9月の「今日」 幕末日誌文久3 テーマ別文久3 事件:開国-開城 HP内検索 HPトップへ
◆8/2へ ◆8/4へ
☆真木和泉のお天気日記 晴 ■攘夷親征 【京】文久3年8月3日、真木和泉は、因幡藩邸を訪れ、藩主池田慶徳慶徳ら諸侯に攘夷親征を入説しました。(『贈従一位池田慶徳御伝記』二p433、『真木和泉守遺文』p) ■天覧馬揃 【京】文久3年8月3日、会津藩に再び天覧馬揃えを行うようにとの朝命が下りました。
同日、前回(7月30日)警護を担当した因幡・備前・米沢・阿波藩にも馬揃えの朝命が下りました。 <ヒロ> 因幡・備前・米沢藩主・阿波世子の四候は、朝議参謀を命じられている在京有力諸侯で、四候は頻繁に連絡をとりあって、歩調をそろえるようにしています。馬揃えのそもそものきっかけは、関白鷹司輔煕が、親征可否を四候ら諸侯に諮問したとき、因幡藩主池田慶徳が<天皇・公卿が武道を学び、会津や在京諸藩の武備を見て砲撃に慣れてから、親征の可否を議するべき>だと言上したことにあります。孝明天皇は、最初の馬揃えの前に、関白に対しては、会津・因幡・備前の三藩のうち二藩にと内命していました。結果として、会津だけになり、因幡・備前を含む四藩は警護に回りましたが。ちなみに、四藩の兵力は、それぞれ500名前後で、会津に続く人数を擁しています(禁門の政変時の出動人数が、阿波528、備前523、因幡468、米沢468)。 参考:禁門の政変当日に御所警備に出動した藩及びその動員兵力
*会津は、政変に備えて、交替の藩兵を呼び戻している。天覧馬揃え時は約800名。 参考:『七年史』一p402-403、『贈従一位池田慶徳公御伝記』二p433(2004.9.27) 関連:■「開国開城」「大和行幸計画と「会薩−中川宮連合」による禁門(8.18)の政変」■テーマ別「「大和行幸と禁門の政変」「因幡藩文久3後半」■守護職/会津「事件簿文久3」 ■反越前上京のテロ 【京】文久3年8月3日朝、五条・四条・粟田口蹴上街道筋に、「国賊」春嶽が入京すれば勅により即時に「天誅」するとの高札が掲げられているのが発見されました。
【大津】文久3年8月3日、大津制札場に、越前藩御用達商人矢島藤五郎及び「朝敵」春嶽・関係者への宿舎提供者への「天誅」予告が掲げられました。
同日、京都二条通の越前藩邸の門に、前2日夜の矢島藤五郎宅への押し込みに関する札が張りだされました。
●おさらい 越前藩の挙藩上京計画は、既に、6月下旬までには急進派の中心的存在、真木和泉、宮部鼎蔵、久坂玄瑞らに察知されており、彼らから三条実美に「越を拒之策」が献じられたことが、真木の日記からうかがわれます。7月下旬にはその噂はかなり広まり、急進派を痛く刺激したようで、春嶽/越前藩及びその協力者への脅迫行為が続発して、洛中は騒然としました。まず、春嶽・茂昭の上京時のに宿舎に予定されていた高台寺は、7月27日暁(あるいは26日夜)、春嶽を「朝敵」と呼ぶものたちの焼き討ちにあい(こちら)、翌28日には越前藩が本陣とする西本願寺の焼き討ちを示唆する貼紙が祇園社扉に張り出されました(こちら)。前後して、西本願寺には越前藩が立ち退かねば放火するというような内容の札が張られ、近隣が大騒動となり、武家伝奏が同藩重役を呼び出して立ち退きを勧告したほどでした(こちら)。 参考:『続再夢紀事』ニp100-101、『東西紀聞』一p774-775、『玉里島津家史料』ニp408-410 |
|