12 代 茂久 |
文久3 (1863) 詳細 年表 |
■将軍上洛延期運動2 文久2年12月22日、久光の命により、薩摩藩士大久保一蔵・吉井幸輔が入京し、親薩摩の近衛忠熙関白及び中川宮に、久光の将軍上洛延期建白書を差し出した(こちら)。大久保・吉井は、関白らの賛同を得た上で、孝明天皇の勅許も獲得し、幕府に周旋するために江戸に向った。翌文久3年1月、江戸入りした両名は、政事総裁職松平春嶽・前土佐藩主山内容堂に謁し、久光の将軍上洛延期案に同意を得た(こちら)。春嶽が老中の同意をとりつけると、朝命を周旋することになり、大久保が越前藩重臣中根雪江と共に京に向かった。しかし、長州藩を後ろ盾にした尊攘急進派に牛耳られた京都の情勢は厳しく、朝廷は将軍上洛延期の発令を中止した(こちら)。 使命を果たせなかった大久保は、1月21日、久光に上京を促す近衛の直書を携え、薩摩に向かった(近衛は23日に関白を辞職。代わって鷹司輔ひろが関白に就任)。将軍は2月13日に江戸を発ち、3月4日に入京した(こちら)。 ■久光、二度目の上京・わずか5日の滞京(公武合体派連合策の蹉跌) 久光は、3月14日になって、ようやく入京した。これより先、慶喜・春嶽・容堂らが上京しており、公武合体派連合策の周旋をはかったが、長州藩を後ろ盾とする尊攘急進派の勢いを覆せず、2月には攘夷期限を4月中旬(のちに5月10日に延期)と約束してしまった。大政委任の勅を得ようとする工作も失敗し、将軍参内時には、「征夷将軍の儀」委任・攘夷の尽力・事柄によっては諸藩に直接沙汰あり、という勅書が与えられた。この状況に、公武合体派連合策の主唱者である春嶽は、すっかり失望して、辞表を提出して引篭っており、久光と会おうともしなかった。 それでも、久光は、入京後、すぐに近衛前関白邸を訪ね、14条の建白書(攘夷の決議を簡単にしないこと、幕府へ大政委任することなど)を提出し、さらに外国拒絶をしないこと、尊攘急進派公卿に牛耳られた国事御用掛を廃止することなどを建議した(こちら)。しかし、朝幕の反応が思わしくないことから見切りをつけ、朝廷・幕府に上書を出すと滞京5日にして18日に退京し(こちら)、20日、大坂から海路帰国した。久光に続いて、21日は春嶽、26日には容堂、27日には宗城が退京し、3月末までに公武合体派有力諸候は京都からいなくなった。公武合体派連合策は完全に失敗に終わった。4月、幕府は将軍退京・下坂と引き換えに、攘夷期限を5月10日とすることを約束させられ(こちら)、慶喜は攘夷実行の責任者として東帰したが、5月には、とても無理だと後見職辞表を提出した。 ■姉小路公知暗殺(朔平門外の変)と薩摩藩の九門追放 5月20日夜、御所築地の朔平門外(猿が辻)で国事参政の姉小路公知(あねこうじ・きんとも)が暗殺された(こちら)。現場には、薩摩鍛冶の刀が残されていた。翌日、朝廷は、諸藩に外講九門の警備を命じ、薩摩は乾門の警備を命じられた。ところが、土佐浪士が暗殺者の刀を薩摩藩士田中新兵衛の差料だと証言したことから、25日、朝命により、田中が逮捕された(こちら)。26日、田中は自刃してしまったので真相は闇の中となった(こちら)が、尊攘急進派は薩摩藩の責任だと主張し、薩摩藩は御所警備を罷免され、九門内往来を禁じられた(こちら)。近衛前関白父子は、久光に書を送り、事件は薩摩を嫌い、貶めたい者の仕業だとの認識を伝えるとともに、上京を促した(こちらとこちら)。 ■久光に「急速上京」・「姦人掃除」の密勅 孝明天皇は公武一和思想の持ち主で保守的だった。門閥の低い公卿が過激な言動を繰り返し、自分の意思が貫徹しない朝廷に怒りを感じていた。そんな天皇の期待したのが、前年の寺田屋事件で過激派浪士を鎮圧した久光だった。