7月の「今日」  幕末日誌文久3 テーマ別文久3  HP内検索  HPトップ

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文久3年5月29日(1863年7月14日)
【京】朝議、攘夷決行のための将軍東帰を内定/天皇、近衛前関白に将軍滞京周旋の内旨
【京】越前藩用人中根雪江、中川宮に将軍東帰及び王政復古の朝議の模様を聞く
【長】砲術教授中島名左衛門が暗殺される
【江】幕府、会津藩に二万両貸付決定。

■将軍東帰問題
【京】文久3年5月29日、 慶喜の将軍後見職辞表を受け取った朝廷では、将軍家茂を東帰させて攘夷を決行させることを内定しました

●孝明天皇の将軍滞京の内旨
同日、孝明天皇は、近衛前関白に対し、中川宮らと協調して将軍滞京・公武一和による攘夷を模索するようひそかに宸翰を渡しました。その中で、この日の将軍東帰内定に対して無力な自分を歎き、今後の久光上京「奮発」とともに、慶勝の将軍滞京周旋への期待も示しました。

これより先、守護職松平容保は、将軍補翼の前尾張藩主・徳川慶勝(容保の異母兄)と諮って、前関白近衛忠煕に将軍滞京の必要性を説いたところ、前関白も同意して、そのことを孝明天皇に奏しました。実は、孝明天皇は、公武一和による攘夷を願っており、将軍東帰には反対でした。慶勝の意見にはもちろん同意でしたが、その意思は、三条実美ら急進派公卿に妨げられ、通らない状況でした。

*近衛前関白への宸翰の概容は次の通り(タイトル、意訳、箇条書き、段落わけby管理人)
【将軍滞京について】ただ今、関白(鷹司輔煕)と面会したが、その様子を考えてみるに、関白の口振りでは、尾州(=徳川慶勝)の意見(=将軍滞京)に反対というわけではなく、実は朕も滞在の方が宜しいと存じるが、三条・徳大寺両中納言その外参政が「不承知」で、(たとえ関白が)申し出ても中々採用に成らぬと申している。関白の心は宜しいようだが、「むらむら致」す心故、一定せぬ。
【慶勝との直接対話について】(関白は)尾前大が(自分に将軍滞京を)直接申し入れて、叡慮も伺いたいと申していると申したが、これこそ、まさに「余の所望」である。このところ、「勅諚と申て、其實、余心、頓と不貫徹」、途中で妨げられ、「兼てむらゝゝ存」じていたので、尾前大との直接対面は、誠に好むところである。さりながら、形式ばった場で(急進派含め)各々が列座していては、とても十分に(心底をいうことが)できぬので、非常の沙汰にて(慶勝と)差向い、(列座するのが)関白・中川(宮)・其公(=近衛)等ならば、十分に余の心底を申したいと申した。関白ももっともに思う様子ながら、(急進派の)議奏・参政などが不承知を申し立てるのではないかと申した。さもありなん事である。
【急進派公卿対策について】どうか、深く勘考し、先ず、「内の掃除」として、議奏徳大寺三条参政に対する引締めを、篤と熟談できまいか。また、長土の両藩が「尻押」致さぬように、尾州の同志の者と、各強情の堂上を引付ける手段はとれぬものか。
【久光の上京について】三郎(=島津久光)上京及び(久光の)官位推任叙の義も、予も存じてはいるが、何分立たざる時節なので、迚も難しいと心配している。
【将軍滞京工作について】どうか、其公・中川等同志の輩を頼んで、(将軍滞京を)申し立てるわけにはなるまいか。何分、当初から予の存意は、滞京であり、帰府は実に好まぬのだが、(自分の意見がが急進派に妨げられて通らないので)致し様がない。どうか、尾州には、いつまでも(滞京を)申し張るよう、内々に申し達し、極意は「公武眞實一和」、将軍は当地滞在、または浪華城でもよいが、何分帰府は好まぬ(と伝えるように)。「何分当時権威は下に在り、予申出候義、不聞候間」、大変「苦心」している。尾州との直談は至極好むところと申す義を、内々に、其公より申し入れるだけでも、頼みたい。此の段、内々に申し入れて置く。
勘考の上、承るように。また、承るのであれば、内々に申し入れるように。
【久光上京「奮発」と慶勝の将軍滞京周旋への期待】(略)大樹はいよいよ東下で、今日内意にて、およそ来月二日に暇参内とほぼ治定したとの事。とてもとても、この上は「予力無らん無らん」と申すほか致し方なく、悲歎している。(略)。何分薩人も禁制になり(=姉小路暗殺事件で薩摩藩の御所内往来が禁じられたこと)、甚だ難しい状況になった。こうなれば三郎に「一奮発を期」し、尾前大(=徳川慶勝)にもさらに(将軍滞京周旋を)頼むしかない。何分にも大樹(=将軍)を今少し留め置き、「一和にて攘夷」を祈るところである

前関白から宸翰を示された慶勝は容保と共に、老中はじめ幕府の役人に将軍滞京を説きましたが、成功しませんでした。

<ヒロ>
こうやって、内旨を近衛前関白らには示すことが限界で、正面切って三条らの意見をつぶすことはできない天皇でした・・・。そして、翌30日、ついに久光に上京・姦人掃除の密直を下します。

