京(クーデター)計画」「久光召命」■春嶽/越前藩「事件簿文久3」 ■薩摩藩「事件簿文久3」「日誌文久3」 参考:『続再夢紀事』二p77-79(2004.9.21) 【京】因幡藩主池田慶徳、紀伊・播磨への監察使(11日任命)に勅使としての威厳を保たせるよう建議(『御伝記』二p406) |
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