9月の「今日」 幕末日誌文久3 テーマ別文久3 事件:開国-開城 HP内検索 HPトップへ
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■越前藩挙藩上京計画(政変計画) (1)【越】文久3年7月23日、挙藩上京(参府延期)の藩論が逆転し、挙藩上京派(参府延期派)の本多飛騨・松平主馬・長谷部甚平・千本藤左衛門が解職されました。 ●おさらい:藩主参府問題(参府派vs挙藩上京/参府延期派) 先日来、松平春嶽(前藩主)・茂昭(現藩主)とともに挙藩上京する藩論(すなわち、7月に定められた藩主茂昭の参府延期)を強く推進してきたグループは、本多飛騨(執政)・岡部豊後(執政)・松平主馬(執政)・牧野主殿介(番頭)・長谷部甚平(寺社奉行・御勝手御用心得)・千本藤左衛門(監察)・村田巳三郎(村田氏寿/監察)・三岡八郎(由利公正/郡奉行・御勝手御用心得)等、それに政治顧問の肥後藩士横井小楠という、藩政改革派でしたでした。 挙藩上京をにらんだ茂昭の参府延期は、6月14日、参府派(保守派)の中根雪江が退けられていよいよ決定的になっていましたが、藩士の中には参府すべきとする者、中根の処分を不当とする者も少なくなく、参府派は、ことに、同月16日・24日と幕府から出府を促された後は、参府せねば親藩の義務を欠くことになると、頻りに異議を唱えたそうです。とはいえ、参府延期は既に決定したことであり、越前藩では、6月26日・7月4日に、病気が快方に向かえば参府するとの届けを幕府に提出し、去る7月18日には、毛利鹿之介に参府延期の事由書を携えて出府させていました。 もちろん、当の春嶽・茂昭も、「近来幕府の躰態違乱を極めし故、天下は土崩瓦解にも至るへきか、此時に当り外人等若隙に乗して奸猾を逞しくせんには開闢已来金■(おう)無缺の国體も如何なり果つべきや」と憂慮して、参府の時期が迫るにも関わらず上京して国事に尽力する決意だったそうです。ところが、7月6日に京都から帰った村田が、中根雪江同様に未だ挙藩上京の時機ではないと具申したこともあり(こちら)、際限なく参府を延期することはどうか・・・という議論が持ち上がり、18日に出発した毛利を止めて、執政以下要職に再議させました。本多ら参府延期/挙藩上京派は前議をとって参府延期を主張しましたが、その言論がかなり過激になったので、ついに解職させられてしまったのだそうです。(参府延期-挙藩上京派のうち、岡部・三岡は肥後・薩摩に藩論を説いて上京を促すために出張中で、牧野・村田は上京中で、福井にいませんでした)。 <ヒロ> う〜ん・・・・。なんというタイミング。実は、7月12日に京都に戻った村田は、久光召命という新展開に、久光上京前に朝廷改革すべきだの判断をしており(こちら)、その方向で薩摩藩や朝廷に周旋していました(こちら)。これが成れば挙藩上京を促しに福井に戻ったはずなんですよね。このへんの状況が福井には伝わっていなかったのでしょうか。 このように、参府延期派の更迭によって藩論は逆転してしまうのですが、このへんが、親藩だった越前藩の限界なんでしょうか・・・・・・。ここでふんばっていれば、薩摩・越前主導の朝廷政変が実現していたのではと想像するのですが・・・。(緊急避難的な薩摩・会津提携の禁門の政変に比べて、政変後のビジョンがあるので、迷走もなかったと思います) ●おさらい:越前藩の挙藩上京計画ー薩摩・肥後との提携 越前藩では、文久3年6月1日に、「身を捨て家を捨て国を捨る」覚悟で挙藩上京して(1)各国公使を京都に呼び寄せ、将軍・関白を始め、朝廷幕府ともに要路が列席して彼我の見るところを講究し、至当の条理に決すること、(2)朝廷が裁断の権を主宰し、賢明諸侯を機務に参与させ、諸有司の選抜方法としては幕臣だけでなく列藩中から広く「当器の士」を選ぶよう定めることを決めましたが(こちら)、4日には慎重論を説く中根雪江の意見を容れたかたちで、京都に藩士を送り、その報告をもとに進発日を決めることにしました(こちら)。 ○薩摩藩・肥後藩との同時上京 6月6日、越前藩監察村田氏寿ら挙藩上京派が入京し、12日薩摩藩士高崎左太郎(正風)・吉井幸輔に藩論を説きました。高崎・吉井は同意したものの、時機を待つよう助言しました(こちら)。翌13日には、肥後藩沼田勘解由に越前藩の計画を伝え、藩主細川慶訓の弟・長岡良之助(護美)の上京を促しました。沼田は個人としては同意しましたが、藩として動くには、春嶽が藩主に直書を送って説得することが必要だとの認識をしめしました(こちら)。越前藩は薩摩・肥後に使者を送って同時上京を促す方針を固め、21日、村田は在京薩摩・肥後両藩に使者の領内支障がないよう協力を依頼しました(こちら)。7月5日、越前藩家老岡部豊後・酒井十之丞・三岡八郎(由利公正)が熊本・鹿児島に向けて出立しました(こちら)。(鹿児島入りは8月上旬)。 ○挙藩上京の見合わせ この間、尊攘急進派がますます勢力を伸ばしました。6月9日には、将軍家茂が東帰のために幕兵とともに退京・下坂し(こちら)、13日に大坂を出港(こちら)したため、在京の幕府要人は、守護職(会津藩)・所司代(桑名藩)・老中(淀藩)だけとなりました。そして、将軍と入れ替わるように、真木和泉が入京して、攘夷親征は一気に具体化しました(こちら)。孝明天皇は攘夷親征を好まず、近衛忠煕前関白父子・二条斉敬右大臣らも反対でしたが(こちら)、尊攘急進派は攘夷親征布告を頻りに迫りました。 7月2日、薩摩藩の吉井幸輔・奈良原繁が村田を訪ね、近衛前関白らが天皇に攘夷親征(大和行幸)反対を上申する計画があり、同意見の天皇も賛成するだろうこと、なお天皇の決定に反対する「暴激之徒」は朝敵として討伐すべきだと主張しました(こちら)。4日、村田が、近衛前関白を訪ねて挙藩上京の藩論を説明すると、忠煕はこれに同意したものの、急進派の国事掛が牛耳る朝廷の内情を語り、上京は時機を待つよう諭しました。この日のうちに、村田は京を発って福井に向かいました。京都の情勢をみるに、未だ春嶽父子の上京すべきときではないこと、また、近衛前関白らの意見書が一両日中に決定されれば諸侯を召し出すこともあるだろうことから、とにかく急いで上京すべきではないとの見込みを具申するためでした(こちら)。 ○急進派公卿の処分の主張 7月12日、再上京した村田は、薩摩藩の吉井幸輔から、前11日に久光召命の沙汰が下りたことを知らされました。村田が久光上京前の朝廷改革決行を説くと、吉井は同意し、近衛前関白に入説するよう求めました(こちら)。翌13日、近衛忠煕前関白を訪ねると、前関白は、越前藩の国論を天皇に奏上したところ、尤に思召され、頼もしい事だとの御沙汰があったと伝えました。また、村田が主張する久光上京前の急進派処分については、尤であり勘考しようと答えました(こちら)。ところが、17日、急進派公卿の圧力で、久光召命の沙汰は取りやめになってしまいました。 (薩摩藩でも動きがあります↓) 参考:『続再夢紀事』ニ(2004.9.24) 関連:■「開国開城」「大和行幸計画と「会薩−中川宮連合」による禁門(8.18)の政変」■テーマ別文久3年:「越前藩の挙藩上京(政変)計画」「大和行幸と禁門の政変」■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年」 ■親兵の御所警備進出 (2)【京】文久3年7月23日、朝命により、久留米・薩摩・盛岡・芸州・小田原・佐倉・水戸・因幡藩の親兵の交番による唐門(公家門)内の警衛が開始されました。(御所の模式図)
