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■参与会議へ 【京】文久3年10月18日、前越前藩主の松平春嶽が入京しました。 同日、春嶽は藩士酒井十之丞を薩摩藩国父島津久光のもとに派遣しました。久光が前日、大津宿に小松帯刀を派遣したこと(こちら)への答礼のためでした。 <春嶽再上京の経緯> 春嶽は3月の総裁職無断辞職・帰国によって逼塞処分を受けましたが(こちら)、5月に幕府はこれを解除しました。6月、越前藩は、顧問の横井小楠の主導によりけ、挙藩上京して朝廷・幕府に藩論((1)国是決定のために諸侯・外国人公使を交えた大会議を開く、(2)朝廷による政治の裁断と賢明諸侯・諸藩士の政治参加)を建議することに決し(こちら)、薩摩・肥後藩等に協力を求めるために九州に使者を送りました。しかし、藩主の参府を主張する者から異論が起って、7月下旬に計画は延期となり、挙藩上京派は失脚しました(こちら)。失意の小楠が8月上旬に福井を去った(こちら)直後、禁門の政変(8.18政変)が起り、越前藩は即座に上京を願い出ました。しかし、朝廷は春嶽の逼塞処分が解除されたとは認識しておらず、上京は許されませんでした(こちら)。春嶽の早期上京を望む守護職松平容保の尽力で、伝奏に詫書を提出すれば許されるだろうとの内示が下され、容保はこれを越前藩に報知しました(こちら)。春嶽は、10月3日、詫書を提出させました(こちら)。同月6日に赦免状が下り(こちら)、同7日に、上京の沙汰が下りていました(こちら)。これを受けて春嶽は、13日に福井を出発していました。 盟友の薩摩藩国父島津久光はすでに3日に入京しており(こちら)、春嶽の上京を心待ちにしていました(久光は、春嶽と会見してその意見をきくまではどこへも出かけず(こちら)、朝廷に建言をしないことにしていました(こちら)。薩摩藩が会津藩と提携して政変を起したのは緊急避難的なもので、薩摩藩にとって本来のパートナーは越前藩だったことが、ここからも伺えるのではないでしょうか)。また、軍艦奉行並勝海舟も春嶽に期待し、早期上京を促していました(こちら)。 関連:■開国開城「将軍上洛と大政委任問題」「政変後の京都−参与会議の誕生と公武合体体制の成立」■テーマ別文久3年:「松平春嶽再上京」「参与会議へ」■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年」 参考:『徳川慶喜公伝』2、『続再夢紀事』ニ( 2001.11.28、2004.12.10) |
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