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元治元年7月4日(1864年8月5日)
【伏見】幕府、長州に撤兵の朝命伝達(2度目の長州撤兵勧告)
【京】西郷隆盛、国許の大久保利通に、長州勢伏見到着以降の情勢・公武の事情を詳しく報じる

☆京都のお天気:晴天 (『幕末維新京都町人日記』)
■長州入京問題
在京幕府(慶喜)の動き(二度目の撤兵勧告)
【伏見】元治元年7月4日、 禁裏守衛総督一橋慶喜の命を受けた大目付永井久尚志・目付戸川鉾三郎は、長州藩家老福原越後に対し、朝命に従い、撤兵・手順を踏んだ出願をするよう勧告しました。(守護職会津藩、所司代桑名藩、淀藩(老中稲葉正邦が藩主)の公用人数人も随伴)

慶喜は、去る6月29日、伏見に使者を派遣して、長州藩に朝旨を伝えて撤兵を説得させましたが、これらを矯勅(幕府が天皇の真意を矯げて出させた命令)とする長州藩に対して効果はありませんでした(一度目の撤兵説得)(こちら)。そこで、前7月3日、今度は、勅諚を得た上で、大目付永井尚志らを伏見に派遣し、再度福原を奉行所に呼び出していました。ところが、福原は、病気と称して出頭を延期し、その間、部下を山崎に派遣して、真木和泉や久坂義助(玄瑞)とその応対について相談していたそうです。

>長州勢の動き
【伏見】元治1年7月4日、幕府大小監察の伝達した撤兵の朝命に対して、長州藩家老福原越後は、山崎・嵯峨屯集の藩士に伝えた上でなくては回答しがたいが、朝旨に従って説諭するであろうと返答しました。

<ヒロ>
のらりくらり戦法ですね。ひとまず撤兵し、手順を踏んで出願せよという慶喜と、あくまで藩主父子入京の上で出願という長州藩(公式論)との溝は埋まらないようです。

なお、会津藩では、この出願について、「・・・詐称にして、其実、越後等謀主となり、肥後守(注:容保)を討ち、去年8月18日の往時に返さんとの結構なる事知られければ、警備怠る所なかりけり」(『七年史』)だったそうです。

<参考>『七年史』二・『徳川慶喜公伝』3・『維新史』四p66 (2000.8.5)、『防長回天史』六一八(2018/2/9)

>在京薩摩藩の動き
【京】元治元年7月4日、 薩摩藩西郷隆盛は、書を在藩大久保利通に送り、6月24日の長州家老福原越後伏見到着以降の京都の情勢・公武の事情を改めて詳しく報じました。

>西郷書簡のてきとう要約
〇去る24日、長州藩家老福原越後が多人数を率いて伏見に到着した件についてはそろそろ届いているだろうか。次第に難しい情勢になってきたので、最初からの事情を詳細に知らせる。よく考えてよろしく取り計らってほしい。

〇(長州藩家老)越後が(朝幕に)嘆願書を差し出したことは、蒸気船便で伝えた通りである。

〇27日晩方、長州勢が伏見において会津の守備兵を驚かせ、押して上京する様子を見せたため、「京地大騒動」し、九門は閉鎖になり、各藩(御所の)守衛兵を増し、甲冑・切火縄・抜き身で出張る形勢であった。「直様戦争」かと、物見を三隊出したところ、なんということもなかった(=戦争ではなかった?)が、御所周辺は一方ならぬ騒動であった。堂上方はもちろん、一橋(=禁裏守衛総督一橋慶喜)、所司代(=桑名藩主松平定敬)、守護職(=会津藩主松平容保)も大病ながら押して参殿した。

〇(朝議における)正親町三条(実愛=親長州派・議奏)の主張は、<長門宰相(長州藩主毛利敬親)父子を召すべきである。(二人に)不審の廉はないが、家臣共が三条(実美)等に迫った件もあって御勘気を蒙っているので、(天皇が)勅勘を赦免されれば「平穏」にすむだろう。七卿方については脱走の罪は重いので赦免できないと達すれば無事にすむだろう>というものだった。

