9月の「今日」 幕末日誌文久3 テーマ別文久3 開国開城 HP内検索 HPトップへ

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文久3年8月11日(1863.9.23):
【京】慶徳・茂政・昭訓、慶喜・老中らに、親征か西国鎮撫かという
危機的情勢を知らせ即座の横浜鎖港交渉等を求める
【京】慶徳、親征布告&八幡行幸(西国鎮撫不可)の上書案を二条斉敬右大臣に提出
【京】守護職松平容保、慶徳に、中川宮のが鎮撫将軍・小倉入城の風聞の真偽を尋ねる
【京】真木和泉、議奏・伝奏らに八幡行幸について下問される
【大津】反・春嶽上京:大津宿に、春嶽協力者への「天誅」予告
【越前】横井小楠、越前藩政治顧問をやめ、福井を出立/
【京】幕府、元京都町奉行永井尚志の差し控えを止め、復職を命ず

☆真木和泉のお天気日記 晴
■攘夷親征か中川宮の西国鎮撫かvs-禁門の政変まで後7日
(1)後見職・老中への形勢急報
【京】文久3年8月11日、水戸藩主弟松平昭訓・因幡藩主池田慶徳・備前藩主池田茂政は、後見職一橋慶喜・老中らに、親征か西国鎮撫かという切迫する情勢を知らせ、即座の横浜鎖港交渉開始・小倉藩・唐津藩処分を求めました。


書簡の概容は以下の通り(箇条書き&要約、()内by管理人)
当地の事情は、ますます切迫している。既に一昨日(ママ)、殿下(=関白鷹司輔煕)より召され、弾正大弼(=米沢藩主上杉斉憲)・淡路守(=阿波藩世子蜂須賀茂韶)が参殿したところ、親征の件は有志の建言もあって「暫時見合」となったが、ついては中川宮を四国・西国に差し向けて、第一に小倉藩傍観不遜の罪を正させよとの御内命が下ったことがわかった。一同大いに驚き、事情を探ったところ、容易ならぬ次第であった。
こうなっては、親征布告・八幡(=石清水八幡)行幸、さもなくば中川宮の西国派遣かである。中川宮西下となれば、将軍職を新たに任命される可能性がある。両方中止することは困難であり、実に(どちらかは)必至の形勢である。この辺を厚く御含みになって御取扱いなければ、「最早御家(=徳川家)は今日限」と申す時勢であり、悲嘆にたえない。
右の形勢なので、万一江戸が現在のまま、一橋(=後見職一橋慶喜)様が上京しても、とても入京は難しかろうと存じられる。ついては、何卒、因循家を排斥になり、板倉殿に申し上げた通り、小倉・唐津の両藩の処分を速やかに実行し、横浜攘夷の小口を立てた上で、急ぎそのことを御奏聞になり、「(破約攘夷の)御延引之御断」のための(慶喜)上京にならねば、皇国が四分五裂に至ることが目に見える。そうなっては、我々がどう尽力しても、遠からず徳川家の命脈は危機に瀕するだろう。
(出所:8月11日付の水戸中納言様・一橋中納言様・水野和泉守様・板倉周防守様・井上河内守様・有馬遠江守様宛、松平余四麿・松平備前守・松平相模守書簡『贈従一位池田慶徳公御伝記』二p446より作成)

<ヒロ>
因幡藩主池田慶徳・備前藩主池田茂政・水戸藩主弟松平昭訓(余四麿、若干16歳)はいずれも水戸9代徳川斉昭の実子で後見職一橋慶喜の異母兄弟になります。

(2)二条右大臣、因幡藩主池田慶徳に中川宮の指示伝達
【京】文久3年8月11日、右大臣二条斉敬は、中川宮の指示により、因幡藩主池田慶徳に、中川宮の建白書の写しを送り、「熟慮」するよう密かに依頼しました。
(中川宮と慶徳は鷹司関白により直面を阻まれていました)

