8月の「今日の幕末」 幕末日誌文久3) 事件:開国:開城 HP内検索  HPトップ

前へ 次へ

文久3年7月12日(8.25):
【京】久光召命:久光召命の沙汰。薩摩藩奈良原繁ら、鹿児島へ出発
再入京の村田、吉井幸輔に久光入京前の朝廷改革決行を説く
【京】攘夷親征:因幡藩主池田慶徳、水戸藩主徳川慶篤・一橋慶喜に対し、
親征論が起こったことを知らせ、幕府の決断を促す

■久光召命
(1)久光召命の沙汰
【京】文久3年7月12日、薩摩藩国父島津久光に対し、親征の「御用」を理由とする召命の沙汰が下りました。


「               島津三郎
夷賊の偽は雖為小醜、一般の人心ニ関係候ニ付、此節御親征の儀御用茂被為在候、就而は去春已来忠誠を尽候儀、御以来被遊候儀に候間、急々上京候様御沙汰候事、
   七月」

京都薩摩藩邸からは、奈良原繁(幸五郎)・税所容助(篤)が沙汰書及び近衛忠煕前関白父子・二条右大臣・徳大寺内大臣連署の書簡(こちら)を携え、鹿児島に出発しました(到着は20日)。

<ヒロ>
親征の「御用」のためとなっていますが、裏面の事情は(こちら)

なお、『真木和泉遺文』では、守護職松平容保の東下工作に失敗した真木は、大兵を擁する会津藩に対抗させるには長州藩では兵力不足であり、薩摩藩に目をむけました。ところが、在京の急進派は「薩を忌む。肥人尤甚」という状況で、「薩長合体」で朝廷を補佐するというわけにはいきませんでした。真木は数日熟考し、三条実美に久光の召命進言したところ、三条は大いに喜び、その翌日、召命の沙汰が下ったとされています。朝命が出ると、「諸有志不平を唱へ、然るべからざるを以て諸卿に迫り、又此事真木保臣の所為ならんと疑ひ、遂に八藩の有志南禅寺に会し、保臣を呼び、将に之を詰せん」としたそうです。

関連: 関連:■テーマ別「久光召命」 ■薩摩藩「事件簿文久3」日誌文久3

■越前藩挙藩上京計画(越・薩の政変計画)
(2) 久光上京前の政変決行計画
【京】文久3年7月12日、再入京した越前藩監察村田巳三郎(氏寿)が薩摩藩士吉井幸輔を訪ねところ、吉井は、久光召命の沙汰が下りたので、8月上旬には上京するだろうと語りました。村田が、急進派から嫌疑を受ける久光の上京前の朝廷改革決行を説くと、吉井は同意し、近衛前関白に入説するよう求めました

吉井 このたび、朝廷より、三郎(=久光)を召されることになり、本日、奈良原孝五郎(=幸五郎)・税所容助(篤)が鹿児島に出発した。両人は本月20日或いは21日頃に鹿児島に到着するだろうから、三郎の治装を約10日と見積もると、来月5日或いは6日頃には入京するだろう。

