9月の「今日の幕末」 幕末日誌文久3 テーマ別文久3 事件:開国:開城 HP内検索 HPトップへ
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■攘夷親征問題 (1)急進派の参内スト 【京】文久3年7月20日、諸大名の意見が通ることに不満をもった議奏らは朝廷に出仕しませんでした。 この日、議奏らが出仕せず、鷹司関白が憤って出仕を求めたところ、「大名の意見通りては堂上の意見相立ず」と不参を主張したそうです。強いて出仕を命じたところ、広橋大納言や徳大寺内大臣くらいが出仕し、その他は二条右大臣、近衛忠房がいるのみで、朝議にならなかったそうです。 <ヒロ> 結果として、この日、朝廷では、長州藩の親征の建白について評議できませんでした。 急進派の参内ストです。前夜、鷹司関白が諸大名を呼んで親征の評議をさせたこと、その結果、慎重論ばかりが出て(こちら)、攘夷親征活動に水を差されたことに不満をもったようです。恐らく申し合わせてストしたのでしょう。急進派公卿のバックにいる浪士/長州藩から参内せぬよう圧力がかかったかもしれません。徳大寺内大臣は久光召命・親征慎重派ですが、前19日夜、浪士により家臣が殺害されており、恐怖から、最初、出仕をためらったのかもしれません。 参考:『贈従一位池田慶徳公御伝記』二p411(2012.12..22) ■攘夷親征&天覧馬揃 (2)天皇、因幡・備前・会津のうち二藩の馬揃を希望する 【京】文久3年7月20日、孝明天皇は関白鷹司輔煕に対し、因幡・備前・会津のうち二藩による馬揃を命じたいと述べました。 前19日の鷹司邸での評議の後、因幡藩主池田慶徳は<天皇・公卿が、大兵を擁する会津や在京諸藩の武備を見て砲撃に慣れてから、親征の可否を議するべき>だと、天覧馬揃(天皇の前での軍事調練)を進言していました(こちら)。この日、鷹司関白が馬揃の件を天皇に言上したところ、天皇は、まず因幡・備前・会津のうち二藩による馬揃の開催を命じました。 鷹司関白は、早速、慶徳に親書を送り、これを内示しました。 関白の書状の概容は以下の通り。
また、別紙にて、鷹司関白は急進派公卿に「苦心」し、「痛心」していることを慨嘆しました。
<ヒロ> 孝明天皇は、かねてより、急進派を掣肘しうる会津藩の軍事力に密かに期待するところが大きく(「朕が尤会津を頼みとし・・・事有るに臨んで、其力を借らんと欲する」こちら)、急進派の工作による容保東下を留めたほどでした。会津の馬揃えに大いに興味を示したことは容易に想像できると思います。因幡藩は提案者であり、備前藩は因幡藩と藩主が実の兄弟で「ニコイチ」みたいなものですから、候補にあがったのもわかるような気がします。慶徳が攘夷親征布告見送りの建白をしたことも、天皇は知っているでしょうし。両候は鷹司関白には従兄弟にあたる(祖父が水戸6代徳川治紀)ので、関白がおしたかもしれません。 でも、なぜ、三藩のうち二藩なのでしょう??? 参考:『贈従一位池田慶徳公御伝記』二p412(2012.12.29) 関連:■テーマ別 「大和行幸と禁門の政変」「因幡藩文久3後半」■開国開城:「大和行幸計画と「会薩−中川宮連合」による禁門(8.18)の政変」 ■親兵の御所警備進出(I) (3)親兵による内講六門の警備 【京】文久3年7月20日、御所内講六門(御所のうちでも天皇の居住区である内裏を囲む六門で重要)の諸藩の親兵による交替警備が決定されました。(御所の模式図) 合計27藩(肥後・宇和島・姫路・松代・桑名・津山・忍・久留米・芸州・備前・小田原・佐倉・水戸・因幡・白河・久保田・庄内・阿波・大垣・淀・中津・讃岐・松江・筑前・郡山・米沢・伊予)の各藩の差し出す親兵が、交替で、建春・平唐・准后・台所門等を守衛することになりました。 <ヒロ> 尊攘急進派の攻勢です。 ○親兵に係る急進派の思惑 朝廷からの度重なる要請により、幕府は、文久3年3月18日、十万石以上の大名に対し、「一万石に一人の割合で、健康・行状・武勇の秀でた者を選び、御守衛として京都に差出し、その取締は各主人で厚く世話し、一年をもって交替するように」と通達しました(会津藩は、全藩が親兵であるという理由で親兵差出はなし)。急進派は、親兵の職掌は御所守衛で、その統括者は公卿であるべきだと考えていました。4月3日、三条実美が京都御守衛御用掛に任命されて親兵の統括者となりました。一方、親兵による御所警備は実現しませんでした。 ○諸藩による御所警備体制確立 5月の姉小路公知殺害事件を機に、諸藩に御所外構九門・六門警備が命じられました。特に九門警備については、尊攘急進派の後ろ盾である長州や親長州の諸藩が多く含まれましたが、あくまでも警備につくのは藩士であり、統括者は各藩の責任者でした(こちら)。次いで、内講六門警備も親兵ではなく、五藩に命じられました(こちら) ○守護職会津藩の御所警衛主導権確保 しかも、御所警備は急進派が目の敵にする会津藩が主導権を握っていました。当初、九門警備に会津藩は含まれませんでしたが、会津側が執拗に要請したため、水戸藩に割り当てられた蛤門警衛が会津藩に割り当てられました。さらに、内講六門については、やはり会津藩の要請の結果、特に重要な西側三門(公家の出入りする唐門含む)の警衛を会津・所司代で独占していました。 ○守護職主導の警備体制への攻勢 この日の決定により、急進派の思惑通り、公卿の統括下、親兵による御所警備が開始されることになりました。守護職・所司代が主導する警備体制が崩れ、守護職・所司代で独占していた西側三門の警備さえ諸藩親兵と分担する可能性がでてきたわけです。三条は、御所内の親兵宿舎・調練場創建工作も進めており、これが実現すれば、親兵が御所内に起居することになります。守護職会津藩への挑発だといってもいいと思います。 御所内講六門警備体制
●親兵の御所警備進出の背景 御所(皇居・公家居住地)の警護は、従来、所司代の主導下、近畿諸藩が行ってきました。しかし、文久2年になって、諸藩−特に長州藩−の中から親兵を徴するという議論が起り、10月5日、薩長土の有志が親兵設置を建議しました(こちら)。これを受けた朝廷では、11月の勅使東下の際、諸藩から選抜した者を朝廷の親兵として京都守護にあたらせるよう評議せよという沙汰を伝えました(こちら)。幕府は、諸藩に京都守護の主導権を奪われることや朝廷の兵権回復を恐れ、寄せ集めとなる親兵は実効がないと、12月5日、親兵設置は請けませんでした(こちら)。もちろん、京都守護職に命ぜられ、一藩をもって親兵として京都守護にあたる決意の会津藩も、親兵設置には猛反対でした。勅使は親兵設置要求を貫徹せぬまま江戸を出立しました(こちら)。 その後、将軍上洛を前に、親兵設置の議論はますます高まり、文久3年2月22日(21日?)、先発上京していた後見職一橋慶喜は、機先を制する形で、親兵は、守護職の指揮下、畿内・近国の諸侯(譜代大名です)に半年交代で勤めさせたいと建議しました。親兵を朝廷に付属させるのではなく、守護職に付属させることにより、幕府がコントロールしようという意図でしたが、朝廷は受け入れませんでした(こちら)。一方、朝議を支配している急進派の国事寄人は、親兵は諸藩から石高に応じて出させること、公卿が統帥すべきこと、御所内に宿舎を設けて日々鍛錬させること、草莽のうち有為な者も召し出ささせること、親兵は御所の守衛を職掌とし、その他の警衛は従来通り諸藩が行うこと、親兵の手当・食料・武備は諸藩に賦課すること、を主張しました(こちら)。 同年2月27日、慶喜と総裁職松平春嶽は、参内し、国事掛と議論をしましたが結着せず、終には親兵設置の可否は諸侯に諮問して「天下の公論」によって定めることを具申し、了承を得ました。ところが、その夜、朝廷は、突然、諸侯に対し、帰国時には朝廷警衛のために人数を出すよう発令しました。急進派の主導で出されたもので、実質的な親兵設置の沙汰でした(こちら)。