書簡の概容は以下の通り(カッコ内、下線は管理人)
(前略by管理人)また、宮より、内々に御達しがあり、因備両藩とも「斯る折柄之事」、宮邸へ推参されるよう依頼された。一昨夕もお話の通り、殿下(=鷹司関白)より貴官方へも「行向」を差止められたことについて、実は宮からも殿下に申し立てられたが、同様に差止められた。しかし「何分一応直面」したく、御迷惑だと存じるが何卒御推参あるようにと頼まれた。
一昨日(9日)、宮が先鋒(=西国鎮撫使)をお断りになったところ、議奏が来邸し、どうでも御請になるよう主張したが、宮はどうでもお断り申し上げたいと申し入れたそうである。宮が議奏に、最初の通り八幡行幸をすべきだと申されたところ、そうであれば建白を差し出されよ、との事だったので、昨日(10日)建白書を差し出された。その寫しが昨夜到来し、これを内々に貴官方へ伝達してくれとのことである。「密々可然御熟慮」いただきたい。御賢考のほど、御頼み申し上げる。
(参考:8月11日付因幡中将殿宛(二条)斉敬書簡『鳥取池田家文書』一p558-559より作成。)

<ヒロ>
中川宮は、去る9日、因幡藩に対し、親征を建議して西国鎮撫使が沙汰やみになるよう周旋せよと命じていました(こちら)。この書簡は、同封の中川宮の建白に添って「熟慮」した親征論の建白書を作成・提出するよう求めているのだと思います。同封の建白は『鳥取池田家文書』には載っていませんでしたが、『孝明天皇紀』にそれに相当するものが載っています(こちら)。中川宮は因幡藩には親征を主張せよと言ったわりには、自分の建白は八幡行幸の布告のみに留めています。親征に反対な二条右大臣が、中川宮と慶徳の橋渡しをしてしまったのも、中川宮の建白に親征が触れられていないからなのか、それとも、中川宮の真意を知っていて、親王からいわれると否と断れなかったのでしょうか・・・。

(3)慶徳、二条右大臣に、因幡・備前の建白案(前10日時点)差出
【京】即日、慶徳は斉敬に返書して、参考までに、前日に異母弟・茂政と打ち合わせた上書案(親征布告・祈願のための八幡行幸・「廟算一定」の上の幕府への厳重な沙汰・なお幕府が因循する場合の親王による内外の征伐実行)を送りました


返書の概容は以下の通り(箇条書き、()内、下線は管理人)
今朝、上書を認め、差し出そうと存じていたところ、御親書を賜り、畏れ入ります。別紙の通り、昨日打ち合わせたこともありますので、これから早々に参集し、備前(=池田茂政)と打ち合わせた上で御請申し上げますので、よろしく御取成しください。
別紙(前日打ち合わせた上書案)
宸断をもって御親征は止められ、中川宮が「巡撫使」として西国に御進発という御内意を仰せ出されたことは、その御英断のほど、畏れ入ります。親王家が諸道を下られることは容易ならぬことですので、「御廟算御一定」の上でなくては御成功はあるまいと存じます。
先ごろ、御親征を下問蒙った際、とかく可否の儀は申し上げませんでしたが、いよいよ御親征を仰せ出されては「公武之間判然相分」れる重大事ですので、関東で「決断」すべきと存じますが、関東は「姑息苟安而巳」で「毎事朝政二悖」りますから、時勢は益々切迫しましょう。
この上は、先達ての御内意の通り、御親征の儀を御決断になり、天下へ御布告になり、祈願のため八幡宮に行幸の上、「御廟算御御一定御基本御一定」になり、「厳二関東へも御沙汰」を下せば、関東も定めて「驚愕悔悟」し、真に叡慮を尊奉仕るかと存じます。
それでも「因循姑息」ならば、その時には、諸親王方を「大将軍」に拝され、内は「不順之徒を平」らげ、外は「胡虜を攘斥」されれば、「御成功」となるでしょう。
中川宮の儀は、既に「叡断」をもって仰せ出されたものの、「深く御失体之儀」と存じます。
(出所:8月11日付二条(斉敬)宛因幡中将書簡『鳥取池田家文書』一p560-561より作成)

