8月の「今日の幕末」 幕末日誌文久3) 事件:開国:開城 HP内検索  HPトップ

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文久3年7月13日(8.26):
【京】近衛前関白、村田に、天皇は越前藩の国論に同意だと告げる。
また、島津久光上京前の朝廷改革(激派処分)断行についても考えようと回答。

■越前藩挙藩上京計画(越・薩の政変計画)&久光召命
【京】文久3年7月13日、近衛忠煕前関白は、越前藩士村田巳三郎(氏寿)に対し、天皇は越前藩の国論を「至極尤に思食、頼母しき事なりと御沙汰在らせられた」ので国許に知らせるよう告げ、「憤発」を決断した際には、尽力を依頼すると述べました。

また、村田が主張する島津久光上京前の朝廷改革(急進派処分)断行については、尤であり勘考しようと答えました


●越前藩の藩論について(天皇の賛同)
村田 先日(注:7月4日)申し上げましたように、御指揮がないまま越前より人数を上京させることは決してないはずですが、その際、須臾(しゅゆ)云々の御沙汰もありましたので、その後一旦帰国の際にも、御沙汰があるまでは鎮静する方が、却って朝廷の御為に都合がよい旨を報告し、春嶽始め越前守殿も愈々その心得で決心しております。この件は少しもご懸念ありませんように。
近衛 越前から人数を上京させる件は、「過般来容易ならさる風説」があり心配していたが、ただいまの言葉で大いに安心した。先日の「越前国論の趣ハ其後逐一主上江申上」げたところ、「至極尤に思食頼母しき事なりと御沙汰」があった。この旨を極密に国許へ申し使わすように
村田 思いもかけぬ御沙汰を蒙り、肝に銘じ有難く存じます。

●攘夷親征に関する朝議(天皇・近衛前関白ら親征反対派の巻き返し)
近衛 先日、内見に入れた親征に関する意見書を7月7日(ママに関白(=鷹司輔熙)に提出したところ(こちら)、関白も大いに同意した。主上(=孝明天皇)も大いに嘉納され、速やかに政事に閲する輩を召出され、ことのほか逆鱗された。このため、この頃は暴論の輩も大いに閉塞し、日頃勢いが挫かれた
村田 それは国家の御為に有難き事です。では、御親征は最早中止と決定したのでしょうか?
近衛 未だに中止とは仰出されぬが、こちらもそのような事があっては決して宜しくないと存ずるし、主上も決してそのような事はなさらぬ思召しなので、懸念はない積りだ
村田 主上を始め、殿下にもそれほどの御決心であられるのは、天下の為に誠に恐悦な事です。
近衛 このほど、三郎(=島津久光)を召すことになったのは、別に御内旨(=朝廷改革に協力するようにというもの)があるからなのだが、表向きはやはり御親征の為(=親征に協力するように)である

●久光上京前の急進派公卿の処分
近衛 このほど、三郎(=島津久光)を召すことになったのは、別に御内旨(=朝廷改革に協力するようにというもの)があるからなのだが、表向きはやはり御親征の為(=親征に協力するように)である。
村田 ただいま御親征はなさらぬ(天皇の)思召と伺いましたが、表面のみとは申しながら(親征のために)三郎をさえ召されるほどの御計画もある事です。万一にも、この上、その思召を御支(さ)え申し上げる様なことはないでしょうか。
近衛 全くそのような事がないとは申し難い。
村田 近来、殿下を始めとして、時々集会されていますし、さらに三郎を召される事にも既に内旨がありとの事であれば、彼輩(=急進派)は疑念を起こし、いついかなる「変動」に及ぶとも測りしれません。「此際断然の御處分」をなされる方が「万全」でしょう。
近衛 薩人よりも頻りに憤発せよと申すが、既に申し聞かせたように暴論の勢いは稍く挫かれた事ゆえ、今は「漸を以て施行」する積りである。しかしながら、この上差し置きがたい場合があれば、必ず憤発しよう。その時になれば充分尽力あるように予め依頼しておく。
村田 いよいよ御憤発を決断されれば、何時によらず二念なく奉公仕りましょう。今度、三郎を召される事になったのは尤の事ですが、薩は諸方より嫌疑を受けていますので、三郎上京後に御憤発があれば、実際は叡慮より出たとしても、世上では必ず三郎の所為だと疑うでしょう。こうなっては朝廷の威光に関わり、三郎も存じよらぬ迷惑をこうむることになります。されば、「三郎上着前速に御憤発」なされる方が朝廷の御為にも三郎の為にも然るべきです。此一事(=朝廷改革)は、(久光の)到着前後というわずかな違いで、皇国万安の御為に関係するところ少なくありません。なにとぞ篤と御考案をお願いいたします
近衛 (稍く了解の模様で)いかにも尤に存じるので、なお深く考案しよう

<ヒロ>
前日に再入京した村田は、その日のうちに薩摩藩士吉井幸輔に面会し、吉井から島津久光召命について知らされると、急進派から嫌疑を受ける久光の上京前の朝廷改革(急進派追放)決行を提案しました。吉井はこれに同意しましたが、近衛前関白らから暫く「鎮静」せよと釘をさされたばかりでもあり、村田から入説するよう求めていました(こちら)

久光には召命の沙汰を出したのに、越前藩には時機がくれば沙汰を出すのでそれを待つよう要請。温度差を感じます。越前藩の出兵については、近衛前関白が「心配」するほどの「容易ならさる風説」が流れていたわけで(おそらく、武力をもって朝廷を脅し、開国論に導くという類の噂だと思われます)この段階でも、警戒心をもっていたのかもしれません。

また、近衛前関白は、暴論の輩も大いに閉塞し、日頃勢いが挫かれたと述べていますが、急進派公卿は、7月6日、幕府への攘夷委任の不可&攘夷親征の布告を建言し(こちら)、翌7日、因幡藩主池田慶徳に攘夷親征布告を諮問、次いで9日には真木和泉を召出して親征に関する意見を質すなど、親征布告の実現に向けて活発に動いています。さらに、11日には、長州藩家老益田右衛門介・根来上総、攘夷親征等を建議するため入京。急進派はもりあがっている最中だと思うのです・・・。。

関連:テーマ別■「越前藩の挙藩上京(クーデター)計画」「久光召命」■春嶽/越前藩「事件簿文久3」 ■薩摩藩「事件簿文久3」日誌文久3
参考:『続再夢紀事』二p77-79(2004.9.21)

【京】因幡藩主池田慶徳、紀伊・播磨への監察使(11日任命)に勅使としての威厳を保たせるよう建議(『御伝記』二p406)

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