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守護職会津藩 かけあし事件簿文久3年 (容保:29歳)


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関連:守護職日誌(詳細年表):文久3

■容保の守護職着任と浪士対策転換

孝明天皇の容保への厚意
当初、容保の守護職就任を警戒していた朝廷だが(こちら)、容保に関するイメージは、上京前の三港外閉鎖の攘夷建白書(こちら)や、勅使待遇改善の周旋で、好意的なものになっていた。ことに孝明天皇は喜んでおり、翌文久3年1月、容保の初参内のおりに、勅使待遇の礼を改めて君臣の名分を明らかにした功をもって、御衣を下賜するという武人に対しては異例の厚遇を与えた。(ちなみに、この後、長州藩主毛利敬親も御衣を下賜されている)。容保入京からまもない1月7日、会津藩は新たに藩主の補佐を担当する公用方を設置した。

容保の浪士懐柔策と慶喜の強硬策の対立
容保の上京に続いて、後見職一橋慶喜、前土佐藩主山内容堂、政事総裁職松平春嶽ら公武合体派諸侯が、将軍に先発して続々と上京した。しかし尊攘急進派浪士による脅迫・「天誅」は彼らを挑発するかのように続き、1月23日には公武合体派の近衛忠煕が関白を辞し、後任には親長州の鷹司輔煕が就いた。

上京前、容保は、京都守護、とりわけ諸藩の有志・浪士対策について、穏健路線を取る方針を定めていた(こちら)。だが、慶喜は厳罰路線であり、(1)浪士処分の朝命を得る、(2)浪士を旧藩に命じて引き取らせる、(3)罪状の明らかな者には厳重な処分を加える、ことを主張した。これに対し、容保は、厳しい処分は反発をまねき、かえって後害を成すとして、(1) 安政の大獄に連座した京都町奉行与力らの復職をはかる、(2)言路洞開(下から上へのコミュニケーションの方法の確保)をはかって浪士の「激発」を防ぐ、という懐柔策を提案した。容保の提案のうち、安政の大獄連座者の復職は進められたが、慶喜は言路洞開については、横議を生じさせるだけだと退けた(こちら)。ところが、慶喜の強硬策も実現せず、幕府の浪士対策には空隙が生じていた。

この間、尊攘急進派浪士による公武合体派公卿や諸候への脅迫は相次いだ。脅迫が朝廷の重職に及んだことを重く見た朝廷は、2月1日、諸藩の重臣に対し、一連の騒動の対策として、藩内調査と言路洞開をはかるよう達した。容保は、再度、慶喜に言路洞開を建議し、今度は同意を得たため、近衛忠熙前関白に言路洞開の建白書を提出した(こちら)。前関白はこれを嘉納したので言路洞開を町奉行を通して布告した (こちら)。 さらに、春嶽が入京すると、浪士を水戸藩執政武田耕雲斎に附属させて攘夷の先鋒とすることを提案した(こちら)が、春嶽の同意は得られなかった(こちら)。

尊攘急進派の関白邸推参と幕府/守護職の浪士対策硬化
2月11日、尊攘急進派の長州藩士や公卿らが鷹司関白邸に押しかけて居座り、攘夷期限・人材登用(国事掛の人物精選)・言路洞開の三策を「今日中に決定せよ」と迫る事件が起こった(こちら)。押し負けた慶喜・春嶽・容保・容堂は、到底実行不可能な将軍帰府後20日以内の攘夷を約束し(こちら)、さらには、具体的期限を4月中旬と約束した(こちら)。また13日には尊攘急進派中心の国事参政・寄人が朝廷に新設されるなど(こちら)、政局は急進派有利に動いた。この件を機に、守護職/幕府の浪士対策は一気に硬化した。

