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文久1 (1861) 略年譜 |
■長井雅楽の航海遠略策と国政進出 文久元年(1861)3月、長州藩は直目付長井雅楽の「航海遠略策」(公武合体に基づく開国論)を藩論とし、これを掲げて中央政界にのりだした。雅楽は京都、江戸で公武・諸侯のあいだを周旋し、朝廷からも幕府からも賛同をえることができた。これを受けて、同年12月、出府した藩主敬親は老中に正式に建白書を出し、「今後、長州に公武周旋を託す」との将軍内旨をえた。 ■周布の失脚 雅楽の策は、尊攘急進派には「因循」と不評で、長州藩内にも、吉田松蔭門下生久坂玄瑞らを始めとして雅楽の失脚を狙う勢力が存在していた。周布政之助も当初は雅楽の策に賛同していたが、7月に上府すると、久坂らの入説を受けて反対に転じた。 周布は航海遠略策を阻止するため、参府途上の藩主敬親を諫止しようと、9月7日、久坂とともに江戸を発って西上した(和宮降嫁阻止の建白も目的だった)。しかし、勝手に任地を離れたことを罪とされて帰国を命じられ、翌文久2年1月、20日間の逼塞を命じられ、久坂も帰国を命じられた。【関連:「開国開城-航海遠略策(公武合体的開国論)」 |
文久2 (1862) 詳細年表 |
■坂下門外の変 桂小五郎と親しい周布の失脚により、長州側は水長盟約(万延1)の実行が困難になったた。桂は水戸側に計画延期を申し入れたが、この機会を逃して再挙は困難だと判断した水戸側は、文久2年1月15日、江戸城坂下門外で安藤老中を襲撃した。しかし、暗殺には失敗し、襲撃者は全員その場で斬殺された。約束の時間に遅れた水戸の川辺佐治右衛門は、長州藩邸に駆け込み、桂と伊藤博文(俊輔)に後事を託して自刃した。このことで桂・伊藤両名は幕府の嫌疑を受けて糾問されたが、航海遠略説を周旋中で老中の信頼が厚い雅楽の尽力で、無事放免された。【関連:「開国開城-坂下門外の変」】 ■藩論一転・破約攘夷へ 雅楽は3月に再度入京すると、朝廷に正式に航海遠略策の建白を行った。しかし、京都では尊攘急進派の勢力が伸張しており、情勢不利をみてとった藩主敬親の命で、江戸に戻った。5月、朝廷は、雅楽の建白書に朝廷を誹謗した文言(謗詞)があると問題にした。雅楽を排斥して藩論を一転させようという久坂・桂ら松下村塾門下の急進派らの工作結果だった。6月、在府の藩主敬親は雅楽に帰国謹慎を命じると、朝廷の疑念を晴らすために上京した(帰国した雅楽は、翌文久3年2月、藩命によって切腹に処せられた)。7月、敬親臨席で行われた在京要職の藩議の結果、長州藩は航海遠略策を破棄することに決し、藩論は破約攘夷へと大きく転換した。以後、長州藩は、藩を挙げて破約攘夷推進の朝廷工作にかかった。【関連:「開国開城-長州藩論一転・破約攘夷へ」、 ■薩摩藩との関係悪化 藩主敬親の江戸出立は幕政改革の勅使大原重徳を護衛して東下してくる薩摩藩国父島津久光を避けるように行われたため、 薩摩が憤激し、薩長の関係が悪化する原因となった。【余話「薩長の「鴻門の会」】 ■世子の大赦奉勅東下と薩摩藩との更なる関係悪化 長州藩が、破約攘夷を藩論として頻りに朝廷に入説した結果、長州藩主父子に対して、一人は滞京、もう一人は東下して国事を周旋せよとの朝命が下った。8月、世子定広が安政の大獄関係者の大赦の勅を奉じて東下した。しかし、大赦の対象に寺田屋事件関係者が含まれていたことから、薩摩藩が激怒した。そこで、薩長融和のために、幕政改革の勅を奉じて東下中の勅使大原重徳が独断で勅諚を改竄し、改竄の勅諚を定広に授けた。定広は二条城に上って改竄の勅諚を将軍に伝達し、将軍はこれを拝受した(こちら)。しかし、一件により、薩摩の長州への不信感は一層高まった。 ■幕府への攘夷督促 閏8月、長州藩は朝廷に建白して破約攘夷の確定を迫り、破約攘夷周旋の内沙汰を得た。さらに、久坂・桂らは薩・土とともに朝廷に働きかけて、攘夷督促の勅使(三条実美・姉公示公知)を東下させ、将軍に攘夷奉承(上洛の上、衆議を尽す)を回答させた。 【関連:第2の勅使三条実美東下と攘夷奉勅&親兵問題 余話:長州と土佐の酔っ払い王対決!(周布vs容堂)】 ■高杉晋作の上海視察と英国公使館焼き打ち事件 この頃、江戸では上海視察帰りの高杉晋作が外国人襲撃を計画していた。勅使に随行して東下した久坂は反対して、高杉と激論になったが、結局、襲撃に参加することになった(蒲田梅屋敷事件)。しかし、計画を知った世子定広(大赦の勅を奉じて江戸滞在中)や三条実美の説得により、襲撃は中止された。このときの長州同志11名は御楯組を結成し、勅使・世子の江戸退去後の12月12日、御殿場の英国仮公使館を焼き打ちした(こちら)。 |