〇朝議はそれで決していたが、夕方になって一橋(慶喜)が参内し、<長州の嘆願を採用する筋合いはない。武装して朝廷に迫る様子は「臣子の分を越え」て、「甚だ不遵」である。長州が嘆願したいことがあれば手順を踏み、捕縛されでもして至誠を開陳すれば、「善き筋」は御採用になる点もあるだろう。しかし、兵を率いて迫るのでは、決して御取り上げにはならず、早々に撤兵するようお達しになるのが至当である>と言上したそうだ。さらに、<もしこの件(=長州の嘆願)を御採用になれば、今晩、会津・一橋は御役(=守護職・禁裏守衛総督)を辞すので、長州を召し入れられ、ご勝手にどのようにでもされればよい>と演説をしたので、朝廷は愕然となり、どなたも一言も発しなかったそうだ。

〇その夜四ツ頃(午後10時頃)、内府様(=近衛忠房内大臣)から御所に早急に来るようお達しがあった。早速参ったところ、この両様(ー正親町三条実愛と一橋慶喜)の議論のどちらが至当か腹蔵ない意見を求められた。そこで、一橋の意見がもっともなので、その通り御沙汰を出し、もし(長州が)承知せずに「暴発」すれば、そのときは「長州の罪状を明白に」記した上で、各藩に追討の勅命が下れば、「名義正しく朝威も振い、速やかに攻め滅ぼ」しましょう、とお答えして帰ったところ、朝議が一橋の意見で決まり、和戦どちらでも一橋に委任することになったそうだ。

〇(親長州の)因州(=因幡藩)から、回文をもって、長州の嘆願採用に係る周旋の要請があったが「一円取り合わ」なかった。会津からもひとえに援兵の派遣要請があるが、「此の御方(=国父島津久光)」が朝命で任せられた御所守衛に必要な人数しか残しておらず、とても(援兵に)分配できないため、お請け合いできないと断っており、「朝廷遵奉」に専念するつもりである。御屋敷(=京都薩摩藩邸)内でも、「長州を救うがよりの会津を助けんにゃならん」など議論が紛々としていたが、「朝廷遵奉」の筋が立たねば決して動かぬことを主張し、「もふ」は「御屋敷中一体の議論」となったので安心している。

〇(7月1日に)一橋から小松家(=小松家老)の呼出しがあり、直接に出兵要請(※)があったが、「定論」を説明し、朝命をもって諸藩に長州追討令がでれば、一隊を出して守備を引き受けると述べたそうだ。この件は大夫(=小松帯刀)から直接知らせがあると思うので省略する。(※長州へは、大小監察を通じて朝命を伝達し、期限を切って伏見を引き払うよう命じるが、(撤兵のないまま)期限を過ぎれば、違勅の罪を正すことになる。(予め)諸方の守りを固めて置き、「急速」に攻撃せねば、「敵」に先手をとられるかもしれないので、守衛兵を出すようにというもの)

〇長州への朝命の件を今日か明日かと待ち、こうなれば朝命を奉じて征討するしかないと諦めていた。ところが、昨日の朝議の内容を今日内府様(=近衛忠房内大臣)へ伺ったところ、昨夕四ツ頃(午後10時頃)、一橋が参殿して、関東の「混雑の到来」(=江戸の幕閣内の政変)について申し述べた。水戸中納言(=水戸藩主徳川慶篤)が鷹司様(=前関白鷹司輔煕)に報じたところによれば、大和守様(=政事総裁職松平直克)が(朝廷から横浜鎖港を一任された)水戸殿に相談もなく(横浜鎖港に消極的な)老中・目付9名の解任を命じたのが「不束」であるので辞職を命じたとのことだ(◆6/22)既に安藤・久世の老中復職の動きがあるというので、朝廷では、水戸殿を譴責し、大和守の復職を命じる方向で、即時に「書付」も作成していたが、(慶喜は)よく考え、明日言上仕るとのことだった。それで、(この日には)長州への朝命は出せなかった。

(※『綱要』によれば、この朝議は2日のことで、慶篤譴責の沙汰は3日に出されています。また、長州入京不可の朝命は6月29日?に出されています。この後の追伸をみても、情報が錯そうしているのか、西郷も情報を整理しきれていない様子がみてとれます)

〇(朝廷が)横浜鎖港攘夷の件を(慶喜に)尋ねたところ、答えようがないと回答したそうだ。先日(の朝議で)一橋が論じたことと甚だ異なる。攘夷等の議論にこだわる訳でもなく、今回は、「両事」(=京都での長州処分と江戸での政変が同時に起こったこと)とを理由に(長州への朝命を)先延ばしにしており、「一橋の意底」は「計」れない。長州へ組するのか、また、勅命を以て尾張、越前、阿波、土佐、藤堂等の諸侯を召喚したそうなので、その到着を待っているのか、「関東の破れ」(=幕閣内政変)を聞き、自分も罷免される(かもしれない?)ので暫時見合わせているのか、よくわからない。いずれ「大乱に傾」くのではないかと察している。