去る9日、吉井・奈良原が同道して桜木殿(=近衛邸)に参ったところ、前殿下は二条殿へ御集会だとのことだったので、さらに二条殿に参った。左大将殿(=近衛忠房)に拝謁して大和国行幸の速やかな延引を御決定になるように、さもなくば、必ず事変を生じるでしょうと申し上げた。左大将殿は、一応尤もには存ずるが、先日言上した意見書に対し、「奮発ハ見合せ尚鎮静を尤と思召さるる旨」の御沙汰があった故、急々に実行することは困難であると仰せられた。両人が、なお、時を過ごせば「甚た危かるへし至急御断行然るへし」と申し上げると、左大将殿は、では暫く待っておれ、といったん退出された。暫くして、再び御対面の上、二条殿に「深き存寄」があり、今度は他の周旋によらず「全くの叡断を以て仰出」される事にしたいと申し出られたので、暫くの間「鎮静」致しておれ、と仰せられたので、この上申し上げようもなく、それではと退出した。翌10日朝、吉井がまた桜木殿に参上したところ、前殿下・二条殿・徳大寺殿御列席にて、昨日左大将殿が仰せになった通り、暫く鎮静せよと仰せられた。
村田 今度朝議が三郎殿を召される事になったのは誠に至当で恐悦だが、三郎殿が出京されれば、議奏その他国事掛の輩(=攘夷親征を推す急進派公卿)の主張を悉く説破されるだろうか。
吉井 悉く説破することは困難だろう。
村田 説破が御行届にならぬのであれば、やはり「心得違の輩」(=急進派公卿)を「貶黜」(へんちつ:官位を下げること)するより他ないだろう。それは三郎殿上京後ではいけない。なぜならば、三郎殿の上京後に(朝廷の)要路の方の貶黜があれば、(急進派は)必ず三郎殿のせいにし、容易ならざる嫌疑を起こすだろう。元来、貴藩は(姉小路公知暗殺事件より)諸方から嫌疑を受けておられる上、今度尚またそのような嫌疑を重ねる事となれば、将来、朝廷の御ためにも貴藩の御ためにもよろしくない。されば、(久光の)着京前に(近衛前関白らと協力して)一日も早く(朝廷改革を)御決行され、事が端緒についたところへ三郎殿の入京となり、その上、事に御尽力されれば、殊に好都合であろう。
吉井 同意だが、すでに申し述べた通り(=近衛前関白らに暫く鎮静するよういわれたことを指す)なので、また同様のことを主張するのは難儀である。今度は貴君より充分入説されるよう願いたい

<ヒロ>
これより先、7月2日、吉井幸輔は奈良原幸五郎とともに、村田を訪ねて、近衛前関白らが天皇に攘夷親征(大和行幸)反対を上申する計画があり、同意見の天皇も賛成するだろうという見込みを伝えるとともに、叡慮が確定した上で、「暴激之徒」がなおも親征を強行しようとするなら、彼らを朝敵として直ちに討伐すべきだと主張していました(こちら)

●おさらい
○越前藩の挙藩上京計画
越前藩では、6月1日に、「身を捨て家を捨て国を捨る」覚悟で挙藩上京して(1)各国公使を京都に呼び寄せ、将軍・関白を始め、朝廷幕府ともに要路が列席して彼我の見るところを講究し、至当の条理に決すること、(2)朝廷が裁断の権を主宰し、賢明諸侯を機務に参与させ、諸有司の選抜方法としては幕臣だけでなく列藩中から広く「当器の士」を選ぶよう定めることを決めましたが(こちら)、4日には慎重論を説く中根雪江の意見を容れたかたちで、京都に藩士を送り、その報告をもとに進発日を決めることにしました(こちら)

○久光に「急速上京」・「姦人掃除」の密勅
一方、久光退京後の薩摩藩は、5月20日の朔平門外の変(姉小路公知殺害事件こちら)で疑惑をもたれ、厳しい立場に立たされていました。25日には姉小路暗殺犯として田中新兵衛が逮捕され(こちら)、翌26日には自刃しました(こちら)。尊攘急進派は薩摩藩の責任だと主張し、薩摩藩は御所警備を罷免され、九門内往来を禁じられました(こちら)。この頃、急進派は「増長」して、天皇の「真実之御趣意」は「不貫徹」という状況にあり、近衛前関白父子は、26日、久光に書を送り、事件は薩摩を嫌い、貶めたい者の仕業だとの認識を伝えるとともに、上京を促しました(こちらこちら)。このような状況下、5月30日、孝明天皇は久光に対し、「急速上京」して、天皇の存意を「中妨」し、「偽勅」を出す「姦人(=三条実美ら)掃除)」をせよとの密勅を、中川宮・近衛前関白を介して下しました(こちら)。密勅を渡された留守居本田弥右衛門(親雄)は、京を発ち、鹿児島に向かいました(6月9日到着)。ところが、この頃、英国艦隊が、生麦事件償金支払を薩摩に迫るため鹿児島に来航する可能性が高まっており、久光は動くことができませんでした。