文久3 (1863 詳細年表 |
■山口への藩庁(政事堂)移転 |
元治1 (1864) 詳細年表 |
■長州処分:末家・家老ら3名の大坂召喚 元治元年1月、将軍家茂が再上京し、公武合体派の孝明天皇の信任を受けた。天皇は二度の宸翰において、無謀・軽率な攘夷を批判して、長州・三条実美ら七卿の必罰を命じた(こちら)。2月8日、朝廷・幕府は、(1)長州支藩及び家老3人の大坂召喚及び勅使による訊問、(2)三条実美らの京都還送、(3)違背すれば征討と決定し(こちら)、25日、長州藩に支族・家老ら3名の大坂召命を通達した(こちら)。訊問内容は(1)文久3年8月の政変で七卿を「誘引」した件、(2)朝陽丸抑留と中根一之丞ら長州訊問使殺害の件、及び(3)長崎丸事件、である。親長州諸藩が京都召命を主張したため、朝議は一時動揺したが、幕府の意見を容れて大坂召命を再決定し、3月5日、改めて長州藩に通達した(こちら)。【関連:開国開城「参豫の幕政参加・横浜鎖港・長州処分問題と参豫会議の崩壊」】 通達に対して、長州藩は、朝・幕に末家ら3名の入京を、また朝廷に対しては新たに三条実美ら五卿の復職・藩主父子いずれかの上京を嘆願したが、朝廷はその要請を聞き入れなかった。その上、5月10日、大坂への勅使派遣も停止し、25日には末家ら3名の上坂停止・幕命を待てと命じたので、長州藩が直接的・間接的に朝廷に雪冤を訴える機会は失われた。 ■世子・三家老の進発決定 長州藩は、内には武備を整え、布告された宸翰の文面に激昂する主戦派をなだめてその暴発を抑えつつ、進発の機会をうかがっていた。3月、末家らの大坂召命が下ると、これを期に藩主父子どちらかが率兵・大挙上京をすることに決したが、在京勢から、時機を待つよう要請があり、決行は延期された。 京都では、朝廷参豫会議が内部分裂を起こして崩壊し、4月上旬以降、島津久光・松平春嶽等公武合体派の有力諸候は相次いで帰国し、5月上旬には将軍も東帰のため、江戸に向かった。京都の尊攘急進派は息を吹き返した。テロ・落書が横行し、5月には、国事御用掛に長州シンパの有栖川宮等が任命され、27日には因幡藩主催で親長州諸藩の有志が集まり、長州復権を議論した。また、これより先、長州(桂)と盟約を結んだ藤田小四郎ら水戸尊攘「激派」の急進派(水戸天狗党)が筑波で挙兵して、関東は騒然となり、水戸藩等は朝幕に対して、頻りに攘夷断行(横浜鎖港)を入説した。 久坂・寺島・木島又兵衛等主戦派は、好機到来と、かねてからの計画である世子進発を促した。慎重論を唱える者もいたが、藩庁は進発論を採用し、5月27日、藩庁は家老国司信濃に上京を、30日、同福原越後に江戸行きを命じ、6月4日、世子の上京を藩内に布告した。そこへ、池田屋事件(こちら)の第一報が届いた。 ■禁門の変(蛤門の変) 池田屋事件の報は、既に進発論で固まっていた長州藩を刺激した。長州藩は、世子以下三家老(国司・福原・益田右衛門介)の率兵・大挙上京を決し、6月15日以降、順次、進発した。長州諸隊は6月下旬以降、京都近郊に屯集し、朝廷に免罪嘆願・会津藩討伐を嘆願した。しかし、文久の政変及び会津藩を支持する孝明天皇は長州の主張を認めず、禁裏守衛総督である慶喜に長州征討を命じた。7月19日、長州兵は三条実美らとともに率兵東上してくる世子の到着を待たずに京に進軍し、御所に突入したが、蛤門警備の会津藩ら諸藩連合軍に撃退され、勝敗は1日で決した。木島は戦死し、久坂・寺島は自刃した。 東上の途にあった世子・三条ら五卿は、途中で禁門の変の報に接した。評議の結果、国司ら三家老の暴発だとすることに決し、吉川経幹に周旋を任せて帰国した。 ■四国艦隊下関砲撃事件の敗北・講和 7月末、禁門の変で敗走した長州藩に、追い討ちをかけるような事態が起った。英・米・仏・蘭が四国連合艦隊を組織して横浜を出港し、前年の報復のため下関に向かったのである。艦隊は、8月5日に攻撃を開始し、長州は敗退した。藩庁は講和交渉に、高杉を起用し、14日に、四国代表と、下関通航の自由、償金支払い等を内容とする協定を結んだ。 ■第一次征長(幕長戦争):保守・穏健派主導の恭順・謝罪 ■高杉晋作の功山寺挙兵 |
慶応1 (1865) |
■武備恭順への転換 ■「大割拠」 ■長州再征問題 |
■薩長同盟(密約6か条)の成立 |
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