5月30日、天皇は久光に対し、「急速上京」し、天皇の存意を「中妨」して「偽勅」を出す「姦人(=三条実美ら)掃除)」をせよとの密勅を下した(こちら)。中川宮・近衛前関白から密勅を預かった留守居本田弥右衛門(親雄)は、鹿児島に向かった(6月9日到着)。しかし、当時、英国艦隊が生麦事件償金支払を薩摩に迫るため、鹿児島に来航する可能性が高まっており、久光は動くことができなかった。 ■生麦事件償金支払-薩英戦争 英国は前文久2年の生麦事件の下手人引渡しと償金支払いを幕府と薩摩に求めていた。5月8日(攘夷期限の2日前)、幕府は、老中格小笠原長行の決断で償金を支払ったが(こちら)、英国は、次に薩摩と直接交渉するため、6月末、軍艦7隻を鹿児島湾に入港させた。交渉が行き詰まる中、7月2日、英国艦が薩摩藩船を拿捕したのがきっかけとなって薩摩藩が砲撃を開始し、戦端が開かれた(こちら)。損傷を受けた英国艦隊は、同月4日に鹿児島湾を去った。その後の薩英間の交渉で、11月1日、薩摩藩は償金を支払ったが、英国からは軍艦の購入を果たした。 ■攘夷親征論の高まりと久光召命問題 将軍家茂は、東帰を許されず、京都に引き留められていたが、すったもんだの末、外夷掃攘のための東帰を勅許され、6月9日、幕兵とともに退京・下坂し、13日に大坂を出港して東帰した(こちら)。このため、在京の幕府要人は、守護職・所司代・老中(淀藩)だけとなった。そして、将軍と入れ替わるように、真木和泉が入京して、攘夷親征論が一気に具体化した(こちら)。 孝明天皇は攘夷親征を好まず、近衛忠煕前関白父子・二条斉敬右大臣らも反対だったが(こちら)、尊攘急進派は攘夷親征(大和行幸)布告を頻りに迫った。一方、7月に入っても、久光からは密勅への返答がなかった。7月12日、天皇は、近衛前関白らの建議を容れて、終に久光に召命の沙汰を公に下した(こちら)が、わずか数日後、急進派に左右される朝議によって召命は撤回された(こちら)。天皇は激怒したが、急進派の勢いは収まらず、その直後から久光召命/親征反対派に対して脅迫が続いた(こちら)。 ■越前藩との同時挙藩上京計画 これより先、朔平門外の変で薩摩藩が厳しい立場に立たされた頃、越前藩は、挙藩上京して朝幕に(1)朝幕代表・外国公使の会議による開国鎖国の国是決定、(2)朝廷の裁断の権・賢明諸侯の大政参加、を藩論とし、それを雄藩数藩の大挙上京によって成し遂げようと考えていた(こちら)。越前藩は在京薩摩藩(高崎佐太郎・吉井幸輔ら)・肥後藩の同意を取り付け、7月上旬、挙藩上京を促すために、家老らを使者として鹿児島・熊本に差し向けた。越前藩の計画は、近衛前関白を通して孝明天皇にも達し、天皇はこれを歓迎した(こちら)。久光は、越前藩との同時上京・国事周旋に同意し、8月14日、返書を使者に託した。ところが、これより前、越前藩の藩論が一転して挙藩上京派は失脚しており(こちら)、計画は立ち消えになっていた。そして、在京薩摩藩は、まさに別の政変を起こそうとしていた。 ■会薩-中川宮連合による禁門の政変(8.18の政変) 朝廷は、8月13日、ついに攘夷親征を念頭においた大和行幸の詔を下した(こちら)。 在京薩摩藩は、即日、守護職会津藩・中川宮に働きかけて、両者と提携し(こちら)、18日、孝明天皇の了解の下、電撃的に政変を起こした(こちら)。その結果、長州・急進派勢力は一掃された。急進派公卿の言動は「叡慮を矯むること容易ならざる次第」であったと批判され、都落ちした三条実美ら七卿の官位は停止され、残留者の更迭や処罰が行われた(こちら)。長州藩に対しては、藩主父子取調べ、九門内の藩士往来禁止、藩主父子の上京禁止、留守居・添役以外の藩士帰国が命じられた(こちら)。 