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文久3年3月10日(1863.4.27)
【京】春嶽総裁職辞任:伊達宗城、留任を説得
【京】浪士対策:守護職松平容保、「尽忠報国」の在京浪士差配を命ぜられる
【京】壬生浪士:芹沢鴨・近藤勇ら17名、容保に残留嘆願書を提出

■春嶽辞任
【京】文久3年3月10日、前宇和島藩主伊達宗城は、越前藩士村田巳三郎に対し、松平春嶽の政事総裁職辞任を翻意するよう説得しました。

宗城 確かに「術計」は尽き果てたが、春嶽殿のことは大樹公もかねて格別に頼りにされ、その上昨日もしきりに出勤を希望される御様子だった。春嶽殿すらそのように覚悟される上は、容堂といい拙者といい、尚更覚悟せねばならぬ。だが、一斉に退くことになれば大樹公は定めて御心細いことだろう。それに思いをめぐらせば、人情忍びかねることである。この上ながら、何とかならぬものか。
村田 春嶽も同様に痛心しておりますが、既に申し上げたように、「在職しても圀家に寸分の益」があるまいと、止むを得ず決心されたことであり、藩中の者もこの上思い返すようにとは申し出かねます

参考:『続再夢紀事』一p409-410(2004.4.29)
関連:■開国開城:「将軍家茂入京-大政委任問題と公武合体策の完全蹉跌」 ■テーマ別文久3年:「政令帰一(大政委任か大政奉還か)問題」■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年

■浪士対策
【京】文久3年3月10日、老中は、京都守護職松平容保に、在京の有志浪士の差配を命じました。

<京都にいる浪士どもには尽忠報国の志のある者がいるように聞くが、これらの者には一方の御固めも命じられようから、会津藩が一手にまとめて差配いたすべきこと>(『会津藩庁記録』一口語訳byヒロ)
「浪士を捕えしめ玉と雖も、寛待し玉う處の意は故の如くなり玉えて、公用局をして之を掌らしめ玉う時に、関東に於ても浪士を募るの挙ありて、鵜殿鳩翁之を総括し、山岡鉄太郎松岡萬等之を組頭となり、二百人余将軍の上洛し玉えるに先後し、中仙道を経て連々に着京し、議論檄々として往来縦ままなり。蓋し関東に於て建言し、京師浪士の勢盛なるを以て、之を登せて、以て其勢を墜せんとせられし策ならん。着するに及んで浪士の間相合わず議論派をなし英吉利の迫り来るを以て関東に帰り攘夷に向わんというあり。留て将軍を守護し奉んと願うあり。執れに於ても規則に入る無きを以て鳩翁の力之を制御する能わず、其東帰を願うもの山岡松岡等は鳩翁自ら卒て東下し去り、其留るを願うもの二十四人我公の附属に命ぜらる。是より京地に在て浮浪するもの往々附属を願うあり」(「鞅掌録」)

<ヒロ>
◆浪士組/新選組よくある誤解?
新選組本などで、この日、容保に残留浪士差配が命じられたと書いてあるものをよく見かけるのですが、明らかに誤りです。上記のように、会津藩の差配対象は「尽忠報国」の志のある在京浪士一般であり、残留浪士を特定したものではありません。実際、嘆願書には浪士組メンバーではない斎藤一佐伯又三郎が含まれていますし、清河八郎と懇意の藤本鉄石ら(こちら)も、会津藩差配を願い出ており、13日には容保が直接会っています(こちら)

容保は、浪士対策の一環として、2月5日は、有志浪士を武田耕雲斎に附属させ、自分の指揮下に置いて攘夷の先鋒にしたいという意見を慶喜・春嶽に明らかにしており(こちら)、同月14日には、在京幕府要職は、脱藩者は帰藩させ、主のない者は幕府が扶助するという方針を決定しました(こちら)。同月27日には、容保は、有志浪士を附属させて攘夷の先鋒としたいという旨を正式に朝廷へ建白しています(こちら)在京の有志浪士を容保に差配させることは、守護職/幕府の既定路線であり、残留浪士の処遇をめぐってでてきた案ではないのです

