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いろはに幕末長州藩


【かけあし事件簿2 国政進出後(文久1年〜)】

国政進出前前史 天保年間 弘化・嘉永年間(1844-1853) 安政年間(1854-1859) 万延1(1860) )

文久1(1861) 文久2(1862) 文久3(1863) 元治1(1864) 慶応1(1865) 慶応2(1866) 慶応3(1867)

文久1
(1861)


略年譜
■長井雅楽の航海遠略策と国政進出
文久元年(1861)3月、長州藩は直目付長井雅楽の「航海遠略策」(公武合体に基づく開国論)を藩論とし、これを掲げて中央政界にのりだした。雅楽は京都、江戸で公武・諸侯のあいだを周旋し、朝廷からも幕府からも賛同をえることができた。これを受けて、同年12月、出府した藩主敬親は老中に正式に建白書を出し、「今後、長州に公武周旋を託す」との将軍内旨をえた。

■周布の失脚
雅楽の策は、尊攘急進派には「因循」と不評で、長州藩内にも、吉田松蔭門下生久坂玄瑞らを始めとして雅楽の失脚を狙う勢力が存在していた。周布政之助も当初は雅楽の策に賛同していたが、7月に上府すると、久坂らの入説を受けて反対に転じた。

周布は航海遠略策を阻止するため、参府途上の藩主敬親を諫止しようと、9月7日、久坂とともに江戸を発って西上した(和宮降嫁阻止の建白も目的だった)。しかし、勝手に任地を離れたことを罪とされて帰国を命じられ、翌文久2年1月、20日間の逼塞を命じられ、久坂も帰国を命じられた。【関連:「開国開城-航海遠略策(公武合体的開国論)
文久2
(1862)


詳細年表

坂下門外の変
桂小五郎と親しい周布の失脚により、長州側は水長盟約(万延1)の実行が困難になったた。は水戸側に計画延期を申し入れたが、この機会を逃して再挙は困難だと判断した水戸側は、文久2年1月15日、江戸城坂下門外で安藤老中を襲撃した。しかし、暗殺には失敗し、襲撃者は全員その場で斬殺された。約束の時間に遅れた水戸の川辺佐治右衛門は、長州藩邸に駆け込み、と伊藤博文(俊輔)に後事を託して自刃した。このことで桂・伊藤両名は幕府の嫌疑を受けて糾問されたが、航海遠略説を周旋中で老中の信頼が厚い雅楽の尽力で、無事放免された。【関連:「開国開城-坂下門外の変」】

■藩論一転・破約攘夷へ
雅楽は3月に再度入京すると、朝廷に正式に航海遠略策の建白を行った。しかし、京都では尊攘急進派の勢力が伸張しており、情勢不利をみてとった藩主敬親の命で、江戸に戻った。5月、朝廷は、雅楽の建白書に朝廷を誹謗した文言(謗詞)があると問題にした。雅楽を排斥して藩論を一転させようという久坂・桂ら松下村塾門下の急進派らの工作結果だった。6月、在府の藩主敬親は雅楽に帰国謹慎を命じると、朝廷の疑念を晴らすために上京した(帰国した雅楽は、翌文久3年2月、藩命によって切腹に処せられた)。7月、敬親臨席で行われた在京要職の藩議の結果、長州藩は航海遠略策を破棄することに決し、藩論は破約攘夷へと大きく転換した。以後、長州藩は、藩を挙げて破約攘夷推進の朝廷工作にかかった。【関連:「開国開城-長州藩論一転・破約攘夷へ」、

■薩摩藩との関係悪化
藩主敬親の江戸出立は幕政改革の勅使大原重徳を護衛して東下してくる薩摩藩国父島津久光を避けるように行われたため、 薩摩が憤激し、薩長の関係が悪化する原因となった。【余話「薩長の「鴻門の会」】

■世子の大赦奉勅東下と薩摩藩との更なる関係悪化
長州藩が、破約攘夷を藩論として頻りに朝廷に入説した結果、長州藩主父子に対して、一人は滞京、もう一人は東下して国事を周旋せよとの朝命が下った。8月、世子定広が安政の大獄関係者の大赦の勅を奉じて東下した。しかし、大赦の対象に寺田屋事件関係者が含まれていたことから、薩摩藩が激怒した。そこで、薩長融和のために、幕政改革の勅を奉じて東下中の勅使大原重徳が独断で勅諚を改竄し、改竄の勅諚を定広に授けた。定広は二条城に上って改竄の勅諚を将軍に伝達し、将軍はこれを拝受した(こちら)。しかし、一件により、薩摩の長州への不信感は一層高まった。

