9月の「今日」 幕末日誌文久3 テーマ別文久3  事件:開国-開城 HP内検索 HPトップへ

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文久3年7月27日(1863.9.9):
【京】中川宮、急進派の嫌疑を晴らすため暫く薩摩藩と音信普通にすると、
同藩高崎左太郎に告げる
【京】親征反対派へのテロ:浪士、二条斉敬右大臣の「落胤」暗殺。
【京】反越前上京テロ:春嶽上京時の宿舎に予定された高台寺、放火される

■中川宮と薩摩藩
【京】文久3年7月27日、中川宮は、尊攘急進派の嫌疑を晴らすために、薩摩藩としばらく音信普通にするので、久光にもよろしく言上するよう、同藩士高崎左太郎(正風)に告げました。


7月27日、中川宮へ参殿し、戦争の次第を申し上げた。感無量であられた。(中川宮への)嫌疑も、最近薄くなったが、それで「少シ暴論家之心に叶」ったのか、「御親征一條」を迫られるので「大ニ心配」している、とのお話しであった。さらに、宮は「薩ヲ離候得は、疑晴候様之気味」なので、「此涯暫時之処、音信普通」にするので、三郎様へもよろしく申し上げるようにと言われた。
(出所:8月5日付中山中左衛門様・大久保一蔵様宛高崎左太郎書簡『忠義公史料』p63より作成)

<ヒロ>
この日、真木和泉が中川宮を訪ねていますので(「文久癸亥日記」『真木和泉守遺文』p603)、真木から何かいわれたのではと推測します。

■攘夷親征反対/久光召命派への「天誅」(テロ)
【京】文久3年7月27日、紫野大徳寺北紫竹において、二条斉敬右大臣の落胤とされる二条寛斎夫婦が殺害されました

二条邸には7月20日に脅迫状が届いていました。その内容は、(1)姦吏(幕吏)に通じていること、(2)攘夷親征に反対していること、(3)島津久光召命の周旋をしたこと、(4)姉小路公知暗殺をきっかけに禁止されていた薩摩藩士の九門内往来の許可を周旋したことを罪としており、付箋には、もし(改心を)遅滞すれば島田・宇郷のように誅戮を加えることが予告してあったそうです(こちら)。

<ヒロ>
寛斎夫婦の殺害は二条右大臣に自分たちは本気だと脅しをかけるものだったのではと思います。

参考:『七年史』一p396-397(2001.9.9)

■反・越前藩上京
【京】文久3年7月26日夜〜27日暁、挙藩上京計画時に春嶽・茂昭の宿舎に予定されていた高台寺が、尊攘急進派による焼き討ちにあい、焼失しました。放火の趣意書には、同様の者には同じ罰を加えるとありました。

「高台寺奸僧共、朝敵松平春嶽に寄宿差許候談、不届至極に付、放神火焼捨候。向後右様之者於之有は可處同罪者也」

『東西紀聞』によれば、26日夜八ツ時に燃え始め、朝六ツ時に鎮火したそうです。

●春嶽上京の風聞
春嶽/越前藩上京計画は、既に、6月下旬までには急進派の中心的存在、真木和泉、宮部鼎蔵、久坂玄瑞らに察知されており、彼らから三条実美に「越を拒之策」が献じられたことが、真木の日記からうかがわれます。この頃には、朝野の急進派は、今にも春嶽が上京すると思っていたようです。春嶽上京時には芸州・久留米藩が阻止するという風聞も流れていたようで、この日、中山忠能が伝奏野宮定功にその真偽を尋ねています。

確かに、越前藩では、政事顧問の横井小楠の建議を入れて、(1)各国公使を京都に呼び寄せ、将軍・関白を始め、朝廷幕府ともに要路が列席して彼我の見るところを講究し、至当の条理に決すること、(2)朝廷が裁断の権を主宰し、賢明諸侯を機務に参与させ、諸有司の選抜方法としては幕臣だけでなく列藩中から広く「当器の士」を選ぶよう定めることを朝廷・幕府に言上することを藩論としました。さらに、それには、「全君臣必死再び帰国致し申さず」との覚悟でならねばと、挙藩上京することを定めていました。しかし、7月23日に藩論が一転して挙藩上京派が更迭されるており(こちら)、同月25日にはキーパーソンの村田氏寿(巳三郎)も帰国のため退京していました(こちら)。

なお、『京都守護職始末』では春嶽は京都の情勢の不穏さを案じて上京を計画したと記されており、会津藩関係者が後年にいたるまで真実を知らなかったことがうかがえます。

関連:■「開国開城」「大和行幸計画と「会薩−中川宮連合」による禁門(8.18)の政変」■テーマ別:「越前藩の挙藩上京(政変)計画」■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年」
参考:『続再夢紀事』ニp83・『東西紀聞』一p763『京都守護職始末』・『七年史』一(2001.9.9、2004.9.25)

【京】真木和泉、中川宮訪問(『遺文』)p603

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