次いで28日、長州藩が、親兵に藩士(一万石あたり一人:合計37名)を献じたいと請願し(こちら)、3月6日、朝廷は、幕府の反対を押し切る形で、これを許しました。 将軍は3月4日に上洛しましたが、幕府は、未だ親兵設置を請けていませんでした。14日、ついに朝廷は、「名目は御守衛でもよいので、10万石の大名から人数をさしだすよう、申達すべし」と親兵設置の命を下しました。これを請け、幕府は、18日、十万石以上の大名に対し、「一万石に一人の割合で、健康・行状・武勇の秀でた者を選び、御守衛として京都に差出し、その取締は各主人で厚く世話し、一年をもって交替するように」と通達したのでした(もちろん、会津藩は、全藩が親兵であるという理由で、特別に藩士を献じることはありませんでした)。4月3日には、親長州の急進派公卿・三条実美が京都御守衛御用掛に任命され、親兵を統括することになりました。急進派の主張のうち、諸藩の石高に応じた親兵差出し、公卿による親兵統括が実現したわけです。 三条は、御所内の親兵宿舎・調練場創建についても工作を進めました。7月3日、三条は、国事諮問を命じられた慶徳に対し、宮中における(親兵のための)撃剣場創建を相談しました。翌4日、慶徳が実家の水戸藩に相談したところ、<武場創建は問題ないが剣客の寄宿はどうか。また、建白人となることは支障がありお断りする。三条中納言より当方家来に同様のお尋ねがあったが右のように返答した>と色よい反応がありませんでした。しかし、5日、伝奏から催促があり、慶徳は、単独で武学寮創建の建白書を提出しました(こちら、7日には、慶徳を召して国事の諮問がありましたが、その議題の中には撃剣場創建が含まれていました(こちら)。 関連:■「開国開城」:第2の勅使三条実美東下と攘夷奉勅&親兵問題」 ■テーマ別文久3年:「親兵設置&宮門警備問題」 参考:『維新史料綱要』四p502・『幕末政治と倒幕運動』(2001.9.2, 2012.12.30) ■親征反対&久光召命派への「天誅」 (3)近衛前関白、二条右大臣、徳大寺内大臣への脅迫 【京】文久3年7月20日夜、公武合体派の近衛忠煕(前関白)、二条斉敬(右大臣)、徳大寺公純(内大臣)の屋敷に脅迫状が投げ込まれました。 投書は、(1)姦吏(幕吏)に通じ、逆賊から賄賂を受けて周旋していること、(2)幕府への攘夷委任に賛成し、攘夷親征に反対していること、(3)島津久光召命の周旋をしたこと、(4)姉小路公知暗殺をきっかけに禁止されていた薩摩藩士の九門内往来の許可を周旋したことを罪としており、さらに付箋には、もし(改心を)遅滞すれば島田・宇郷のように誅戮を加えることが予告されていました。 <ヒロ> 前19日夜には、徳大寺内大臣の家臣滋賀右馬允が殺害され、二条右大臣家諸大夫の北小路冶部権少輔宅が襲撃されたばかりでた(北小路は不在であり、難を免れました)。 参考:『七年史』一p386-387(2004.9.22) 関連:■「開国開城」「大和行幸計画と「会薩−中川宮連合」による禁門(8.18)の政変」■テーマ別文久3年:「島津久光召命」「大和行幸と禁門の政変」 ■島津久光召命 (3)奈良原幸五郎、鹿児島到着 【薩】文久3年7月20日、奈良原幸五郎(繁)が久光召命の沙汰書、久光の急速上京を求める近衛前関白書簡を携えて帰国しました。 奈良原は同月12日に京都を出立していました(こちら)。しかし、久光は2日に勃発した薩英戦争(こちら)の処理で動くことが難しい状況でした。(ちなみに、奈良原繁は、生麦でリチャードソンに斬り付けた奈良原喜左衛門の弟です)。 関連:■「開国開城」「大和行幸計画と「会薩−中川宮連合」による禁門(8.18)の政変」■テーマ別文久3年:「島津久光召命」「大和行幸と禁門の政変」 ■薩摩藩日誌文久3 【京】因幡藩主池田慶徳、備前藩主池田茂政、二条右大臣邸訪問。(『御伝記』二p411) |
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