8月の「今日」 幕末日誌文久2 テーマ別日誌 事件:開国:開城 HP内検索  HPトップ

◆7/19へ   ◆7/21へ

文久2年7月20日(1862年8月15日)
【江】将軍家茂、大赦を裁可/勅使大原との会見(4)帰京の申し出
【京】毛利敬親、三事策に関する疑義を陳述/薩摩藩田中新兵衛、島田左近暗殺

■安政の大獄関係者の大赦
江】文久3年7月20日、将軍家茂は大赦を裁可しました

関連■テーマ別文久2「違勅条約&安政の大獄関係者の大赦と処罰

■勅使との会見(勅使11か条の要求)
この日、勅使大原重徳は登城して後見職の一橋慶喜・総裁職の松平春嶽と会見する予定でしたが、突然、予定を翻し、早々に帰京するつもりだと申し出ました。

参考:『再夢紀事・丁卯日記』(2002.9.20)
関連■テーマ別文久2「勅使11ヶ条の要求

■長州藩
【京】文久3年7月20日、滞京中の長州藩主毛利敬親は、議奏中山忠能に三事策(勅諚案)に関する疑義を陳述しました

長州藩は7月6日に藩論を破約攘夷に転換して(こちら)、13日には、朝廷に対して、長井雅楽の建白書却下を要請(こちら)、17日には疑念氷解・国事周旋の沙汰が下りたばかりでした(こちら)

5月11日、朝廷が議定した勅諚案(三事策)は、(1)将軍上洛による国是決定、(2)五大老設置と幕政参与、(3)一橋慶喜の後見職・松平春嶽の大老登用でした。第一条は長州藩、第二条は岩倉具視、第三条は薩摩藩の主張するところでした(こちら)。5月12日には島津久光に勅使への随従が命ぜられ、20日には慶喜・春嶽登用の沙汰書(第三条)が授けられました(こちら

6月10日、勅使大原重徳はこのうち第一条(将軍上洛)、第二条(五大老)を伝えず、第三条の一橋慶喜・松平春嶽の登用を伝えました(こちら)。これは5月20日の沙汰を受けたものだそうですが、敬親はこのことを問題にしました。敬親によれば、三事といっても実は二事である、第一条と第三条は同一目的であるのでこれを一事として周旋したいというのです。

<ヒロ>
どっちかというと薩摩藩に先を越されてしまった焦りというか、薩摩藩への対抗意識からの疑義だという気がするんですが^^;?(

参考:『徳川慶喜公伝』2・『維新史』三(2002.9.20)
関連:■「開国開城」>「文2:勅使大原重徳&島津久光率兵東下と文久2年の幕政改革」■余話「激烈老」勅使大原重徳

■公武合体派排斥&「天誅」
【京】文久3年7月20日、九条家家臣島田左近が暗殺されました。その首は3日後の23日に四条河原に晒されました。

島田左近は安政の大獄時の関白九条尚忠(辞任)の家臣です。捨札には、「大逆賊長野主膳え同服(同腹)いたし、不謂奸曲を相巧、天地ニ不可容大賊也」とされていました。

暗殺犯は、薩摩藩激派の藤井良節らに示唆された田中新兵衛・鵜木孫兵衛・志々目献吉だといわれています。(同月18日には本間精一郎・藤井良節が、朝廷の「奸物」暗殺を示唆しています:こちら)

<ヒロ>
京都における、いわゆる「天誅」の始まりとなりました(「天誅」といえば聞こえはいいけれど、単なるテロですが。そういう意味をこめての「」つきです)。

参考:『徳川慶喜公伝』2・『維新史』三(2002.9.20)

◆7/19へ   ◆7/21へ

8月の「今日」 幕末日誌文久2 テーマ別日誌 事件:開国:開城 HP内検索  HPトップ