* 慶徳は、7月14日、親征可否の下問に対して、 幕府・大名が職掌を尽さぬうちの親征は時機尚早であり、幕府も今の状況では必ず攘夷を実行するだろうからと、親征/布告の見送りを建白しています(こちら)。中川宮の依頼を受けて作成した上書案と7月14日の建白との違いについてはこちらの上書案作成の項目で。

(4)因幡・備前・米沢・阿波藩の四候連署の建白案
【京】文久3年8月11日、因幡・備前・米沢・阿波藩の四候は、連署して、親征布告の上書を関白鷹司輔煕に提出することを決めました。


翌12日付二条右大臣宛慶徳書簡によれば、その経緯は次のようなものでした。(()内、下線は管理人)
昨日(=11日)も米沢少将・淡路侍従と集会、種々論判し、「御親征と宮御発行(=西国鎮撫への進発)之得失利害考究」したところ、畢竟のところは、「宮御発行は勿論之儀御親征も御宜敷事とはいかゝ考候而も談合落付不申」、しかしながら、「宮御発行ニ比較仕候得は親征布告之方にも可有之歟」(=西国鎮撫と比較すれば親征布告はありか)と話し合い、その辺には拙策もあることから、まず八幡行幸を言上することになり、宮様御発行は差し止められるよう、今日・明日のうち、殿下(=鷹司関白)まで連署(の上書を)差し出す手筈になりました。(中川宮の密命を受けていない)上杉少将・阿波侍従にも「何となく申聞」、一同々意の上、連署にて言上することになりましたので、内々に申し上げます。宮様に宜しくお伝えくださるよう願います。
(出所:8月12日付二条(斉敬)殿宛因幡中将書簡『鳥取池田家文書』一p555-556より作成)

四候連署の上書の概容は以下の通り(箇条書き、下線、&要約by管理人)
宸断をもって御親征御布告は止められ、中川宮の西国鎮撫進発の御内意を仰せ出されたことは、畏れ入ります。宮方の諸道御進発は容易ならぬことではありますが、御英断をもって仰せ出された上は、是非を申し上げません。
しかしながら、御親征布告・八幡行幸という策もございます。
もっとも、御親征は重大事で、殊に皇国の一大事ですから、毎々申し上げる通り、浅識の臣等はとても見込みを付け兼ね、可否は申し上げられません。この上は、叡断をもって(親征を)仰せ出されれば、ただ、勅命を奉じ、御輿に随従する心得です。自然、御祈願のため、八幡へ行幸されることもあるでしょから、(親征布告・八幡行幸は)朝議に任せられますよう存じます
しかしながら、(実際の親征に際しては)在京の二、三の諸侯を召し連れ、遠く宮中を御離れになるのは如何かと存じますので、あまねく東西の大名を召出され、御進発されるべきかと存じます。
(後略)←注:『贈従一位池田慶徳公御伝記』には以降が省略されています。結構大事な部分が省略されてる気がするんですけど・・・・。『鳥取池田家文書』にもありませんでした。探せたら追加します。
(出所:8月11日御連署(松平相模守・松平淡路守・松平備前守・上杉弾正大弼)上書控『贈従一位池田慶徳公御伝記』二p447-448より作成)

<ヒロ>
四候連署の上書は、先に二条右大臣に提出した上書案に、中川宮の建白を反映した修正が加えられているようです(諸侯召命など)。また、上書案にみられた幕府批判(「姑息苟安而巳」で「毎事朝政二悖」など)や親王を将とする親征という表現が消えたようにみえますが、ここは後略された部分を読まないとなんともいえないです。