(※略、略・・・)

〇(久光・茂久)の御上京は時期尚早で、時機をみたほうがいいと考えている。いずれ(長州は)「大破」になるだろうが、「今の処を以て御立て直し相成候処((=今の上京による薩摩藩の勢力回復?)」は難しく、いっそどちらにでも決まった後に上京された方がよいのではないかと愚考している。(久光・茂久の)お考え次第だが、よろしく執成してほしい。

(※以下、追伸)
〇動くも動かざるも「信義名分上」の「間違い」はせぬのでこれだけは安心してほしい。

〇別紙で、伏見に探索に出した者が入手した書面を送るが、これをみると長州に(朝命が)伝達されたに相違なく、一昨夜(=7月2日)に一橋が朝廷に言上した論(=西郷が忠房の話から推察した江戸の事情による朝命引き伸ばし)とは異なる。(探索者に)質しても、詳しいことはわからないが、朝命が出たことは間違いがない。長州が(朝命に)「不遵」を申し立てれば速やかに征討の命が下ることかと待っているところである。すぐに撤兵すれば戦にはならぬと考えるが、戦にならねばすまない情勢であるとみている。

(※さらに追伸)
〇一橋(慶喜)には色々「疑念起り勝」ちだが、長州に与する訳だとも思われない。しかしながらその心体(=心底)は測れない。

<ヒロ>
この間まで一橋慶喜を池田屋事件の黒幕だと言っていたのに、今度は長州内応説を報じたりして、よくよく慶喜のことが気になる様子です・・・(でも、どっちに転んでも慶喜はいいイメージはもってもらえないんですね)。そして、8.18の政変を起こした当事者としての「信義」はないのかとツッコミたい!

参考:7月4日付大久保一蔵宛西郷吉之助書簡『西郷隆盛全集』一p341-351、『玉里島津家史料』p439(2018/2/3)
関連:「テーマ別元治1」■池田屋事件、長州入京問題、禁門の変
※元治1年5月以降の大久保一蔵宛吉之助書簡の主な内容(詳細はリンク先参照)
・5/12:公家達は「例の驚怖」の病で「暴客」を恐れていること、近衛前関白父子に護衛を差し向けていること、長州・「暴客」が禁裏守衛総督・摂海防御指揮一橋慶喜の野心を疑っていること、「幕奸之隠策」により薩摩に悪評がたっていること、来月にも外国艦隊が長州を攻撃すれば長州・急進派の「暴威」も衰えるだろうこと等
・6/1:幕府・慶喜が外国の手を借りて長州を抑えようとしているという風説、それは憎むべきことであるという考え
・6/2:(8.18 政変の件で)藩士高崎佐太郎(正風)・高崎猪太郎(五六)が「暴客の徒」に憎まれているので暫く国許に引き留めるよう願い出
・6月6日:浪士間における薩摩の評判回復
・6/8:池田屋事件の黒幕が慶喜である説、幕府、(親)長州の双方から味方として期待されているが薩摩は中立の方針
・6/14:池田屋事件・明保野亭事件に係る風説、長州における討幕説、中川宮の辞職周旋、中村半次郎の浪士潜伏
・6/21:一橋家の「内乱」(平岡円四郎暗殺)による慶喜の「暴威」低下の見通し、会津藩と土佐藩の反目等の池田屋事件後の京都の情勢を報じ、薩摩藩の悪評を封じるための商人による外国交易取り締まりを依頼
・6/25:長州の伏見到着とこの「戦争」を「長会の私闘」ととらえ、静観・朝廷守衛に専念する方針をを報知
・6/27:長州の目的は私闘ではなく8.18政変以前に戻す意図、公卿の過半数は長州支持であり、征討もやむなし


■横浜鎖港問題をめぐる江戸の政変
【江】元治1年7月4日、会津藩江戸家老上田一学等、書を在京家老神保内蔵助等に送り、藩主松平容保(京都守護職)による松平直克の政事総裁職復職の建議を求める。
関連■テーマ別元治1横浜鎖港問題(2)

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