<ヒロ> 親兵は諸藩の藩士ですが、朝命により、京都守衛掛の三条実美が統括責任者となっています。唐門は、御所のうちでも天皇の居住区である内裏を囲む六門の中で、公家が出入りする最も重要な門で、守護職会津藩の強い要請により、文久3年5月27日以降、会津・所司代が警衛を担当していました。3日前には内講六門の諸藩(27藩)親兵交替による警衛が命じられており、それに続く、親藩の六門警備進出となります。六門外に続き、重要な唐門内に諸藩の親兵が配置されることに、会津藩は穏やかならぬ気持ちだったことと推測します。(親兵の御所警備進出の背景は7月20日の「今日」(こちら)) ●おさらい 御所(皇居・公家居住地)の警護は、従来、所司代の主導下、近畿諸藩が行ってきました。 ○外構九門警備体制 御所内講朔平門外で起きた姉小路公知殺害(こちら)にショックを受けた朝廷は、文久3年5月21日、備前・薩摩・因幡・水戸・仙台・長州・肥後・土佐・阿波の九藩に外講九門外の警備を命じました(こちら)。守護職会津藩は姉小路暗殺後、ただちに外講九門警備を朝廷に申し出ましたが、「衆人疑念ヲ懐候会津」ゆえ叶いませんでした。しかし、嘆願し続けた結果、朝廷は、やむなく蛤門前の警備を水戸藩から会津藩にふりかえました。29日には、姉小路殺害で嫌疑を受けた薩摩の乾門警備が罷免(出雲藩に交替)となりました(こちら)(同時に薩摩藩関係者の九門内往来も禁止されましたが、こちらは6月11日に許されました)。 ○内構六門警備体制 会津藩は九門警備だけでなく、六門警備を強く嘆願しました。その結果、5月27日、朝廷は、御所内講六門の警備を会津藩・所司代・中津藩・米沢藩・芸州藩・小松藩に命じました。会津以外の藩が含まれるのは、会津一藩に内講警備を担当させることに他藩が不満をいだいたためですが、六門のうち、御所警備の要となる西側の三門は守護職・所司代が警備を担当しました(こちら)。ところが、この守護職主導の六門警備体制は、7月20日、諸藩(合計27藩)の親兵による交替警備開始により、崩れました(こちら)。 内講六門警備体制(文久3年7月23日時点)
外講九門(外)警備体制(文久3年7月23日時点)
参考:『水戸藩史料』p441(2004.9.22、2012.12.30) 関連:■「開国開城」:第2の勅使三条実美東下と攘夷奉勅&親兵問題」 「大和行幸計画と「会薩−中川宮連合」による禁門(8.18)の政変」■豆知識:御所の九門・六門の模式図)■テーマ別文久3年:「朔平門外の変(姉小路公知暗殺)」「親兵設置と御所九門・六門警備」■「守護職/会津」「事件簿文久3年」 ■攘夷親征&天覧馬揃 (3)【京】文久3年7月23日、伝奏は、「御用談」があるので24日午後に参内すること、阿波藩世子にも参内を申し入れたことを達しました。 また、因幡藩主池田慶徳に対し親兵の馬揃は「差支」があるので会津藩に命じる予定であることを伝えました。慶徳は異存がなく、請書を出しました。 <ヒロ> ●なぜ親兵に「差支」があり、会津一藩なのか これは、もう、孝明天皇の強い意志が反映されたとしか考えられません。天皇はもともと会津藩に好意的でした(会津は、京都守護において孝明天皇の意思尊重を基本方針としており、藩論は鎖港攘夷で勅使の待遇改善にも貢献)。さらに、天皇は、急進派への対抗手段として会津藩の軍事力に期待していました。容保が、6月に尊攘急進派の策謀で東下させられそうになったときには、容保に対しては東下を望まぬ旨の密勅を下し、容保東下の再命を拒んだことで、急進派の工作を失敗に終らせました。この時、天皇は、近衛前関白を通して、「朕が尤会津を頼みとし、・・・事有るに臨んで、其力を借らんと欲する」旨を、会津藩に伝えさせています。久光召命の沙汰が急進派の会津の軍事力を是非とも実際にみてみたいとの思いは強かったはずです。一方、親兵は、統率者が急進派の三条実美であり、馬揃えには警戒感をもっていたのではと思います。 *天皇は、当初、急進派一掃に久光の急速上京に期待しましたが(こちら)が、当時、生麦事件償金問題で英国艦隊が鹿児島を襲撃するとの風聞があり、久光は上京することができませんでした。 7月、天皇の意思に反して攘夷親征(大和行幸)への動きが活発になり、いに久光に召命の沙汰を下しました(名目は攘夷親征)。ところが、わずか5日後に急進派の支配する朝議において召命は中止となりました(こちら)。