○越前藩と薩摩藩・肥後藩の同時上京計画
入京した越前藩監察村田氏寿らは、薩摩藩・肥後藩に藩論を説明し、提携をもちかけました。6月12日には、薩摩藩士高崎左太郎(正風)・吉井幸輔を訪ね、彼等の同意を得たものの、時機を待つよう助言されました(こちら)。翌13日には、肥後藩沼田勘解由に越前藩の計画を伝え、藩主細川慶訓の弟・長岡良之助(護美)の上京を促しました。沼田は個人としては同意しましたが、藩として動くには、春嶽が藩主に直書を送って説得することが必要だとの認識を示しました(こちら)。越前藩は薩摩・肥後に使者を送って同時上京を促す方針を固め、7月5日、越前藩家老岡部豊後・酒井十之丞・三岡八郎(由利公正)が熊本・鹿児島に向けて出立しました(こちら)。(鹿児島入りは8月上旬)。

○攘夷親征論の高まり
この間、京都では尊攘急進派がますます勢力を伸ばしました。6月9日には、将軍家茂が東帰のために幕兵とともに退京・下坂し(こちら)、13日に大坂を出港しました(こちら)。そして、将軍と入れ替わるように、真木和泉が入京して、攘夷親征論は一気に具体化しました(こちら)。 しかし、孝明天皇は攘夷親征を好まず、近衛忠煕前関白ら朝廷上層部も反対でした(こちら)。 7月5日には、近衛前関白父子・二条右大臣・徳大寺内大臣が連署して、攘夷親征に関して外様藩を含む諸大名を召して衆議をこらすようにと上書しましたが(こちら)、急進派公卿は、翌6日には、将軍へ攘夷委任の不可&攘夷親征の布告を建言し(こちら)、翌7日、因幡藩主池田慶徳に攘夷親征布告を諮問、9日には真木和泉を朝廷に召し出して攘夷親征論を披露させるなど(こちら)、親征実現に向けて活発に動きました。さらに、11日には、長州藩家老益田右衛門介・根来上総が、藩命により、攘夷親征等を建議するため入京してきました・・・。

○越・薩連合による久光上京前の政変決行案
越前藩の挙藩上京計画は、6月下旬には、肥後藩の宮部鼎蔵経由で、急進派に漏れていきました。越前藩が会津藩・加賀藩と組んで密かに政変を起そうと計画しているという噂も流れ、これをききつけた吉井・奈良原は、7月2日に村田を訪ね、約100名という小兵ながら薩摩藩も協力したいと申し入れました。村田が噂を否定すると、両人は、近衛前関白らが天皇に攘夷親征(大和行幸)反対を上申する計画があり、同意見の天皇も賛成するだろうという見込みを伝えるとともに、叡慮が確定した上で、「暴激之徒」がなおも親征を強行しようとするなら、彼らを朝敵として直ちに討伐すべきだと主張しました(こちら)。4日、村田は、近衛前関白を訪ねて挙藩上京の藩論を説明し、「御用」があればいつでも上京する決意があると述べました。前関白は、攘夷親征/行幸は叡慮ではなく、自分や鷹司関白も同心なのだが、「暴激之輩」(=急進派)のせいで存意が通らないと朝廷の内情を語るとともに、藩論には同意するが、上京は時機を待ち、今は「傍観」するよう諭しました。その日のうちに、村田は上京猶予を具申するため、福井に発ちました(こちら)

関連:テーマ別■「越前藩の挙藩上京計画(越・薩の政変計画)」「久光召命」「大和行幸と禁門の政変」■春嶽/越前藩「事件簿文久3」 ■薩摩藩「事件簿文久3」
参考:『続再夢紀事』ニ・『七年史』一(2004.9.20)
【京】因幡藩主池田慶徳、水戸藩主徳川慶篤・一橋慶喜に対し、書を送り、親征論が起こったことを知らせ、破約攘夷断行を促す。この日出京の水戸藩尼子長三郎に託す(「御伝記」二p403-405)

前へ 次へ

幕末日誌文久3 テーマ別文久3 事件:開国:開城 HP内検索  HPトップ