◆1/9【京】若井鍬吉、近衛忠房・小松帯刀と会し、征長7候の召集で合意【江】若年寄立花種恭帰府 ☆京都のお天気:晴雲東方行午刻後快晴長閑 (嵯峨実愛日記) >老中本庄宗秀・阿部正外の率兵上京 【江】元治2年1月11日(2.6)、老中本庄宗秀・阿部正外に上京が命じられました。 翌12日に老中松前崇広が在京の松平容保・定敬に宛てた書状によれば、両人の用向きは「多少の黄金をもたらし、大砲一座、歩兵四大隊を筆記、賂を行い、御上洛・御進発をなからしめ、諸藩の九門御守衛に替わるに歩兵をもってせん」とのことでした。 また、薩摩藩士柴山良助が得た情報によれば、「一橋公御呼戻之儀、表通(=公式に)御願立、且、将軍様御上洛之一条、松前候御受込に相成、御東下被成候に付、右御申開之為、旁之御用筋と申事」でした。 (おさらい) 元治1年11月19日、幕府は老中松前崇広・若年寄立花種恭に対し、長州表の御用のための率兵西上を命じ(こちら)、崇広は23日に兵を率いて陸路西上しました。西上の真の目的は上京・慶喜の江戸召喚だったとされています(こちら)。しかし、慶喜は、天狗党追討のため、12月3日に退京していました。崇広は12月15日に入京しましたが、朝廷は、崇広への応対は慶喜帰還まで見合わせることを決定しており、容保・定敬は崇広に面談して、将軍進発促進のための東帰を説得した(こちら)。二条関白・中川宮もこれに加わり、12月23日、崇広は、容保・定敬に対し、東帰して将軍進発に尽力することを誓うと(こちら)、慶喜の帰京と入れ違いで、12月24日に京を出立しました(こちら)。元治2年1月8日に着府しましたが、登城を差し止められ、幕政には関与できずにいました、 一方、、種恭は、12月7日に改めて上京を命じられ 10日に江戸を出立、20日に海路着坂し、22日に入京しました。ところが、翌24日に崇広が突然東帰してしまったため、26日に、単独で二条関白に慶喜東下の許可を内願しましたが、内願は却下され(こちら)、出立に際して面会した慶喜からも江戸帰還を断られて、役目を果たせぬまま、27日に退京しました(こちら)。種恭は、崇広の着府の翌日、元治2年1月9日に帰府し、10日に登城しました。 <ヒロ> 時系列的に、種恭の報告を受けての両老中への上京決定ですよね。 なお、朝廷は、松前・立花の上京前の12月9日、老中1-2名召命の勅諚を出しており(こちら)、中川宮が会津藩公用人倉沢右兵衛から聞いたところによると、今回の本庄・阿部上京は(表向きは)この勅諚を受けたものになるようです。 参考:「御側勤中日記」「柳川藩留守居役報告書」等(綱要DB慶応1年1月18日条No58、75)、『朝彦親王日記』一p109(2019/1/3) 関連: ■テーマ別元治1老中松前崇広・若年寄立花種恭の率兵上京 ■テーマ別慶応1「本庄・阿部老中の率兵上京」 >第一次幕長戦 ■長州処分問題(慶勝VS幕府) 【江】元治2年1月11日(2.6)、征長総督府の使者として、幕府大目付永井尚志及び尾張藩士が江戸に到着しました。 (おさらい) 慶勝は、前元治1年12月27日に征長諸藩に撤兵を通達すると(こちら)、1月1日、幕府に長州服罪・撤兵次第等を報告するため、大目付永井尚志、藩士千賀興八郎・長谷川惣藏を使者として江戸に向かわせていました(こちら)。 【姫路】元治2年1月11日(2.6)、凱旋途中の征長総督徳川慶勝(前尾張藩主)は、上京せずに直接参府せよとの幕命を受け取りました。そこで、附家老成瀬正肥を代りに上京させることとしました。 <ヒロ> 慶勝自身はまず上京して朝廷に報告するつもりで、その旨を朝廷もに伝えさせていました。 関連:■「開国-開城」第一次幕長戦争と水戸浪士(天狗)西上■「テーマ別元治1」第一次幕長戦(元治1) 「テーマ別慶応1」第一次幕長戦:征長軍の撤兵と長州処分 >御陵衛士前史 ※以下、サイト開設当初の2000年にUpしたものですが、守護職に関連するので残しておきますね。(暴力による異なる意見の封殺はどちらのサイドの主張であっても共感できないものです)。 【坂】元治2年1月11日、(新選組)が会津藩主松平容保賞賛&容保批判者への天誅予告状が大阪に張り出されました(「鐘奇斎近世風聞雑記」)その内容を要約すると・・・ 東国之士14人・西国の士21人(注:計35名)が大阪市中に伝える