関連:■開国開城:「幕府の生麦償金交付と老中格小笠原長行の率兵上京」 「将軍東帰と京都守護職会津藩の孤立■テーマ別:「第2次将軍東帰問題と小笠原長行の率兵上京
参考:『徳川慶喜公伝』・『七年史』一p47-49(2000.7.14)

京】文久3年5月29日、越前藩用人中根雪江は中川宮に伺候し、将軍東下の暇及び王政復古に関する朝議の模様を聞きました


●将軍東下の暇について
中川宮は、<幕府は暇を賜るようにと懇請して止まず、叡慮はもとより滞留なのだが、「御内旨迄之御事故思召の如く貫徹せず」、尾州(徳川慶勝)も心配しているが、幕府が(滞留を)承諾しないとのことなので、多分暇をおおせ出されるだろう。しかし、最近は耳に入らない事も多いので、原市之進か田宮弥太郎かに確認すればよいだろう>と答えたそうです。

●王政復古について
中川宮は<公家の中にはそのような事を言うものもあるが、もとより定見があるのではなく、三百か五百の同志がいても復古の大業をなしうるとは思えない>と答えたそうです。

***
中根はその後、田宮を訪ねて東帰の暇について質問したところ、田宮は<老中始め諸有司は帰心矢の如しであり、滞京の議論があっても耳に留めようともしない>と説明したそうです。 この日、中根は京都を発ち、翌30日に福井に到着して京都の事情を春嶽に説明しました。

参考:『続再夢紀事』二(2004.7.15)
関連:■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年」
■御所警備
【京】文久3年5月29日、薩摩藩は、御所乾門(外講)警備を解かれ、出雲松江藩が警備を命じられました。また、薩摩藩関係者の九門内往来は禁じられました。御所の模式図

<おさらい>
薩摩藩田中新兵衛は、5月20日に御所朔平門外で姉小路が暗殺された現場に遺された刀(こちら)の持ち主だったとして、捕縛され、町奉行所に引き渡されていました(こちら)が、26日(25日?)に自刃しました(こちら)。真相は闇の中になったのですが 尊攘急進派には姉小路の暗殺は薩摩藩の責任だとするものが多く、この日の措置となりました。

表1:御所外講九門警備担当藩(変更は桃色)
門の名称 位置 5月21日時点 5月29日時点
今出川門 北側 備前 備前
乾門 西 薩摩 ⇒出雲(29日)
中立売門 西 因幡 因幡
蛤門 西 水戸 ⇒会津(27日以前)
下立売門 西 仙台 仙台
堺町門 長州 長州
寺町門 肥後 肥後
清和院門 土佐 土佐
石薬師門 阿波 阿波
(黄色は九門中、重要な西側四門)

参考:『維新史料綱要』四(2010/10/13)
■テーマ別文久3年:「朔平門外の変(姉小路公知暗殺)」「親兵設置と御所九門・六門警備

■長州藩の攘夷戦争
【長】文久3年5月29日夜半、長州藩砲術教授中島名左衛門が暗殺されました。享年47歳。(30日説もあり)

中島は文化14年に肥前に生まれ、16歳で西洋砲術を学ぶために長崎に赴き、高島秋帆に学びました。安政2年から長崎で砲術を教授し、文久3年、長州藩主に請われて長州で砲術を教えていました。下関付近の測量・砲台建設にあたったのは彼でした。「其人と為り質直寡言なれど、兵事を論ずるに当りては、大声抗議、毫も人に屈する事なし」(『殉難録稿』)という人物だったそうです。

この日、長州藩世子毛利定広臨席の下、中島を始め、光明寺党有志らが集まって戦術会議を開きました。席上、中島は技術の未熟さと軍律の不完全さを指摘し、軍規の確立と実弾による射撃訓練の必要性を主張して、光明寺党らの激しい反駁を受けました。中島が黙ってしまったので結論は出ずに終わりましたが、その夜、中島は何者かに殺害されました。光明党のしわざといわれているそうです(『殉難録稿』では、藩主の厚遇を妬んだ者の仕業だったとしています)が、2日後の6月1日にはアメリカの報復攻撃もあり(こちら)、犯人の追及は行われなかったそうです。

古川薫氏は、『幕末長州の攘夷戦争』で「彼我の戦力の違いをしきりに論じようとした中島名左衛門の本心は、攘夷の無謀をいいたかったのではあるまいか。それにしても、以後続行された攘夷戦にとって、名左衛門は必要な人物だったはずである。激徒の軽率な行為といえるが、攘夷をめざしてひたすら直進する者たちにとって、それを立ち止まらせ、後ろをふりむかせようとする彼の存在は、何にかえても許せなかったのであろう」と推測しています。

参考:『修訂防長回天史』p448、『修補殉難録稿』、『幕末長州の攘夷戦争』、『明治維新人名辞典』(2001.7.14, 2004.7.14)
関連:■開国開城:「賀茂・石清水行幸と長州藩の攘夷戦争」■テーマ別:「長州藩の攘夷戦争

■守護職の財政
【江】文久3年5月30日、幕府は、会津藩に二万両貸付を決定しました。

参考:『七年史』ニ

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