慶徳は、7月14日、朝廷の下問に答えて、幕府・大名が職掌を尽さぬうちの親征は時機尚早であり、幕府も今の状況では必ず攘夷を実行するだろうからと、親征/布告の見送りを建白しています(こちら)。これは、親征を好まぬ天皇の内意にも添うものでした。自身が先頭に立つ親征を好まず、中川宮の西国鎮撫を強く押す天皇に、今回の建白は、いったいどう受け止められたでしょうか・・・。

参考:『贈従一位池田慶徳公御伝記』二p446-448、『鳥取池田家文書』一p555,556,599 (2012.1.3)

(5)真木和泉と西国鎮撫
【京】文久3年8月11日、真木和泉は、御所に召され、議奏・伝奏らから八幡行幸について下問されました。
「十一日晴 己(ママ)刻、仮建に召。廣幡(忠礼)、飛鳥井(雅典)、徳大寺(実則)、野宮(定功)、長谷(信篤)諸公卿列座。八幡行在之事を問。」
出所:「文久癸亥日記」『真木和泉守遺文』p605(()内by管理人)

<ヒロ>
前日(10日)、中川宮は、西国鎮撫の代案として八幡行幸の建白を差し出しました。さらに、因幡藩主池田慶徳らも同様の建白をするだろうからその時は採納するようにと議奏らに伝えました。そこで、議奏らは、西国鎮撫の発案者である真木和泉に八幡行幸の可否を諮問したのだと思います。真木は西国鎮撫&大和行幸派ですので、八幡行幸には否定的な意見を述べたと思われます。

(6)会津藩と因幡藩
【京】文久3年8月11日、守護職・会津藩主松平容保は、因幡藩主池田慶徳に書を送り、中川宮が鎮撫将軍として小倉に入城するという風聞の真偽を尋ねました。


小笠原大膳大夫から小倉城を御取り上げになり、中川宮を鎮撫将軍として入城になると申す風聞があるが、これは容易ならぬことで、心配している。いよいよなのか、真否御聞き込みのところを早々に伺いたい。
(出所:8月11日付相模守殿宛肥後守書簡『鳥取池田家文書』より作成)

<ヒロ>
攘夷親征の詔が発せられ、禁門の政変の立役者となる薩会-中川宮連合が発足するのは、このわずか2日後、13日のことですが、この緊迫した時期にあって、会津藩は政治的な動きの外にあり、 天覧馬揃えをきっかけにようやくチャンネルが開いた慶徳(こちらの(3))を頼らざるを得ないほど情報のかやの外にあったことがよくわかりますよね。また、慶徳に聞けばわかるという認識(慶徳が朝廷で重用されているという認識)があったことも窺えます。なお、慶徳は、翌12日に返書しています。

参考:『鳥取池田家文書』一p556-557(2012.1.3)

