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文久3年3月12日(1863.4.29)
【京】将軍東帰:朝廷、後見職・総裁職いずれかの両日中の帰府を催促/
【京】春嶽辞任:慶喜、春嶽に留任を勧告&生麦事件交渉を依頼
【京】浪士組東帰:藤本鉄石、清河八郎にエールを送る
【京】壬生浪士:残留浪士、京都守護職預かりに

■将軍東帰&生麦事件賠償問題
【京】文久3年3月12日、朝廷(伝奏)は、慶喜に対し、後見職・総裁職どちらが帰府して江戸を防禦するのか早々に回答するよう、またどちらかが両日中(当初の将軍滞京期限10日以内)に京都を出発するよう、書面にて催促しました。

書面の概容は以下の通り
昨日(=賀茂行幸供奉)は御苦労と存じる
(昨11日の)公武一和・人心帰趨の処置の上の大樹公東帰の御沙汰につき、後見・総裁どちらかの速やかな東帰・防御万端の指揮を命じられたが、どちらが東帰されるか承りたい。
もともと、滞京10日をお請けになっていたゆえ、明日明後日には、御両人のうち一人が御出立になると存じる。もっとも、明日明後日の御出立がなければ、(約束の)期限が延びるので、その心得だと存じる。
(参考『続再夢記事』より作成。箇条書きbyヒロ)

○おさらい
幕府は、将軍上洛前の2月11日、攘夷期限設定を迫る朝廷に対して、将軍滞京は10日間で、さらに江戸帰還後20日以内に攘夷談判に着手すると約束していましたが(こちら)、これはとうてい実行不可能でした。将軍は3月4日に着京しましたので、約束によれば、将軍は14日には東帰し、4月中旬までには攘夷を断行せねなくてはなりません。慶喜は、今後の公武一和の成就や薩摩藩国父島津久光の近々の入京・周旋に期待てし、将軍滞京期間を延期させようと考えました。ちょうど、江戸において生麦事件の談判が予断を許さない状況でもあり、3月8日、鷹司関白に、京都守護を名目とする将軍滞京と・江戸防衛のための水戸藩主徳川慶篤東帰を奏請しました(こちら)。これに対し、朝廷は、前11日に将軍滞京を認めたものの、(慶篤ではなく)慶喜か春嶽の東帰を命じました(こちら)。(春岳は、3月9日に、幕府に辞職内願を提出して登城停止中(こちら)。

参考:『続再夢紀事』一p413(2004.4.30)
関連:■テーマ別文久3年:「水戸藩」「生麦事件償金支払&第一次将軍東帰問題」■開国開城:「幕府の生麦償金交付と老中格小笠原長行の率兵上京」■水戸藩かけあし事件簿

■春嶽の総裁職辞任
【京】文久3年3月12日、薩摩藩士高崎猪太郎が越前藩邸を訪ね、応対した村田氏寿に、明後14日着京予定の久光と春嶽との対面を求めましたが、春嶽は、断らせました

高崎
(猪)
この程三郎(=久光)が大坂に到着し、明13日伏見に泊まり、明後14日に入京する筈である。当地の近情は「百事紊乱」、特に攘夷を期限を定められた件は、促された朝廷も奉承された幕府も「軽忽」だと、三郎は嘆いており、人は「朝敵」などと申すかもしれぬが、上京の上は、存分に意見を陳述したいと欲している。(久光が)上京すれば即日貴邸に参上いたすので、御対面あるよう願いたい。
村田 (春嶽は辞表を出して)引篭り中ゆえ御体面はどうなるか。

村田が、春嶽に高崎の用件を伝えたところ、春嶽は<兼てから何事も御相談に及んだ間柄だが、今回は対面しがたい。たとえ対面しても何の御相談にものれない>と答えた。村田は高崎にその旨を伝え、さらに付け加えた↓
村田 春岳の辞表提出は、別意があってではなく、全く術計が尽きたからである。たとえば、「所謂攘夷なるもの(=打払い)」は、相手が「其道理を失へる時にこそ断行すへき」であり、(外国が)「交際を求る」のみで「道理を失へる事」のない今日、固より断行すべきではない。然るに、我方は交際拒絶のため干戈を動かそうとしている。これが果たして「攘夷の本旨」だろうか。それだけではなく、目下、既に期限をさえ定められ、どのような意見があっても容易く主張することができない。それゆえ、空しく重職を務めるをよしとされないのだ。
高崎 自分の存意も全くその通りである

<ヒロ>
久光は、いわば春嶽(/小楠)の幕薩-公武合体派連合策に基いて上京してきたようなものなので、あっさり袖にされて「え〜?」って感じじゃないでしょうか。春嶽も、いくらやる気をなくしているとはいえ、せめて、一度くらいは久光に会って、状況を説明するぐらいの義理ははたしてもよいと思うのですが、なんだか頑なです・・・。