■幕府への攘夷督促
閏8月、長州藩は朝廷に建白して破約攘夷の確定を迫り、破約攘夷周旋の内沙汰を得た。さらに、久坂・桂らは薩・土とともに朝廷に働きかけて、攘夷督促の勅使(三条実美・姉公示公知)を東下させ、将軍に攘夷奉承(上洛の上、衆議を尽す)を回答させた。 【関連:第2の勅使三条実美東下と攘夷奉勅&親兵問題 余話:長州と土佐の酔っ払い王対決!(周布vs容堂)】 

■高杉晋作の上海視察と英国公使館焼き打ち事件
この頃、江戸では上海視察帰りの高杉晋作が外国人襲撃を計画していた。勅使に随行して東下した久坂は反対して、高杉と激論になったが、結局、襲撃に参加することになった(蒲田梅屋敷事件)。しかし、計画を知った世子定広(大赦の勅を奉じて江戸滞在中)や三条実美の説得により、襲撃は中止された。このときの長州同志11名は御楯組を結成し、勅使・世子の江戸退去後の12月12日、御殿場の英国仮公使館を焼き打ちした(こちら)
文久3
(1863


詳細年表

■山口への藩庁(政事堂)移転
文久3年1月、藩主敬親は世子定広に後事を託して退京・帰国した。4月、藩庁を、萩から、地政学上、攘夷等有事の指揮により適している山口に移した。移転は幕府の許可を得ぬままに行った。

■賀茂・石清水行幸と攘夷期限確定
京都に残った長州勢は、攘夷奉勅のための将軍上洛を前にして、攘夷の機運をさらに高めようと、活発に動いた。2月11日、久坂らは鷹司関白邸に押しかけてに言路洞開・人材登用・攘夷期限決定の三策を強請した。彼らに呼応して急進派公卿が関白邸に群参し、直に請願を受け入れて天皇に奏上せよと圧力をかけた。 請願は勅許され、その日のうちに勅使8名が後見職一橋慶喜の宿舎を訪問し、攘夷期限決定を迫った。慶喜は、将軍滞京は10日限りで攘夷は将軍帰府後20日以内の見込(4月中旬)と約束した。13日には朝廷に新たに国事参政・寄人が設置されて、定員14名中13名に長州系の急進派が任命された(人材登用)、次いで20日、学習院における草莽の建言が許された(言路洞開)。また、長州藩は、2月20日及び28日に、攘夷親征を念頭においた賀茂・石清水両社への行幸を建議した(こちら)

3月4日に将軍が上洛すると、長州藩の建議どおり、賀茂行幸、石清水行幸が相次いで実行された。次いで4月16日、長州藩は攘夷期限確定を朝廷に建言した(当初、幕府は期限を4月中旬としていたが、その後、23日に延期していた)。朝廷に攘夷期限の確定を迫られた幕府は、4月20日、ついに、期限を5月10日とすることを全国に布告した(こちら)。翌21日、世子定広は、国許の防衛に専念するために京都を出立し、帰国の途についた。久坂ら藩士の他、諸国の急進派浪士も長州に下った。

■下関における攘夷実行、砲術教授中島名左衛門暗殺、奇兵隊創設
幕府が約束した攘夷は鎖港攘夷だったが、長州を筆頭とする尊攘急進派の望む攘夷は外国船打ち払い(無二念打ち払い)だった。攘夷期限当日(5月10日)、長州藩(久坂の率いる光明寺党)は、たまたま関門海峡を通過した米国商船に砲撃をしかけ、さらに23日に仏国軍艦、26日に蘭国船を砲撃した。不意をつかれた外国船は敗走した。

勝利に沸く長州藩は、29日、世子定広臨席の下、戦術会議を開いた。会議で、砲術教授中島名左衛門は技術の未熟さと軍律の不完全さを指摘し、軍規の確立と実弾による射撃訓練の必要性を主張して、光明寺党らの激しい反駁を受けた。中島が黙り込んだので場は収まったが、その夜、中島は何者かに暗殺されてしまった(こちら)(光明寺党の仕業だといわれている)。

