9月の「今日」 幕末日誌文久3 テーマ別文久3 事件:開国-開城 HP内検索 HPトップへ

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文久3年8月4日(1863.9.16)
【京】久光召命の沙汰の請書・近衛前関白への返書をもって奈良原繁入京。請書提出
【京】朝廷、幕府に三港(横浜・箱館・長崎)閉鎖を督促/
【長】長州藩、幕府の糾問に対する答弁書を交付

☆真木和泉のお天気日記 晴

■久光召命
(1)奈良原幸五郎、入京
【京】文久3年8月4日、島津久光召命の沙汰に対する請書や近衛忠煕前関白への返書を携えた薩摩藩士奈良原繁(幸五郎)が再び入京し、近衛邸を訪ねました
(前関白への返書(草稿)には、自身の即時上京は困難だが、策(「趣意」)を奈良原に言い含めたので、京都において事がその通り運べば、即時に一門家老に率兵上京させるつもりであること、委細は奈良原から聞き取ってほしいことなどが書かれていました(こちらの(5))

即日、奈良原は、早速近衛前関白邸を訪ねましたが、忠煕は「大息之外」はないといった有様だったそうです。忠煕は、<こうなっては、三郎(=久光)へ顔向けもできない。しかし、(召命の)請書は、国許の混乱を顧みず(一門が)早速応召するという内容なので、一刻も早く差し出したほうがよかろう>と述べたので、薩摩藩は翌5日に請書を朝廷に提出しました。

<ヒロ>
奈良原繁(幸五郎)は、7月12日、久光召命の沙汰書及び近衛忠煕前関白父子・二条右大臣・徳大寺内大臣連署の急速上京を求める書簡(こちら)を携え、税所容助(篤)とともに、京都を発ちました。同月20日に鹿児島に帰着しましたが、薩英戦争直後の混乱で、久光も藩主茂久も直ちに上京することは困難でした。

(詳細は8/5の「今日」にて)

関連:開国開城「島津久光の率兵上京と寺田屋事件「大和行幸計画と「会薩−中川宮連合」による禁門(8.18)の政変」■テーマ別文久3年:「島津久光召命」「大和行幸と禁門の政変」■守護職日誌文久3 ■薩摩藩日誌文久3
参考:『玉里島津家史料』二(2004.9.28)
■朝廷の攘夷督促
(2)朝廷、幕府に破約攘夷督促の沙汰
【京】文久3年8月4日、朝廷は、守護職松平容保に対し、横浜・箱館における破約攘夷を速やかに実行し、長崎港閉鎖を早々に布告すせよとの沙汰書を授け、関東に通達するよう命じました。


伝奏飛鳥井雅典が容保に授けた沙汰書の概容以下の通り。
  大樹へ
去る五月十日、「蛮夷拒絶期限」と決定したにも関わらず、横浜・箱館の両港にて通商が未だ取りやめにならぬのは如何と思召される。「速に破約攘斥」せよ。かつ、「長崎港拒絶之儀」は朝廷より仰せ渡されたが、早々に布告せよ。
(参考:『七年史』の沙汰書より作成)

参考:『七年史』一p403(2004.9.27)

■慶喜再上京
(3)会津・因幡藩主会談。容保、慶徳に、慶喜上京前の朝廷周旋を依頼
【京】文久3年8月4日、会津藩主松平容保は因幡藩主池田慶徳を招き、慶喜再上京に際する朝廷周旋を依頼ました。

当時、将軍後見職一橋慶喜が近々に江戸を出発することになっていました。容保は、慶喜のために予め朝廷に(攘夷遅延の理由を?)弁解して、上京時に齟齬がないようしようと考えており、その周旋を慶喜の近親(異母兄)である慶徳に依頼したそうです。

容保はまた、翌5日の馬揃時の小銃空発の要を説きました。

会談の際、容保が<明日の馬揃えの小銃操練時に空発が許されれば壮観になるだろう>と語ったところ、慶徳はもっともなことだと、公卿に説いたので、空発を実施するよう朝命がありました。(7月30日の馬揃えでは、会津藩が事前に提案した小中銃の空発・大砲弾薬充填は禁じられていましたこちら

<ヒロ>
慶徳は6月末に入京して以来、朝廷に度々呼び出されて国事を諮問されていましたが、容保と慶徳の会談はこれが初めてになります(家臣も行き来がなかった様子です)。容保は、7月29日、慶徳に書を寄せて、用談があるから2・4日のうちに来邸してほしいと申し入れていました。その頃までには、慶徳が朝廷に影響力をもっていることを認識していたことがうかがえます。(実際、会津藩が提案した小銃空発は却下されましたが、因幡藩の周旋は成功しました)。

参考:『七年史』一p404-405、『贈従一位池田慶徳公御伝記』二p434(2004.9.27)

■長州糾問
(4)【長】文久3年8月4日、長州藩は、外国船砲撃と小倉侵攻に関する幕府の糾問に対して答弁書を交付しました。


答弁書の内容は、時間ぎれです。いずれ・・・・・

参考:『修訂防長回天史』三下(2004.9.27)

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