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文久3年5月18日(1863.7.3):
【京】将軍家茂、参内して摂海巡視の結果を報告。
将軍補翼徳川慶勝、償金拒絶交渉のための将軍東帰の沙汰を求める

■将軍の摂海巡視
【京】文久3年5月18日、将軍家茂は参内して摂海防御策を報告しました

家茂は4月21日に摂海巡視を名目に退京し(こちら)、兵庫西宮・神崎・友ヶ島・加太浦・舞子等を巡検した後、攘夷期限翌日の5月11日に帰京していました(こちら)。下坂中、4月24日には軍艦奉行並勝海舟の意見を容れて神戸海軍操練所・造船所創設の幕命を下していました(こちら)

なお、家茂の下坂には、朝命によって備前岡山藩主池田茂政(前水戸藩主徳川斉昭9男)が同行しており、帰京翌日の12日に巡検結果を朝廷に報告していました。


■生麦償金&将軍東帰問題
【京】文久3年5月18日、将軍補翼徳川慶勝(前尾張藩主。守護職/会津藩主の異母兄)は、将軍家茂自らが東帰して償金拒否の交渉にあたることを許可するよう上申しました。

<ヒロ>
慶勝は、同月16日に朝廷から償金支払い拒否の交渉経過に関する報告を求められていましたが(こちら)、この日になっても江戸からは報告が届かず、このような上申をしたようです。もちろん在京老中の支持あっての上申だと考えてよいと思います。実は、老中たちは、前々から、償金交渉にかこつけて将軍を東帰させることを考えていましたので、摂海巡視の復命も終わった今こそ、再び東帰を願い出るのチャンスだと考えたとしても不思議ではないと思います。そういう背景あっての東帰願いではないでしょうか。慶勝の真意は不勉強なので不明ですが・・・。

ところが、タイミングが悪いというのか何というのか、翌19日夜には償金支払いの知らせが京都に届き、大騒ぎとなります・・・^^;。

☆5月12日に、越前藩士中根靭負が紀州藩士伊達五郎から聞いた話によれば(『続再夢紀事』)、生麦償金支払の報(噂?)は、少なくとも11日以前に京都に届いており、朝幕ともに大騒動になっており(こちら)、翌13日には、中根は、板倉老中から、江戸から到着した武本甲斐の伝えた支払の事情をきかされています(こちら)。慶勝は老中から知らされていなかったのか、それとも知らぬふりをして朝廷に対応していたのでしょうか?正式な報告を待っていたのかもしれませんが・・・。

関連:■「開国開城」「幕府の生麦償金交付と老中格小笠原長行の率兵上京」■テーマ別文久3年:「第2次将軍東帰問題と小笠原長行の率兵上京
<参考>『徳川慶喜公伝』2・『維新史』三(2004.7.6)

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