長州藩は、その2日後の6月1日には米国軍艦、5日には仏国軍艦の報復を受け、惨敗した。下関防御に高杉が起用され、その発案により、様々な階級出身の有志による戦闘部隊・奇兵隊が創設された。初代総督には高杉が就任した。(その後、長州藩においては有志による諸隊が続々と結成された)

■長州ファイブの密航
長州藩は、破約攘夷を主唱して過激な行動をとる一方で、裏では、将来的な開国・貿易に備えて、藩士3名(井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三)に洋行を命じていた。後から合流した伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)を含めた5名は、5月12日、国禁を犯して密かに英国商船で横浜を出航し、上海経由で英国に向かった(11月着)。

■小倉藩侵攻
6月18日、長州藩は外国船砲撃に対岸の小倉藩が応援しなかったのを罪として、関門警備を理由に同藩に侵攻し、田の浦を占領して砲台を築いた(こちら)

■幕府の長州訊問使中根一之丞暗殺(朝陽丸事件)
幕府は、7月9日、長州に外国船打ち払いを改めて厳命すると(こちら)、15日、外国船攻撃及び小倉藩侵攻を詰問するため、訊問使中根一之丞を長州に派遣した。長州藩(奇兵隊)は、一行の乗ってきた朝陽丸を借用と称して武装占拠した。さらに、19日には、役目を果たして朝陽丸の回航を待つ一行を刺客が襲って副使鈴木八五郎と従者を殺害し、鈴木を梟首した。危険を感じた中根は、20日夜、長州藩の調達した船に乗って東帰の途についたが、21日、刺客は海上を追跡し、船に乗り込んで中根を殺害した(こちら)

【関連:開国開城「賀茂・石清水行幸と長州藩の攘夷戦争」)

■大和行幸(攘夷親征)の詔
朝廷は(尊攘急進派の主張により)下関における攘夷実行を賞賛し、京都における長州の声望は高まった。急進派の間では攘夷親征(→討幕)論が一層盛んとなり、7月、藩主敬親は家老益田右衛門介・根来上総を上京させ、攘夷親征を建議させた(こちら)。その結果、8月13日、攘夷親征を念頭においた大和行幸の詔が下され(こちら)、同時に長州藩主父子どちらかの上京が命じられた。

ところが、実は、大和行幸の詔は、孝明天皇の関知しない偽勅だった。天皇は、攘夷には熱心だったが、公武一和を支持しており、三条実美ら急進的な公卿が主張する無謀な攘夷(外国船打ち払い)や親征には反対だった。

■禁門の政変(8.18の政変)
孝明天皇は、かねてから、自分の意が貫徹しない朝廷の状況に不満を感じており、5月末には久光に上京して「姦人を掃除」せよとの密勅を下し、7月12日には終に久光に公の召命を下した(こちら)が、朝議で撤回させられて激怒していた(こちら)。その後、親征反対・久光召命派の公卿を威嚇するための天誅・脅迫が頻発する中、天覧馬揃えで軍事力をアピールした会津藩に対し、天皇は深く頼もしく思うと密かに伝えていた(こちら)。

在京公武合体派の会津(守護職)・薩摩・中川宮は大和行幸の詔が下りると、即座に提携し、8月18日、孝明天皇の了解の下、電撃的に政変を起こした(こちら)。その結果、長州・急進派勢力は一掃され、公武合体派が朝廷を掌握した。急進派公卿の言動は「叡慮を矯むること容易ならざる次第」であったと批判され、都落ちした三条実美ら七卿の官位は停止され、残留者の更迭や処罰が行われた(こちら)。長州藩に対しては、藩主父子取調べ、九門内の藩士往来禁止、藩主父子の上京禁止、留守居・添役以外の藩士帰国が命じられた(こちら)。代わって、後見職一橋慶喜や島津久光、松平春嶽・伊達宗城・山内容堂ら公武合体派の有力諸候が朝命を受けて続々と上京した。彼らは参豫に任じられて、翌元治1年1〜3月にかけて朝議に参加して国事を協議した(朝廷参豫会議)。