まず、「浪士を鎮撫するは兵力にあらざれば成難き」を痛感した容保は、藩兵三隊(約60名)を出して洛中を巡邏させることにした。法を犯すものは捕縛し、反抗するものは斬殺も可という方針である。続いて所司代も兵を出した。春嶽は、朝廷が浪士対策を決めるよう鷹司新関白に求めたが(こちら)、反応はなかった。そこで、慶喜・春岳・容保・容堂は、評議の上、浪士対策として、(1)脱藩者の帰藩と主のない者の幕府扶助、(2)勅諚による施行、(3)違反者は厳罰、との方針を決定し、関白に内奏したが(こちら)、勅諚を出すのは「脱藩有志」の志を挫きかねないと拒まれ、実行に移せなかった(こちら)。その一方で、朝廷は、容保に対して、不逞浪士取締り及び取締りを分担する藩の推挙を命じた(こちら)。次いで19日には学習院警戒を命じたが、これは、会津藩が強硬な態度に出れば、それを罪として守護職を罷免させようという、尊攘急進派の罠だったという(こちら)

2月21日、慶喜・春嶽・容保・容堂は、鷹司関白邸を訪れ、関白・近衛前関白に大政委任(政令帰一)か政権返上かの二者択一を迫た。ところが、関白らは、「蔭武者」を後ろ盾にする急進派の「激論」を挙げて自信がないといい、御前会議開催を求めても自分たちだけでは判断できないと難色を示した(こちら)

足利将軍木像梟首事件−守護職の方針転換
2月22日夜、何者かが京都等持院の足利三代将軍の木像の首を取り、三条大橋に梟首した。足利幕府に借りて現幕府を非難し、尊氏の首級を現将軍に擬したものだった(こちら)。 足利木像梟首事件には、実は会津藩士大庭恭平が関与していた。会津藩は大庭を浪士の間に潜伏させて事情を探らせていたが、この大庭が交わっていた浪士たちが足利木像梟首の犯人であり、大庭も計画〜実行まで参画していた。大庭から報告をきいた容保は、激怒し、それまでの寛容だった浪士対策を完全に一転させた。同月26日、容保は、慶喜・春嶽らの慎重論を振り切って、浪士を一斉に捕縛した(こちら)。足利木像梟首事件は、守護職の浪士「弾圧」の契機となった事件であり、以後、会津藩と尊攘急進派は急速に対立を深めることになった。 ただし、会津藩は、「誠忠正義」で「真実尊攘」を志す浪士、「有志」の浪士については懐柔策を継続しており(こちら)、3月10日には、老中から在京の「尽忠報国」の志のある浪士の差配を命ぜられた(こちら)

将軍上洛と大政委任問題
3月4日、将軍が、約230年ぶりの上洛を行った。これを機に、天皇から直接、庶政委任の再確認を得ようと考えた慶喜は、春嶽・容保らの同意を得た上で、工作を行ったが、参内した将軍に下付された勅書は、「征夷将軍の儀」委任、攘夷尽力に加え、事柄によっては諸藩に直接沙汰ありという内容で、工作は裏目に出た。政局に失望した春嶽は、総裁職辞表を提出し(こちら)、辞表届捨てのまま21日に離京した(こちら)。久光も在京わずか5日で退京した(こちら)。容堂・宗城も退京し、3月末までに破約攘夷に反対する公武合体派の有力諸侯は京都からいなくなった。近衛前関白も内覧を辞し、朝政から去った。公武合体派連合策は失敗に終わった。

関連:■開国開城「後見職・総裁職入京-公武合体策挫折と攘夷期限」「「天誅」と幕府/守護職の浪士対策」「将軍家茂入京-大政委任問題と公武合体策の完全蹉跌」■テーマ別文久3「「天誅」と急進派の伸張・公武合体派の後退(2)」 「浪士対策言路洞開 浪士処遇(攘夷先鋒・幕府の扶助・取締)」 「足利将軍木像梟首事件」

■将軍東帰と京都守護職の孤立

将軍東帰反対運動
孝明天皇は破約攘夷を督促一方で、将軍の長らくの滞京を望んだ。将軍滞京は会津藩の希望するところだった。従前、将軍上洛・京都直接守衛の約束があった上、公武一和が成らぬうちの東帰は間隙を生じると考えていたからである。しかし、幕府は京都を危地とみなし、将軍を脱出させようとした。