関連:■「開国開城」「大和行幸計画と「会薩−中川宮連合」による禁門(8.18)の政変」■テーマ別文久3年:「攘夷親征/大和行幸の詔と禁門の政変

●おさらい:攘夷親征vs西国鎮撫
文久3年6月9日に、将軍家茂が東帰のために幕兵とともに退京・下坂し(こちら)、13日に大坂を出港しました(こちら)。そして、将軍と入れ替わるように、真木和泉が入京して、攘夷親征論は一気に具体化しました(こちら)が、孝明天皇は、攘夷親征を好まず、近衛忠煕前関白父子・二条斉敬右大臣らも親征には反対でした(こちら)。7月5日には、近衛前関白らは、攘夷親征に関して外様藩を含む諸大名を召して衆議をこらすようにと上書しましたが(こちら) 翌6日には急進派公卿が連署して、将軍へ攘夷委任の不可&攘夷親征の布告を建言しました(こちら)。親征布告は朝議の重要課題となり、7日には、因幡藩主池田慶徳を召して攘夷親征布告等を下問し(こちら)、次いで9日には真木和泉を召し出して攘夷親征について下問しました(こちら)。 11日には、急進派公卿の後ろ盾である長州藩の家老が入京し(こちら)、親征派はさらに勢いづきました。孝明天皇や近衛前関白らは、12日、薩摩藩国父島津久光に対して召命の沙汰(表向きは親征「御用」)を出して、久光に急進派を掣肘させようとしました(こちら)。また、親征に慎重な慶徳は、異母弟の後見職一橋慶喜らに親征論が起ったことを知らせて幕府の攘夷断行を促すとともに、14日には、朝廷の下問に対し、幕府・大名が職掌を尽さぬうちの親征は時機尚早だと断じ、布告の見送り・攘夷監察使の西国要港派遣を建白しました(こちら)。相前後して、親征反対&久光召命派公卿に「天誅」等の脅迫が続き、16日には、急進派の牛耳る朝議で、久光召命の中止が決定しましました(こちら)。自分の意向が通らないことに孝明天皇は激怒しましたが、翌17日、久光上京猶予の沙汰が出されました。急進派が勢いづくなか、18日には、ついに長州藩が攘夷親征を建白し、朝廷に決断を迫りました(こちら)。ところが、19日、鷹司関白に諮問された因幡・備前・阿波・米沢等の在京有力諸侯はいずれも親征に同意せず(こちら)、親征論は一時頓挫しました。

長州藩や真木和泉は、8月に入り、在京諸侯の中心的存在である因幡藩を味方に引き入れようと藩主池田慶徳に頻りに入説しました。慶徳や同席した諸侯は彼らの強硬な主張に同意しませんでしたが、これでは自分たちの望む穏健な方策は行われぬまいと、一時、国事諮問の辞退を申し合わせたほどでした。

この間、真木和泉の発案により、中川宮に西国鎮撫を命じる動きが活発化しました。急進派公卿は親征を好まぬ天皇に対し、中川宮の西国鎮撫使任命か、さもなくば「おイヤな」親征かと迫りました。孝明天皇は、8月7日、攘夷親征論を時機尚早だと断固退け、その代りに、中川宮に西国鎮撫(具体的には四国・九州における攘夷掃斥・小倉藩処置)を命じたいとの強い意向を示しました(こちら)。8日夕、急進派の圧力により、中川宮に西国鎮撫の内命が下りました(こちら)。 翌9日、西国鎮撫の内命に裏があることを察した中川宮は、因幡・備前両家に対して、親征を建議して、西国鎮撫が沙汰やみになるよう周旋せよと命じました。その一方で、上書して、西国鎮撫使の内命を辞退しました。朝廷は即日使者を遣わして説得しましたが、中川宮は受諾せず、西国鎮撫より八幡行幸が至当だと述べました(こちら)。10日、中川宮は、親征であれば先鋒を願うが西国鎮撫は断ると、内命を改めて固辞するとともに、西国鎮撫の代案として八幡行幸・諸侯召命を建議しました。また、。中川宮から親征建議を依頼された因幡藩主・備前藩主は、本来は親征反対派ですが、打ち合わせの結果、親征布告、祈願の八幡行幸、廟算一定、関東に厳重な沙汰、なお因循すれば親王による内外征討を主旨とする上書を提出することにしました(こちら)

■反・春嶽上京
(7)道中協力者への「天誅」予告
【大津】文久3年8月11日、大津駅問屋場に、「朝敵」春嶽等の道中に協力する者への「天誅」予告が張り出されました。


「朝敵松平春嶽上京可致趣相聞へ、不届至極ニ候。右ニ付、越前道中ニ於テ、春嶽同類ノ者止宿ハ勿論、人馬継立等致候ニ於テハ、忽可天誅加旨、急度相心得可申様申聞候事」
(出所:『続再夢紀事』ニp96、句読点by管理人)

