8月の「今日の幕末」 幕末日誌文久3 事件:開国:開城 HP内検索  HPトップ

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文久3年7月8日(1863.8.21)
【京】将軍の攘夷期限委任奏請書、容保留む。
薩英戦争(4)英国公使、戦況を幕府に報知

■攘夷期限委任要請
【京】文久3年7月8日、幕府の使者牧野綱太郎が京都に到着して、守護職松平容保に、将軍の攘夷期限委任奏請書を関白鷹司輔熙に提出するよう伝えました。(日付は『七年史』より。『徳川慶喜公伝』は12日)

容保はこのような奏請書が(朝野で攘夷&親征気運の盛り上がる)京都の現状に反し、却って急進派に幕府攻撃の口実を与えるだけだと判断し、ついに奏請書を提出しませんでした。7月16日には、慶喜・老中の上京による攘夷委任の直接奏請を幕府に建議しています。

●おさらい
将軍家茂は、6月3日、鎖港攘夷の実行を名目に東帰を勅許されて(こちら)、同月9日に退京(こちら)、19日、約4ヶ月ぶりに江戸入城しましたが、26日には、<内政を整え人心一致してから攘夷を行うべきであり、攘夷期限は委任してほしい>旨の書を京都に発していました(こちら)

●京都の厳しい状況
将軍退京後も、京都では、孝明天皇の破約(鎖港)攘夷の意思は変わらず、また、将軍と入れ替わるように入京した真木和泉と長州藩を中心に、急速に攘夷親征論(=幕府への攘夷委任不可)が高まっており(こちら)、6月25日には将軍に対して攘夷督促の勅諚が下されて(こちら)、急進派の工作により、その使者として危うく守護職である容保が東下させられるところでした(こちら)。28日には、容保に代って禁裏附武士小野政寧が勅諚伝達に出京。7月4日には、即時攘夷を困難だとする慶喜の後見職辞表を却下して即時攘夷を改めて求める沙汰を出しました(こちら)。さらに、7月6日には、急進派公卿(国事寄人)が連署して、幕府への攘夷委任不可及び攘夷親征の布告を建言し(こちら)、翌7日には因幡藩主池田慶徳に布告の可否等を諮問(慶徳は返答猶予を願い出)。9日には、真木和泉が朝廷に召されて攘夷親征について質されています。

参考:『京都守護職始末』・『七年史』一・『徳川慶喜公伝』2(2001.8.21)
関連:■テーマ別文久3「攘夷期限」 「大和行幸と禁門の政変

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