3月、生麦事件償金交渉に揺れる江戸から急使が到着して、慶喜らが将軍東帰準備を進めた際には、会津藩はその撤回を強く求めた(こちら)。4月に入って、朝廷に迫られた幕府は攘夷期限を5月10日と約束させられ、慶喜が「攘夷の実効」をあげることを名目に、4月22日、出京した(こちら)。 慶喜に代わる将軍輔佐には前尾張藩主徳川慶勝(容保の異母兄)が就いた。攘夷期日の5月10日、長州藩が下関を航行中の英国艦を砲撃して攘夷を実行し、京都の尊攘急進派の気勢はあがった。一方、関東では、慶喜の着府を前に、老中格小笠原長行が生麦事件償金を独断で支払い(こちら)、慶喜は、とても攘夷は無理だと後見職辞表を提出して引篭った(こちら)。この情報が京都に届くと幕府非難の声は否が応でも高まり、容保は老中らと参内して、将軍自身による攘夷実行・償金を支払った幕吏の誅戮を目的とする将軍東帰を請願した(こちら)。 急進派は、この機に京都から幕府を遠ざけて王政復古の素地をなし、幕府が攘夷を実行しないときは親征の口実にしようと考えた(こちら)。将軍滞京・公武一和による攘夷を望む天皇の意思は通らず、天皇の意思を知った会津藩の東帰反対運動も実らず、6月3日、将軍は東下を勅許された(こちら)。

在府幕閣との齟齬:小笠原長行の率兵上京問題
一方、関東では、京都における幕府の窮状を救うため、5月25日、老中格の小笠原が武装兵約千数百名を率いて英国艦に乗り込んだ。噂が届くと、朝廷はパニックに陥った。ところが率兵上京は京都の幕閣や容保の同意を得たものではなく、彼らは計画を知らされてすらいなかった。30日に大坂に上陸した小笠原は入京を目指したが、容保らの強い反対にあい、果たせなかった。朝廷は小笠原の厳重処分を命じ、6月9日、将軍は、小笠原の訊問・処罰を理由に下坂した。会津藩は退京に反対したが容れられなかった。13日、将軍は、関東の事情が穏やかならぬという理由から老中とともに急遽大坂を出港した。会津藩は諌止しようとしたが間に合わなかった(こちら)

急進派の容保東下工作と孝明天皇の密勅
3月から6月にかけて、総裁職・後見職を始めとする幕府の要人や過激な攘夷論に批判的な有力諸侯は次々に京都を去り、6月下旬には、将軍補翼・徳川慶勝も、藩内の事情を理由に大坂守護要請を断って帰国した(こちら)

勢いづく尊攘急進派の矛先は、在京幕府の最高責任者であり、大兵を擁し、足利将軍木像梟首事件以後対決姿勢を強める会津藩に向かった。折しも、東帰した将軍と入れ替わるように、真木和泉が入京して、攘夷親征論が一気に具体化した(こちら)。急進派は、障害となる容保/会津藩を京都から追い出そうとし、6月25日には、容保に東下の勅命が降りた。表向きは将軍帰府後の情勢視察と攘夷実現の周旋のためだが、容保/会津藩を退京させることが目的だった。容保退京後、勅して守護職を解任させようとの計画があったともいう(こちら)

勅命を受け取った容保は、東下を固辞したが、朝議はこれを許さなかった。救いの手は孝明天皇から差しのべられた。急進派に迫られて勅命を裁可した天皇は、本心では、容保の東下を望んでいなかった。元来、公武一和思想の持ち主で保守的な天皇は、かねてより、門閥の低い急進派公卿が過激な言動を繰り返して、自分の意思が貫徹しない状況に怒りを感じていた(5月には薩摩藩の島津久光に「急速上京」「姦人掃除」の密勅を下したほどだったが、久光は英国艦隊の鹿児島来航に備えて動けなかった)。急進派への対抗手段として会津藩の軍事力にひそかに期待するところがあり、容保東下の再命を拒むとともに、容保に対しては東下を望まぬ旨の密勅を下して、近衛前関白にその真意を伝えさせた(こちら)。天皇の再命拒否の意思が強固なこと、また密勅によって天皇の真意を知った会津藩が東下をあくまで固辞したことから(こちら)、容保の東下は沙汰やみとなり、代わって禁裏付小栗正寧が東下した(こちら)。

