9月の「今日」 幕末日誌文久3 テーマ別文久3 事件:開国-開城 HP内検索 HPトップへ

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文久3年7月29日(9.11)
【京】反・春嶽上京:武家伝奏、越前藩宿舎の西本願寺への放火予告・近隣大騒動により
同藩重役を呼び出し、同寺立ち退きを諭す
【京】朝廷、大坂城代松平信古(伊豆守)を召命
【長】長州訊問使:幕府使番中根一之丞、長州藩に糾問書を伝達

■反・春嶽上京
【京】文久3年7月29日、越前藩邸が置かれる西本願寺に放火予告が張り出されたため、近隣が大騒動となり、武家伝奏が同藩重役を呼び出し、立ち退きを諭しました。

(反春嶽の尊攘急進派による高台寺放火に引き続き)越前家老以下が旅宿とする西本願寺へも立ち退くよう張紙があったため、六条界隈の住民が「大騒動」したが、これは「虚喝」であった。(7月)30日に越前藩の牧野(=大番頭・牧野主殿介)がやってきて、昨日は伝奏衆よりお呼び出しがあり参ったところ、本願寺焼払いの張紙で、近辺人民が動揺した由、甚だ痛ましい事なので、早々に引移ってはどうかと諭されたという。越前藩は、委細承知しました、どこへなりとも引き移りますが、然るべき屋敷もありません、ただ幣藩故のことですので、どこへ移っても焼払はつきまとうに相違なく、人民動揺は同じことです、却って今のままのほうがよろしいかと、と申し上げたという。
(出所:8月5日付中山仲左衛門様・大久保一蔵様宛高崎左太郎書簡『玉里島津家史料』ニp408-410より作成。箇条書き、()内by管理人)

●おさらい
越前藩では、7月23日に藩論が一転して挙藩上京派が更迭されており(こちら)、同月25日にはキーパーソンの村田氏寿(巳三郎)も帰国のため退京していたのですが(こちら)、京都では春嶽が今にも率兵上京するという噂が広まっており、攘夷親征を推し進める尊攘急進派を痛く刺激していたようです。

春嶽・茂昭の上京時のに宿舎に予定されていた高台寺は、7月27日暁(あるいは26日夜)、春嶽を「朝敵」と呼ぶものたちの焼き討ちにあっており(こちら)、翌28日には越前藩が本陣とする西本願寺の焼き討ちを示唆する貼紙が祇園社扉に張り出されていました(こちら)

関連:■「開国開城「大和行幸計画と「会薩−中川宮連合」による禁門(8.18)の政変」■テーマ別文久3年:「越前藩の挙藩上京(政変)計画■越前藩日誌文久3 
■慶喜再上京
【京】文久3年7月29日、京都守護職・会津藩主松平容保は、因幡藩主池田慶徳に書を送り、用談があるので、2日・4日のうちの来訪を求めました。

参考:『贈従一位池田慶徳公御伝記』二p434(2012.12.31)
■大坂城代召命
【京】文久3年7月29日、武家伝奏飛鳥井中納言は大坂城代松平信古[まつだいら・のぶひさ/吉田藩主]の家臣を召し出し、上京の沙汰を伝えました

この召命の意図は、先に、異国船を見つけ次第ニ念なく打払うべきとの朝命を諸藩に伝達したにも関わらず、幕府は「御所へ申上候儀有之間、容易に打払等致す間敷」旨を達したことを、難詰しようとするものだったそうです。

参考:『七年史』一(2004.9.26)

■長州糾問使中根一之丞暗殺
【長】文久3年7月29日、幕府使番中根一之丞は長州藩に糾問書を伝達しました。

中根が携えてきた糾問書が将軍の親書ではなく、老中の書でしたので、長州藩では郡奉行刺賀佐兵衛に応対させました。

「           松平大膳大夫
去る五月十日夜亜船へ発砲致し剰へ翌朝に至り小倉領柿葉村之内石浜へも同様打込候事
一外夷拒絶之儀談判決定不相成候以前襲来にも無之船へ妄発等致し候事
一去月十一日相達置候趣も有之候處猥に他領へ人数武器等持越候上不法之所業へ及候由都て御委任之公辺を不憚候始末朝廷へ奉対如何之心得に候哉廉々可申立候事
   七月」
「          松平大膳大夫
其方家来共小倉藩へ多人数立入不法所業に及候由相聞以外之儀に被思召候早々取鎮為引払可申事
   七月」

関連:■「開国開城」「長州藩の攘夷戦争」■テーマ別「長州藩の攘夷戦争」■長州藩日誌文久3
参考:『修訂防長回天史』三下p465-466 (2004.9.26)
【京】真木和泉、中川宮及び殿下(鷹司関白?)訪問。両者所労で対面叶わず(『遺文』)p603

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