【関連:開国開城「大和行幸計画と禁門(8.18)の政変「参豫会議の誕生・将軍再上洛と公武合体体制の成立

■長州藩の雪冤運動
政変後、長州藩は失地回復を求めて雪冤運動を開始した。8月23日(中根殺害2日後)、政変の報を請けると、取り急ぎ、無罪を訴える嘆願書を家老根来上総に授けて京都に派遣した(入京・嘆願を許されず、10月23日帰国)。今後の方針については、恭順論を主張する保守・穏健派と進発・東上論(武力をもって訴える)を唱える急進・主戦派とが対立したが、9月に入って内訌が起り(下記)、藩論は急進・主戦派に統一された。

9月17日、長州藩は世子定広の武装上京を決定し、10月1日、藩内に「朝政回復」のために「君側の姦」を除くことを藩士に達した(こちら)。一方、中央工作も怠らず、世子上京に先立って藩主父子の「赤誠」を朝廷に達するために、家老井原主計に新たな嘆願書(「奉勅始末」)を授けて西上させた。井原は伏見に入り、入京を嘆願したが、朝廷はこれを許さず、代わりに12月、使者を伏見に派遣して井原の口上を聴取させた(こちら)。翌元治1年1月21日、終に井原は入京を断念して下坂した。

■文久の内訌(周布派の勝利)
保守派(坪井・椋梨派)重臣の椋梨藤太・三宅忠蔵・中川宇右衛門らは、恭順論をとり、藩が苦境に陥ったのは藩庁の政治のせいだとして、周布ら3名(主戦派)の罷免を訴えた。 その結果、9月1日、周布ら3名は罷免されたが、これに激怒した奇兵隊総督高杉らが武力行使を示唆して猛反発したため、形勢は一転した。 9日、周布らは返り咲き、10日、高杉も政務役に任命された。逆に、椋梨・中川・三宅らには、27日、隠居や遠島重鎮が命じられた。さらに、藩政に反対することが多いとして羽島に流罪されていた保守派の重鎮坪井にも死罪が言い渡され、11月9日に処刑された(妻子が羽島訪問したことを「結党強訴」の罪に問われた)。

■薩摩船襲撃事件(長崎丸砲撃事件、加徳丸焼き打ち事件)、薩摩藩との関係さらに悪化
意気盛んな奇兵隊は、12月24日、下関を航行中の薩摩船長崎丸(幕府から借用中)を砲撃・沈没させた。驚いた藩庁は、薩摩藩に使者を派遣して謝罪し、外国船と誤ったとして、収拾をはかり、なんとか全面対決を回避した(こちら)。ところが、翌元治1年2月12日、今度は義勇隊が、上関において、薩摩藩御用船(加徳丸)を焼き打ちし、船主大谷仲之進を殺害した。殺害犯とされる軽輩の義勇隊士2名は脱藩の上、26日、大坂で大谷を梟首し、薩摩の密貿易への義憤によりやったという斬奸状を残して自決した。藩に類が及ばぬよう罪を被れと久坂ら尊攘急進派有力者に強要されて死んだともいう(こちら)。両事件は、薩摩藩士を激昂させ、同藩の長州藩に対する不信と憎悪を増幅させた。

元治1
(1864)


詳細年表
■長州処分:末家・家老ら3名の大坂召喚
元治元年1月、将軍家茂が再上京し、公武合体派の孝明天皇の信任を受けた。天皇は二度の宸翰において、無謀・軽率な攘夷を批判して、長州・三条実美ら七卿の必罰を命じた(こちら)。2月8日、朝廷・幕府は、(1)長州支藩及び家老3人の大坂召喚及び勅使による訊問、(2)三条実美らの京都還送、(3)違背すれば征討と決定し(こちら)、25日、長州藩に支族・家老ら3名の大坂召命を通達した(こちら)。訊問内容は(1)文久3年8月の政変で七卿を「誘引」した件、(2)朝陽丸抑留と中根一之丞ら長州訊問使殺害の件、及び(3)長崎丸事件、である。親長州諸藩が京都召命を主張したため、朝議は一時動揺したが、幕府の意見を容れて大坂召命を再決定し、3月5日、改めて長州藩に通達した(こちら)。【関連:開国開城「参豫の幕政参加・横浜鎖港・長州処分問題と参豫会議の崩壊」】