この天誅予告文は新選組のものとみて間違いはないと思います。まず、文久3年来京都・大坂を徘徊し、文久3年時には東国14名と西国21名の計35名であったとしています。浪士組の上京は文久3年で、3月に守護職お預かり決まって反対勢力を一掃したあと、芹沢・近藤らは京阪で隊士を募集し、その後、朝廷の学習院、老中板倉勝静、守護職松平容保あてに35名連名の鎖国に関する上書を出してます。この内訳をみると、上京組の芹沢派5名と近藤派8名に、関東出身の齋藤を含めた14名が東国之士、長州出身の佐伯と京阪で募集した21名が西国之士にります。 さて、この張り紙はなぜこの時期に貼られたのでしょう?わたしは背景に第一次征長戦(幕長戦争)があったのではないかと思ったりしています。新選組(土方)はこの第一次征長軍に加われるものと期待していたのか、元治1年末に「行軍録」を作成して故郷に送っていましたが、お呼びはかかりませんでした。征長には参加できなかったものの、征長は実際は戦闘には至っておらず、次にくる(と彼らの信じている)攘夷戦争では先鋒をつとめて武勲をあげたいという意識があったのでは・・・などと想像します。 (署名はしていませんが)新選組は、会津藩にかわって天誅をするのだと宣言していますが、会津藩はどう受け止めたでしょうか?新選組は、会津藩がやりたくてもできない汚れ仕事を率先してやっていった・・・会津藩は黙認していた・・・そんな可能性もあると思います。実は、前年末には新選組は、会津藩のためにといって、大阪豪商から7万1000両を押し借りしたということがありました(『鴻池善右衛門』)。それも会津藩にいわれたのではなく、会津の京都における手元不如意を気の毒に思って自分の考えでやったといいます(『筆叢拾遺』−『誠一字』52号)。会津藩はこの頃、幕府から朝廷寄りとみられて嫌疑を受けており、前年9月から経費月1万両の支給をさしとめられていたのです。新選組のこの行動について会津側の史料は未見なのですが、7万1000両もの献金には喜んだのではないでしょうか。(近藤はその金を着服していたという説もありますが:『鴻池善右衛門』)。『京都守護職始末』の新選組評「守護職のために役立つことも大きかった」が頭をよぎります・・・。 ところで文久3年の35名が上書提出メンバーだとすると、提出から約1年半後の元治2年には、すでに21名が隊にはいませんでした(脱走14、粛清死4、戦死1、その他の死2)。残り15名中、佐々木蔵之介は慶応元年夏以前の脱走が確認されていますが、仮に元治元年正月前に脱走していたとしましょう。予告状の張られた時期に在隊していたのは以下の14名となります。 近藤・山南・土方・沖田・永倉・井上・藤堂・原田・斉藤・川島・松原・林・島田・中村です。 では、なぜ京阪にとどまって(天誅)活動している人数が14名でなくて11名とされているんでしょう?11名は誰・・・というより、除かれた3名は誰でしょう?この3名を江戸にいた藤堂、近藤批判で長期謹慎中の永倉、そして山南だとする見方があります。だとすると山南はなぜ除かれたのか。もしかすると、近藤・土方との路線対立があり、山南は、この張り紙にみられるように、会津藩に迎合し、暴力でものごとを解決しようというやり方に賛成しなかったのではないかとも想像するのですが。 また、この時期の予告状で、脱落者の多い文久3年の結成時のメンバーを引き合いにしたのはなぜでしょうか。この張り紙は攘夷についても主張していますので、鎖港上書のメンバーを挙げたとも考えられると思います。しかし、結成時を正統とすることにより、前年末に上京した伊東らへのけん制も図ったのではないかと思ったりもします。 <参考>『徳川慶喜公伝』、『鴻池善右衛門』、『京都守護職始末』、『新選組日誌』、『幕末政治と倒幕運動』(2000.2.6, 2001.2.6) |
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