天皇は激怒しましたが、急進派の勢いは収まらず、その直後から久光召命派の公卿に対して脅迫が続いていました(こちら)。 ●おさらい:馬揃え 7月19日、鷹司関白邸にて在京諸侯に攘夷親征布告の可否が諮問された際、因幡藩主池田慶徳は<天皇・公卿が、大兵を擁する会津や在京諸藩の武備を見て砲撃に慣れてから、親征の可否を議するべき>だと、天覧馬揃(天皇の前での軍事調練)を進言しました(こちら)。関白が天皇に奏上したところ、天皇は因幡・備前・会津のうち二藩による馬揃の開催を命じました(こちら)。関白から内示を受けた慶徳は、21日、二藩による調練は大人数となり「混雑」するとの理由で、諸藩親兵による馬揃を建議しました(こちら)。 参考:『贈従一位池田慶徳公御伝記』二p416-417(2012.12.30) 関連:■テーマ別 「大和行幸と禁門の政変」「因幡藩文久3後半」■開国開城:「大和行幸計画と「会薩−中川宮連合」による禁門(8.18)の政変」 ■攘夷監察使(紀州・播州) (4)【京】文久3年7月23日、朝廷は、京都守護職松平容保に対し、紀州・播州への監察使派遣及び傍観の諸藩の官位召上げの沙汰書を幕府に通達し、これを親藩に伝達させよと命じました。 沙汰書&別紙のポイントは以下の通り。(箇条書き&要約by管理人)
●おさらい 朝廷は、 文久3年6月14日、正親町公菫を攘夷監察使に任命し、長州に派遣しましたが、7月11日にはさらに東園中條・四条侍従に対し、それぞれ播磨・紀伊の監察を命じました。これに対し、因幡藩主池田慶徳は、留守居の上申により、13日、監察使に勅使としての威儀を保たせるべきだと建白していました。 <ヒロ> 親藩以外への伝達はどうなるのでしょう?→7月24日の「今日」へ 参考:『京都守護職始末』1p172(2004.9.24) ■久光召命 (5)【薩】文久3年7月23日、薩摩藩国父島津久光は、召命に係る近衛前関白父子・二条右大臣連署の11日付書状に対して、返書を認めました。その内容(草稿)は、薩英戦争で藩内が大混乱しているので、今は出発できないが、家臣奈良原幸五郎に言い含めた「趣意」がうまく運べば、たとえ自分は無理でも、一門家老に多人数を添えて上京させる用意があるいうものでした。 返書(草案)の概容は以下の通り。
●おさらい 孝明天皇は、兼てから、自分の意思を矯める尊攘急進派の一掃を久光に期待しており、5月30日には「急速上京」・「姦人掃除」の密勅を下していました(こちら)。しかし、久光は、このとき、英国船が来襲する可能性が高まっており、動くことができませんでした。攘夷親征論の高まる中、しかし、久光召命の沙汰を公に下すことが決まり、7月12日に沙汰が下りました(こちら)。藩士奈良原繁(幸五郎)・税所容助(篤)は沙汰書と近衛前関白らの親書を携えて20日に帰藩しました。ところが、今回、久光も藩主茂久も、薩英戦争直後の混乱で出発するわけにはいきませんでした。 <ヒロ> 実は、これより先、7月17日、孝明天皇の意思に反して、召命は撤回されており(こちら)、村山斎助が鹿児島にむかいその報せはまだ届いていませんでした(村山は8月1日頃到着)。なお、久光の返書をもった奈良原は、8月4日に着京します。 参考:『玉里島津家史料』ニp370、『忠義公史料』ニp754、『島津久光と明治維新』(2004.9.24) 関連:■「開国開城」「大和行幸計画と「会薩−中川宮連合」による禁門(8.18)の政変」■テーマ別文久3年:「島津久光召命」「大和行幸と禁門の政変」■「薩摩藩」「かけあし事件簿文久3年」 ■「天誅」 (6)【京】文久3年7月23日、浪士らが佛光寺高倉の商人八幡屋卯兵衛が外国と交易することを怒り、家に乱入して卯兵衛を殺害し、三条橋に梟首しました。 参考:『七年史』一(2004.9.22) |
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