通達に対して、長州藩は、朝・幕に末家ら3名の入京を、また朝廷に対しては新たに三条実美ら五卿の復職・藩主父子いずれかの上京を嘆願したが、朝廷はその要請を聞き入れなかった。その上、5月10日、大坂への勅使派遣も停止し、25日には末家ら3名の上坂停止・幕命を待てと命じたので、長州藩が直接的・間接的に朝廷に雪冤を訴える機会は失われた。

■世子・三家老の進発決定
長州藩は、内には武備を整え、布告された宸翰の文面に激昂する主戦派をなだめてその暴発を抑えつつ、進発の機会をうかがっていた。3月、末家らの大坂召命が下ると、これを期に藩主父子どちらかが率兵・大挙上京をすることに決したが、在京勢から、時機を待つよう要請があり、決行は延期された。

京都では、朝廷参豫会議が内部分裂を起こして崩壊し、4月上旬以降、島津久光・松平春嶽等公武合体派の有力諸候は相次いで帰国し、5月上旬には将軍も東帰のため、江戸に向かった。京都の尊攘急進派は息を吹き返した。テロ・落書が横行し、5月には、国事御用掛に長州シンパの有栖川宮等が任命され、27日には因幡藩主催で親長州諸藩の有志が集まり、長州復権を議論した。また、これより先、長州(桂)と盟約を結んだ藤田小四郎ら水戸尊攘「激派」の急進派(水戸天狗党)が筑波で挙兵して、関東は騒然となり、水戸藩等は朝幕に対して、頻りに攘夷断行(横浜鎖港)を入説した。

久坂寺島・木島又兵衛等主戦派は、好機到来と、かねてからの計画である世子進発を促した。慎重論を唱える者もいたが、藩庁は進発論を採用し、5月27日、藩庁は家老国司信濃に上京を、30日、同福原越後に江戸行きを命じ、6月4日、世子の上京を藩内に布告した。そこへ、池田屋事件(こちら)の第一報が届いた。

■禁門の変(蛤門の変)
池田屋事件の報は、既に進発論で固まっていた長州藩を刺激した。長州藩は、世子以下三家老(国司・福原・益田右衛門介)の率兵・大挙上京を決し、6月15日以降、順次、進発した。長州諸隊は6月下旬以降、京都近郊に屯集し、朝廷に免罪嘆願・会津藩討伐を嘆願した。しかし、文久の政変及び会津藩を支持する孝明天皇は長州の主張を認めず、禁裏守衛総督である慶喜に長州征討を命じた。7月19日、長州兵は三条実美らとともに率兵東上してくる世子の到着を待たずに京に進軍し、御所に突入したが、蛤門警備の会津藩ら諸藩連合軍に撃退され、勝敗は1日で決した。木島は戦死し、久坂・寺島は自刃した。

東上の途にあった世子・三条ら五卿は、途中で禁門の変の報に接した。評議の結果、国司ら三家老の暴発だとすることに決し、吉川経幹に周旋を任せて帰国した。

■四国艦隊下関砲撃事件の敗北・講和
7月末、禁門の変で敗走した長州藩に、追い討ちをかけるような事態が起った。英・米・仏・蘭が四国連合艦隊を組織して横浜を出港し、前年の報復のため下関に向かったのである。艦隊は、8月5日に攻撃を開始し、長州は敗退した。藩庁は講和交渉に、高杉を起用し、14日に、四国代表と、下関通航の自由、償金支払い等を内容とする協定を結んだ。

■第一次征長(幕長戦争):保守・穏健派主導の恭順・謝罪

■高杉晋作の功山寺挙兵
慶応1
(1865)
■武備恭順への転換

■「大割拠」

■長州再征問題
■薩長同盟(密約6か条)の成立
(2004.1.23、1.25、2011.1.20)

主要参考文献:(リンク先も参照して下さい)
『修訂防長回天史』・『山口県の歴史』・『長州藩と明治維新』・『幕末の長州』・『木戸孝允』
『幕末長州藩の攘夷戦争』・『高杉晋作』・『徳川慶喜公伝』・『明治維新人物辞典』・『松下村塾』
『日本歴史大系11幕藩体制の展開と動揺下』・『日本歴史大系12開国と幕末政治』
『幕末長州の舞台裏 椋梨藤太の覚書』・『長州戦争』

長州藩に詳しい方々の突っ込み、お待ちしておりますm(..)m。

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