***

【京】文久3年3月12日夜、後見職一橋慶喜は、辞職を内願中の総裁職松平春嶽を訪ねて辞意の撤回、生麦事件解決への尽力を要請ましました

応対した越前藩家老本多飛騨は、春嶽は引篭り中なので対面はできないと言いましたが、慶喜は、<辞表を出されたその趣意を聞かねば朝廷に奏上できないので、とにかく今日はお目にかかる>と頑張りました。慶喜が自分ひとりだけで聞き違いがあってはならないと呼び出した老中格小笠原長行・大目付岡部長常・目付沢勘七郎らも来邸したので、春嶽は、ようやく一同に会いました。

慶喜 公武一和は追々端緒につき、今少しで十分整う情勢である。すでに朝廷が、大樹公滞京の日数を延長され、江戸へは後見職・総裁職のどちらか戻るよう命じられたのも、一和を望んでおられるからである。賀茂行幸時(前11日こちら)には、大樹公に天盃を賜り、皇上自ら御酌をされるなどの御懇篤の待遇もあり、浮浪の輩も追々会津に隷属する見込みである。陽明家(=近衛前関白)の御内話によれば、「三条以下暴論の堂上」は最近、「聊悔悟」の様子があるそうで、関白殿下も「暴論」さえ起らなければ攘夷拒絶の事はいかようにも相談のしようがあるとおっしゃっている。どうか辞職は思いとどまられ、今一際の御助力を願いたい
春嶽 そうであれば速やかに出勤すべきだが、断然決心した末のことなので、篤と勘考の上、御答えしよう
慶喜 近く島津三郎(=久光)が上京するようだ。兼て三郎とは「御懇交の間」ゆえ、生麦事件の解決に尽力を願いたい内情もある。何分にも速やかに出勤してほしい。

慶喜退出後、本多は残った小笠原に謁し、辞任許可を求めましたが、小笠原は生麦事件が片付いた上での辞職を希望しました。
本多 辞職願いをお聞届けになりますように

小笠原
攘夷拒絶の件は「到底實際に行ひ得へき」ではなく、もとより拙者も(春嶽と)御同論であるので、強いて以前のように勤めてほしいとは言うまい。しかし、生麦事件については是非御周旋を願いたいので、一時御出勤し、片がついた上で、御辞職ということにしたい。
本多 生麦事件結了の上は速やかな辞職を保証していただけますか。
小笠原 必ず保証しよう。

<ヒロ>
慶喜/幕閣の久光への苦手意識がうかがえますよね。

慶喜らは、朝廷には未だ春嶽が辞職を内願していることは言上していません。そこへ、前11日、朝廷から将軍滞京、慶喜・春嶽どちらかの東帰を命じられた上、今日また慶喜・春嶽どちらかの両日中の東帰を催促されました。今さら朝廷に春嶽が辞職を願い出ているとはいえない状況でもあります。

参考:『続再夢紀事』一p414-416(2001.4.29、2004.4.30, 2012/4/29)
関連:■開国開城:「将軍家茂入京-大政委任問題と公武合体策の完全蹉跌」 ■テーマ別文久3年:「政令帰一(大政委任か大政奉還か)問題」「春嶽の総裁職辞任」■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年

■浪士組東帰
【京】文久3年3月12日、浪士組の東帰を翌日に控え、のちの天誅組総裁・藤本鉄石が清河八郎にエールを送りました。

同日付清河八郎宛藤本鉄石書簡には、「愈(いよいよ)明日は御出立遺憾遺憾。但し申迄も無之候得共為皇国御努力努力」と清河との別れを惜しみ、今後も皇国のために努力せよとするメッセージが書かれています。

<ヒロ>
清河は、よく、在京の尊攘急進派からは相手にされなかったといいますが、必ずしもそういうわけではありませんでした。藤本同様、天誅組総裁となった吉村寅太郎や、吉村とは同じ土佐勤王党の間崎哲馬、長州藩伊藤俊輔(伊藤博文)も清河と連絡をとっていましたし、住谷寅之介ら水戸藩「尊攘激派」とのつながりも続いていたようです(こちら)。東帰を決めた清河は、在京同志と東西呼応して攘夷を実行しようと考えていたと推測するのは、飛躍しすぎでしょうか?

参考:『清河八郎遺著』(2003.5.3、2004.4.30)

■壬生浪士
【京】文久3年3月12日夜、京都守護職松平容保に嘆願書(こちら)を出していた残留浪士17名の会津藩のお預かり決まったようです

<ヒロ>
文久3年3月23日付近藤書簡(こちら)によれば、夜九ツ(午前0時)に、嘆願が聞き入れられ、会津藩差配が決まったそうです。浪士組東帰予定日前夜のことで、ぎりぎりのタイミングとなります。彼らは嘆願が聞き届けられない場合は、再び浪人となって滞京する覚悟を示していました。ただし、『会津藩庁記録』では、残留浪士預かりを決めたのは、15日となっていますので、近藤書簡の日付が誤記であるか、12日夜の決定はいわば内定のようなものである可能性が高いのではと思います。

参考: 『会津藩庁記録』一、『鶴巻孝雄研究室』(2000.4.29、2001.4.29、2004.4.30)
関連:■清河/浪士組/新選組日誌文久3(@衛士館)

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