幕府の攘夷期限委任奏請書を抑留
一方、破約攘夷の決行を名目に東帰を許された将軍は、6月26日、内治を整えて人心一致したうえでの攘夷が望ましいとして、急使を上京させて、攘夷期限委任を奏請させようとした(こちら)。奏請書を受け取った容保は、京都の事情を鑑みて奏請書を留め、7月16日には、幕府に対し、慶喜を将軍名代として再上京させ、攘夷期限委任の奏請を直接行うことを建議した(こちら)。( 容保/会津藩は、上京前、幕府に藩論である三港外閉鎖への同意を迫ったが、幕閣から「開鎖の廟議ハ一橋殿担任して上京せらるへし。守護職ハさる事迄の責そを負ふに及はす」といわれるに及んで、「止を得す」納得したという経緯があるこちら)

■守護職の軍事的主導権掌握工作

御所警備の主導権確保
尊攘急進派との対立が激化する中、会津藩は軍事的主導権を掌握しようとした。5月20日夜、御所朔平門外で急進派公卿姉小路公知が暗殺されると(朔平門外の変)、会津藩は御所外講九門すべての警備を朝廷に願い出た。翌21日、朝廷が九門の警衛を命じた九藩の中に会津藩は含まれなかったが、警備を要請しつづけた結果、まず蛤門前、さらに内講六門のうち、公家の出入りする唐門を含む西側三門警備が会津藩に命じられた(こちら)。

非常時の所司代・近畿諸藩の指揮権確立
会津藩は、文久2年に守護職に任命された際、「斯ル大任」を仰せ付けられたからには、「格別ニ御威権之御沙汰」がなくては勤めは果たせないと考え、赴任の条件として京都守護に関する全権委任を求めた。京都町奉行・永井尚志から「被仰立候通り相成筈」との「御挨拶」を受けた(こちら)が、その後、公式な沙汰はなかった。将軍退京にともない、幕府は容保に残事務を託した(こちら)が、その他の権限については曖昧だった。 将軍輔佐の前尾張藩主徳川慶勝の帰国により、孤立を深めた会津藩は、非常時の京都守護の全権付与などを幕府に要請し(こちら)、この結果、7月21日、所司代(新任の淀藩主稲葉正那)・近畿諸藩は守護職の指図に従うようにとの幕命が下った(こちら)。 (同時に、将軍目代として慶勝を在京させることも要請したがこちらは実現しなかった)。

■会薩・中川宮連合と禁門の政変(8.18の政変、文久政変)

攘夷親征論の高まりと会津藩の軍事力アピール
孝明天皇は攘夷親征を好まなかったが(こちら)、尊攘急進派は親征布告を頻りに迫った。7月12日、天皇は、急進派を抑えるため、ついに久光召命の沙汰を下したが(こちら)、わずか5日後には急進派の牛耳る朝議で撤回させられた(こちら)。7月18日には、急進派の後ろ盾である長州藩が攘夷親征を建議した。さらに、親征反対・久光召命派公卿に圧力をかけるための「天誅」・脅迫が続発した。

親征の可否を諮問された在京諸侯は慎重論を唱えた(容保は召喚されず)。このとき、因幡藩は、親征をするには天皇・公卿らも兵戦に慣れるべきだと、大兵を要する守護職や諸藩による馬揃(調練)の観覧を提案した(こちら)。天皇はこれを歓迎し、7月30日、御所内講建春院門前において、会津藩の天覧馬揃が行われた。雨中、順延も視野にあるなか、急な朝命により実施されたにもかかわらず、会津藩は、速やかに約800名の大兵を揃えて滞りなく調練を行い、その軍事力をアピールした(こちら)。感銘を受けた天皇は、会津藩が急な命令にも支障なく軍事行動を起こせることを頼もしく思うと密かに伝えさせた(こちら)。次いで、8月5日は会津・因幡・備前・阿波・米沢の五藩による天覧馬揃が行われた(こちら)。この際、会津藩は、不慮の事態に備えて兵器を御所九門内凝花洞に納めたという。