<ヒロ>
尊攘急進派/即時破約攘夷派の浪士たちは、攘夷親征計画を進める一方で、越前藩の挙藩上京の噂に非常に神経を尖らせていたようです。まず、7月27日には春嶽の宿舎に予定されていた高台寺が放火され(こちら)、次いで8月初旬には、三条大橋に春嶽が押して上京したときの宿舎にすべて放火するとの予告が張り出されていました。実際は、7月23日に藩論が一転して、挙藩計画は頓挫していたのですが(こちら)、藩主茂昭の参府にかこつけて兵を大津まで動かし、そのまま京都に上ってくるという疑念があったのでしょうか・・・・・?

↓”Last but not least!!"
■横井小楠と越前藩
(8)【越】文久3年8月11日、横井小楠は越前藩政治顧問を辞めて福井を出立し、熊本に向かいました。 (禁門の政変まで後わずか7日だというのに・・)・。

小楠は肥後藩士ですが、請われて長年越前藩の政治顧問を務め、前藩主松平春嶽・藩主茂昭の信頼も高い人物でした。しかし、彼が立案した挙藩上京計画(朝幕諸侯・草莽・外国人によるの大会議等実現のための雄藩連合による政変計画こちら)は、7月23日の藩論一転(こちら)で挫折し、挙藩上京を推進してきた要路の人々は、以後、次々と解職等の処分を受けました。小楠は深く慨嘆し、もはや滞留すべきではないと、突然、暇乞を願い出ましたが、春嶽・茂昭は許可しませんでした。しかし、小楠が再三懇願したため、春嶽・茂昭もやむをえず許したそうです。

小楠は前年の文久2年12月に江戸で刺客に襲撃されたときに、その場を一旦去った一件(「士道忘却事件」こちら)で、肥後藩から重い処分を受けるという予測がされていました。春嶽・茂昭は、小楠がこのような事件に遭遇したのは「元来国事に関して尽力の廉ありしか為め反対の意見を懐ける輩より暴行を加へんとせしものなれは尋常の武士道を欠たるものと同視すへきにあらす況や本藩へ聘用以来前後少からさる功労ある事なれは黙止すへきにあらす」と、7月に藩論説明のために岡部豊後らを熊本に派遣したときにも(こちら)、その事情を伝えさせ、寛大な処分を乞わせていました。その復命をまだ聞かぬまま、小楠が突然に熊本に帰ることになったので、春嶽らは、特に藩士柳原幸八・平瀬儀作・末松覚兵衛・海福雪を使者として、小楠とともに熊本に派遣して、長年小楠を借用した謝辞と小楠の処分寛大を嘆願させることにしました。

<ヒロ>
うぅ・・・小楠が福井を発ってしまいました・・・・・・。禁門の政変までわずか1週間という時期です。この後、小楠は熊本で処分を受け、政治の表舞台から去ることになります。小楠が今少し福井にとどまっていれば、禁門の政変後、春嶽の参謀として上京しただろうし、そうすれば、政変後の政局も、今知られているものと違ったものになっていたかもしれませんよね・・・?惜しい・・・・・・。小楠がいなかったためあんな風に「歴史は動いた」というか小楠がいなかったため「歴史は動かなかった」というか・・・。

春嶽・茂昭連名の肥後藩主細川慶順宛書簡が『続再夢紀事』に引用されています。長文なので今回は時間ぎれです。バレバレだと思いますが、実は、小楠は管理人が一番興味をもっている幕末人物ですし、時間のあるとき、こっそり「私的資料集」にUPしたいと思っています。

参考:『続再夢紀事』二(2004.10.4)
関連:■「開国開城」「大和行幸計画と「会薩−中川宮連合」による禁門(8.18)の政変」■テーマ別文久2年:「横井小楠」文久3年「越前藩の挙藩上京(政変)計画」「大和行幸と禁門の政変」■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年」

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