もちろん、この時期に幕命が出たことは、残留浪士が絡んでいることは間違いないと思います。幕府は、前日、浪士組全員の東帰を決定しましたが、帰還浪士と残留希望浪士の対立が激しく、とても全員を帰すことはできない状況でした(こちら)。このまま残留希望浪士の説得を続けて日を移し、浪士組が滞京を続けることは得策ではないと判断したのではないでしょうか。両者の対立の激化により、問題が起ることも懸念されたでしょうし。

関連:■テーマ別:「浪士対策」■清河/浪士組日誌文久2年 文久3(@衛士館) 芹沢鴨の事件簿文久3年(@衛士館)■「開国開城」「「天誅」と幕府/守護職の浪士対策
(2000.4.27、2001.4.27、2003.4.28, 2004.4.29)

■壬生浪士
【京】文久3年3月10日、浪士取扱の鵜殿鳩翁は、浪士組一番隊の殿内義雄・家里次郎に残留希望者を募らせました。

有志之者相募候はば、京都江戸之内江罷り出候義は、其者之心次第可致候。京都に罷在旨申聞候者は、会津家々中へ引渡、同家差配に可随旨可被談候」(『会津藩庁記録』一)

<ヒロ>
日付は不明なのですが、会津藩の浪士差配が正式決定しないうちに「会津家々中へ引渡、同家差配に」という文面になるとは考え難いので、この指示は10日に出たと推測しました。この指示が老中の沙汰がでることを見越した内命だとすれば9日以前だとも考えられますが、9日には鵜殿らに浪士全員東帰という幕府の決定が伝えられているので(こちら)、やはり10日が妥当ではないでしょうか。

【京】文久3年3月10日、芹沢鴨・近藤勇ら17名が松平容保に、将軍江戸帰還までの残留嘆願書を提出しました

三月十日に差出した嘆願書の趣意

今般、「外夷(が)切迫」して世上が混乱していますので、(我々は)恐れながら上京の上、天朝を御守護いたすことはもちろん、大樹公(将軍)の御警衛をし、「神州之穢レヲ清浄」せんが為、(将軍)御下向後、「勅ニ基キ攘夷」をするのが「同志一統之宿願」でございます。ところが、大樹公の御下向がないのに一統に東帰を命じられております。東帰の上、「直様斬夷」いたすことは、「大悦至極」にございますが、(将軍下向前の)退去の件は、一統も耐えられません。、なにとぞ、大樹公御下向まで御警衛いたしたく、志願いたします。恐れながら、これ迄も密かに御城外の夜警をいたしたく、「寸志之御警衛」をいたしておりました。愚意を御酌取りになり、御下向となるまで、銘々の退去の延引を御許容になれば、ありがたいことでございます。元より毛塵の私供が申上げることも恐入りますが、これ迄の御厚命は心から有がたく存じておりますので、捨命報国の心願をいたします。もし、退去の延引がお聞き届けいただけなければ、また、身を隠して浪々の身となり、「天朝并ニ大樹公之奉御守護攘夷」をいたします。なにとぞ、愚意の趣きを御取次いただくよう、連盟をもってお願いいたします。

浪士
芹澤鴨 近藤勇 新見錦 粕谷新五郎 平山五郎 山南敬介 沖田総司 野口健司 土方歳三 原田佐之介 平間十輔 藤堂平介 井上源三郎 永倉新八 斎藤一 佐伯又三郎 阿比留鋭三郎
右十七人

三月十日会津公へ差し出しました。
(参考:文久3年3月23日付近藤勇「志大略認書」『鶴巻孝雄研究室』掲載の翻刻文を口語訳byヒロ)

<ヒロ>
○残留嘆願趣意
この嘆願書では、芹沢・近藤らの上京目的は、朝廷の守護及び将軍の警衛によって攘夷を行うことであり、その宿願は将軍の江戸帰還後、勅に基づく攘夷に参加することだとされています(「上京の上天朝を御守護奉り候は勿論并に大樹公御警衛以て神州の穢を清浄せんか為御下向の後勅に基き攘夷仕候同志一統之宿願御座候」)。水戸「尊攘激派」である芹沢・粕谷らの考えがよく反映されているのではないかと思います。また、芹沢・近藤らの残留希望理由はあくまで江戸帰還までの将軍警衛だったというところも、もっとクローズアップされてもよいと思います。ちなみに、幕府は8日に将軍滞京期間の延長を奏請していましたが(こちら)、まだ朝廷の沙汰は降りておらず、この時点では滞京は3月13日までとなっていました。