会薩-中川宮連合と孝明天皇の承諾の下の禁門の政変
8月13日、攘夷親征を念頭においた大和行幸の詔が発布された(こちら)。同夜、薩摩藩士高崎左太郎が、突然、三本木の会津藩邸を訪ね、公用局秋月悌次郎、広沢富次郎(安任)、大野英馬、柴秀治らに、中川宮の協力の下、連合して政変を起し、天皇の好まぬ大和行幸/親征を阻止しようともちかけた。在京兵力は乏しいが、会津がのらねば自分たちだけでやるとの決意を示した。秋月らは高崎と会うのは初めてだったが、もとより願うところと同意。藩主容保の承諾を得た上で、中川宮、高崎(左)と相談した結果、8月16日朝の公卿参内前に、中川宮が孝明天皇に急進派処分を直奏し、内勅を得て行動を起こすことに決った。8月15日、容保は、江戸の閣老に書簡を送り、事態が極めて切迫し、親征が布告されたことを報じるとともに、「非常の尽力」をするので必ず後の一報を待つよう求めた。

ところが、8月16日当日、参内した中川宮の直奏に対し、孝明天皇は「尤」だとはいうものの、急進派処分の内勅は出さなかった。そのうち急進派の国事御用掛達が続々と参内しだし、計画は頓挫したた。さらに、中川宮が退廷したと伝わってきた。高崎左太郎・秋月悌次郎・広沢安任が中川宮のもとに様子を確かめに向かった。内勅が下りなかった事情を聞き、一同落胆したという。(理由として、朝廷内に天皇の命令を言葉通り伝える者がいないから、その時機ではないと危ぶんだから、等が伝わっている。天皇はかねての痔痛でトイレに時間がかかり、中川宮が十分に策を言上できなかったという、政変後の中川宮談話もあり)。しかし、同夜、孝明天皇はひそかに中川宮のもとに使いを派遣し、朝の奏事を熟慮した結果、会津・因幡両藩に処理させるようにとの内勅を下した。

会津藩は薩摩藩に対し、会津・因幡に政変決行の密勅が下りたと報せた。真偽を確かめるために、高崎左太郎が中川宮のもとに向うと、中川宮は、勅命は会津・因幡に対してであること、中川宮・薩摩藩が入っていないのは、「宮ハ勿論薩モ一節不立障様トノ御事」だということを説明した。左太郎は、中川宮の指揮が必須であること、ここに及んで他藩(=因幡)に命じられては「不相済」ことを訴えた。さらに、近衛前関白・二条右大臣の同意を取り付けるというので、中川宮も当初計画通り実行することを決断した(こちら)

8月17日、二条家には会津藩士秋月悌次郎、近衛家には左太郎が説得に向かい、同意を取り付けた。同日、関係者密議の結果、ついに翌18日未明に参内・謁見して「非常の大議」を行う決意を固めた。その時に守護職・所司代も兵を率いて参内すること、また中川宮・二条右大臣の護衛に会津藩が、近衛前関白の護衛に薩摩藩士がつくことも決まった。(こちら)

8月 17日深夜から18日未明)にかけて、中川宮・近衛前関白父子・二条右大臣・徳大寺内大臣ら、及び守護職松平容保・所司代稲葉正邦(淀藩主:何のための召命か知らなかったという)が密かに参内した。前後して外講九門(豆知識:御所の外講九門・内講六門)はすべて閉鎖され、内講六門は守護職・所司代・薩摩藩の兵力によって固められた。召命のない者は関白・重職であろうと一切の参内を許さず(公卿の名前に「正」「暴」の印をつけたリストが配布され、「正」の印のついた者だけが、唐門(公家門)から参内が許された)、備前・米沢・因幡・阿波以外の藩兵の九門内(築地)立ち入りも禁じられた。8月18日七ツ頃(午前4時頃)、兵力配置が完了した合図として九門内凝花洞で大砲が一発鳴らされた。卯刻(午前6時頃)には、姉小路公知暗殺事件がきっかけで5月26日以来乾門(外講九門の西側門の一つ)警備を免じられていた薩摩藩に対し、「是迄通り警衛」せよとの沙汰が下りた。