長州に同情的な諸侯は次々退京し、代わって、朝廷の召命により、久光、春嶽、山内容堂(前土佐藩主)、伊達宗城(前宇和島藩主)ら有力諸侯が上京した。 【関連:開国開城「大和行幸計画と禁門(8.18)の政変」「参豫会議の誕生・将軍再上洛と公武合体体制の成立」 ■久光、三度目の上京と密勅21か条 久光は10月3日に藩兵1万5千を率いて入京した。15日、久光は中川宮に対して(1)天皇・朝廷が旧弊を改めて、天下の形勢・人情・事変を洞察し、「永世不抜」の基本を立てるよう遠大な見識をもつこと、その上で(2)大策(=国是)決定には列藩上京による「天下の公議」を採用することを建白した(こちら)。孝明天皇は、11月15日、近衛前関白を通して、久光に宸翰(密勅21条)を下した。その主な内容は、8.18政変は天皇の意思であることの確認、武備不十分の状態での無理な攘夷の否定、激派の唱える王政復古の否定と幕府への大政委任の意向、三条実美ら七卿や鷹司関白への処分などで、旧来の公武合体体制を強く支持するものであった(こちら)。主要事項については久光の意見を問うものでもあった。久光は、29日、近衛前関白を通じて、基本的に天皇の意見を支持する奉答書(但し、攘夷については鎖港反対を主張)を提出した(こちら)。 ■越前藩との協調 久光は、春嶽入京の翌日に春嶽を訪れて、両者は、公武一和と、天理の公道に基づく開国を奏上することで意見が一致した。春嶽は、久光と連携しつつ、慶喜・容堂・宗城ら有力諸侯の再上京を待った。 11月26日、横浜鎖港問題に関して朝廷の召命を受けた後見職一橋慶喜が着京した(こちら)。すでに京都には春嶽、久光、宗城が入京しており、慶喜は彼らと集まって会合をもつようになった(容堂は12月28日入京)。 ■朝廷参豫会議の誕生 12月5日、慶喜邸における集会で、久光は、<公卿は優柔不断で、われわれ武家が決めても詮無く、このままではとうてい大事が行われがたい。この際、賢明諸侯を朝廷の議奏に加えるべきである>と提案した(こちら)。一同賛成し、朝廷から沙汰がでるよう薩摩藩が工作することになった。薩摩藩の朝廷工作の結果、12月30日に慶喜・春嶽・容保・容堂・宗城を朝議参豫に任命するとの沙汰が下りた。(久光は翌元治1年1月13日こちら)。以後、参豫諸侯は、朝議に参加し、雄藩の代表が国政の重要事項の決定に関与することになった(こちら)。 関連:開国開城「参豫会議の誕生・将軍再上洛と公武合体体制の成立」 ■長州藩の薩摩船襲撃事件(長崎丸砲撃事件、加徳丸焼き打ち事件) 12月24日、下関を航行中の薩摩船長崎丸(幕府から借用中)を長州藩奇兵隊砲撃・沈没させた。驚いた長州藩は、薩摩藩に使者を派遣して謝罪し、外国船と誤ったとして、収拾をはかり、なんとか全面対決を回避した(こちら)。ところが、翌元治1年2月12日、今度は薩摩藩御用船(加徳丸)が、上関において、長州藩義勇隊によって焼き打ちされ、船主大谷仲之進が殺害された。殺害犯とされる軽輩の義勇隊士2名は脱藩の上、26日、大坂で大谷を梟首し、薩摩の密貿易(綿、油、絹)への義憤によりやったという斬奸状を残して自決した(こちら)。両事件は、薩摩藩士を激昂させ、同藩の長州藩に対する不信と憎悪を増幅させた。(当時南北戦争で綿が不足になり、英国の紡績業が打撃を受けていたので、薩摩藩は、関西で綿を買い占めて長崎に送り、英国とひそかに取引をしていた) |
主要参考文献:(リンク先も参照してください)『玉里島津家史料』・『忠義公史料』・『続再夢紀事』・『維新史料綱要』・『幕末政治と薩摩藩』・『鹿児島県の歴史』・『島津久光と明治維新』 |
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