芹沢の残留と水戸藩「尊攘激派」
また、芹沢の残留理由については、「芹沢は瘡が大変できて其当時悩んでおりました。且又水戸の連中が本国(本国寺)に残って居るから、自分は少し京都に残って居たいものだと云う、それから山口(徳之進)なども芹沢は病人だから残して行ったらよかろうと言うので、そういうことにした」(元浪士取締付・中村雅隆(草野剛三)談 『史談会速記録』)という談話もあります。幕府は、江戸防衛のために、水戸藩主徳川慶篤を東帰をさせることを決めており、8日には将軍滞京と慶篤帰府を朝廷に奏請していました(こちら)。しかし、11日に将軍滞京は認められましたが、東帰は慶喜か春嶽にとの朝命が降り、さらに14日には慶篤に滞京の沙汰が降ります(こちら)。中村の史談は水戸藩の動きと平仄があうことがわかると思います。なお、粕谷新五郎も水戸浪士です(攘夷を訴えて薩摩藩邸に駆け込んだ38浪士の1人)。

○佐伯又三郎・長州藩の「つなぎ」?
名簿で興味深い点は、斎藤一と佐伯又三郎という、浪士組には加わっていない2人が嘆願書に署名していることです。会津藩の差配は「尽忠報国」の者が対象なので、浪士組以外の人間が差配を希望すること自体は不思議ではないのですが、浪士組上京からまだ2週間ちょっとしか立っていない時期での合流です。佐伯には長州間者説(by西村兼文)、斎藤には会津間者説/幕府隠密説(根拠は??)があるのですが、この段階で間者が送りこまれるのには疑問があるという見方もあるようです。斎藤・佐伯ともに江戸にいるころからの近藤・芹沢の知り合いだったという見方もあるようです。管理人は、今のところは、長州藩は水戸藩激派の芹沢のもとにいわば「つなぎ」として佐伯を送りこんだのではと推測しています。これまで何度も書いてきましたように、浪士組上京・残留残留の背景には水戸藩激派(本国寺党)との連携があると考えているのですが、その水戸藩激派は長州藩激派と連携していました。残留浪士においてもその連携を確保するために佐伯を送り込んだのではと思うのです。斎藤は・・・わかりません^^:。そもそも、会津間者説とか隠密説は根拠となる資料の提示をみたこともないので、なんともコメントしようがないのです。

○芹沢・近藤派VS殿内・家里?
芹沢・近藤・粕谷ら17名は、容保が浪士差配の責任者に命じられた即日に、残留嘆願を行っています。浪士取扱の鵜殿鳩翁が殿内・家里に残留希望者の募集を命じているのにも関わらず、芹沢・近藤らは別行動をとっているわけです。のちに、殿内・家里は芹沢・近藤らによって殺されますが(家里は詰め腹)、このころから、すでに対立の芽があったのでしょうか。それとも、一度、残留が許可されたのに撤回されて全員東帰を命ぜられ、切羽つまった芹沢らが、会津藩に嘆願書を提出し、それを受けての老中からの「会津藩への浪士差配」となったのでしょうか。

おまけ:嘆願書省略の不思議
ところで、「志大略認書」の嘆願書部分は、新選組関係の史料を収録した『新選組日誌』・『新選組史料集コンパクト版』ではなぜか省略されています。いろいろ探し回り、ようやく「鶴巻孝雄研究室」さんのサイトに行き着き、全文を収録した翻刻文と出会ったのですが、読んでみると、やっぱり、彼らの政治思想を知るための基本的資料でした。ほんと、なぜ、こんな重要な部分が省略されているんでしょうか・・・ナゾです。(こういう例は他にもあるんですヨ。老中への上書の内容は省略され、提出メンバー名だけが引用されているとか。沖田総司・土方歳三の全書簡集は出版されているのに近藤勇の分はないし・・・)。

参考:、『会津藩庁記録』、『会津松平家譜』、『鶴巻孝雄研究室』 (2000.4.27、2001.4.27、2003.4.28、2004.4.29)
関連:■清河/浪士組/新選組日誌文久3(@衛士館)■「私的資料集:近藤勇書簡(2)志大略認書」(口語訳)

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