8月18日五ツ過ぎ(午前8時過ぎ)から、即参内を命じられた諸大名が続々と参内した。やがて、長州藩や急進派公卿を締め出したまま御前会議が開かれた。この結果、1)大和行幸/親征の延期、2)三条実美ら議奏・伝奏・国事御用掛20余人(=急進派公卿)の参内停止・他人面会禁止、3)国事参政・国事寄人(急進派公卿がほとんど)の役職廃止、4)議奏の更迭の勅が下された。

さらに、長州藩の堺町門(=九門の南側)守衛罷免及び藩兵の京都追放が決定された(こちら)

この結果、急進派公卿七卿は一部の長州藩士・浪士とともに京都を去り、8月22日、鷹司関白は辞表を提出した(こちら)。8月26日、朝廷は、在京諸大名を招集し、18日以降の勅が真であると伝宣した(こちら)。8月29日には、長州藩退京の朝命が出された(こちら)。

長州に同情的な因幡・備前等の諸大名は退京し、かわって、朝命によって、前越前藩主松平華嶽・前宇和島藩主伊達宗城、薩摩藩主父島津久光らが上京した。

関連:開国開城「大和行幸計画と禁門(8.18)の政変

■政変後の守護職

朝幕による会津藩の賞揚
8月24日、将軍徳川家茂は、政変の功を称し、容保に差料を与えた(こちら)。10月9日、二条右大臣の館に招かれた容保は、政変時の業績を賞揚する宸翰(天皇直筆の手紙)と御製(天皇の和歌)を内密に下賜された(こちら)。また、幕府は、8月29日には役知1万9500石(こちら)、10月3日(9月3日)には京都守衛費用として金5万両(こちら)、さらに10月23日には役知5万石を付与した(こちら)

京都警衛・守護職権限の強化
会津藩は、長州退京の朝命の翌日(8月30日)、伝奏に、(1)諸家に出入りしていた諸藩士・浪人の取締りを命じること、及び(2)各藩で予め伝奏に名簿を提出した人員以外の諸家への立ち入り禁止を命じること、及び(3)諸大名への沙汰は内外の区別なく守護職・所司代に委任すること、を要望し、朝廷は、(1)(2)については、即日、朝命を出した((3)については回答がなかった模様)(こちら)。9月5日には親兵が解散になり(こちら)、9月28日には、容保に対し、在京潜伏長州藩士取締りの勅命が出された(こちら)。 また、10月20日、容保は、非常時には伝奏の達しを待たずに参内できることを願い出て、これを許可された(こちら)

鎖港交渉問題をめぐる朝幕の仲立ち
政変で、尊攘急進派七卿や長州藩は京都は追放されたが、孝明天皇が頑固な攘夷主義者であることには変わらず、19日に、朝廷は、攘夷督促の令を出した(こちら)。9月1日には攘夷監察の別勅使東下を決定して、容保に随行を命じた(こちら)が、容保は職掌を理由に辞退した(こちら)。一方、幕府は、政変後の騒然とした情勢下の天機を伺い、攘夷(横浜鎖港)遅延が止むを得ない事情を説明するために老中酒井忠績を上京・参内させたが、朝廷は改めて攘夷を促した(こちら)。9月27日、容保は、横浜鎖港交渉開始(こちら)に関する後見職一橋慶喜及び老中板倉勝静らの上奏書を受取り、朝廷に報告するとともに、東帰した酒井老中の依頼(こちら)に基づき、朝廷に関東の事情を説明して、諸藩に軽挙暴発をいましめる朝命を下すことを懇請した(こちら)。さらに、容保は、異母兄徳川慶勝とともに攘夷監察別勅使の派遣の中止・幕府への委任を周旋した(こちら)。容保の尽力もあり、10月7日、朝廷は勅使東下を中止し、鎖港交渉の状況報告のための後見職一橋慶喜の上洛を命じた(こちら)。

将軍上洛周旋(有力諸侯との協調)
朝廷は、慶喜に続いて、将軍家茂の上洛も命じたが(こちら)、幕府は家茂の上洛を辞退し、慶喜に上京を命じた(こちら)。公武一和のためには、朝命通り将軍が上洛すべきだと考える容保は、東下する軍艦奉行並勝海舟に将軍上洛周旋を依頼した(こちら)。11月5日、幕府は将軍上洛の勅書を奉承した(こちら)。容保は、11月17日、将軍上洛督促のために、朝命によって上京してきた春嶽・宗城・久光らと相談の上、町奉行永井尚志と公用人小野権之丞をを東下させることにした(こちら)。 11月26日に慶喜が入京すると(こちら)、12月6日には慶喜・春嶽・宗城・久光・容保らに将軍上洛督促の朝命が下った(こちら)。容保は、12月10日、春嶽・宗城・久光らと連署して老中に将軍上洛を促した(こちら)。

長州藩家老入京嘆願に反対
政変後、長州藩は、藩主父子の雪冤のために家老井原主計に上京させることにした(こちら)。井原は11月27日に伏見に到着したが、 井原の入京には会津藩(秋月悌次郎)が強硬に反対し、28日、慶喜・春嶽・宗城は、秋月の意見を容れて、入京不可を決めた(こちら)。秋月は伏見に伝奏を派遣するという代替案にも反対したため、翌29日、春嶽が、それでは会津藩が応接しては提案すると、会津藩と長州藩は互いを仇敵視しており、穏やかな応接は無理であると断り、政変に関与しておらず、かつ上京途中に長州で嘆願を受け付けた筑前藩世子黒田慶賛に依頼してはどうかとの私見を述べた(こちら)。12月1日、慶喜・春嶽・宗城・久光及び慶賛が集まって評議し、秋月も招かれた。秋月は改めて井原の入京・伝奏の伏見派遣に反対し、書面による趣意の言上を提案した(こちら)。12月11日、朝使として歓修寺家の雑掌と所司代の公用人2名が伏見に赴き、井原から書面を受取った(こちら)。12月14日、慶喜邸に集まった在京諸侯(春嶽・宗城・容保・所司代稲葉正那・黒田慶賛)は、書面を検討した結果、井原に帰国して指図を待つよう命じることを決定し(こちら)、16日には井原に帰国の朝命が伝えられた(こちら)。しかし、井原は服せず、書面だけでは不十分なので、入京して言上させてほしいと嘆願したので、朝廷は、慶喜・容保に諮問した(こちら)。その結果、12月21日、歓修寺経理が伏見に赴き、井原の口上を聴取した(こちら)。

容保の朝議参与任命
11月26日に慶喜が入京すると有力諸侯が集まって評議をするようになった。、12月5日、慶喜邸に、容保・春嶽・宗城・久光が集まった席で、久光が、<公卿は優柔不断で、われわれ武家が決めても詮無く、このままではとうてい大事が行われがたい。この際、賢明諸侯を朝廷の議奏に加えるべきである>と提案した(こちら)。一同賛成し、朝廷から沙汰がでるよう薩摩藩が周旋することになった。薩摩藩の朝廷工作の結果、12月30日に慶喜・春嶽・容保・宗城・前土佐藩主山内容堂(12月28日上京)を朝議参豫に任命するとの沙汰が下りた(こちら)。(久光は翌年1月に任命)

関連■開国開城「政変後の京都−参豫会議の誕生と公武合体体制の成立」■テーマ別文久3 「将軍・後見職の再上洛」

参考:リンク先を参照してください
更新:2012/12/16、2018/10/4

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