8月の「今日の幕末」 幕末日誌文久3) 事件:開国:開城 HP内検索 HPトップ
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■島津久光召命/攘夷親征反対派の巻き返し 【京】文久3年7月11日、近衛前関白父子、二条右大臣は、久光に、天皇の召命に従う早々上京を促す書簡を認めました。また、召命の理由は親征の「御用」だが、実は天皇は攘夷親征を好まないこと、「委細之次第」は使者から聞き取ること、さらに天皇は久光に「厚御依頼」したいことがあることを知らせました。 書簡の概容は以下の通り(箇条書き,()内は管理人)
<ヒロ> 「委細之次第」や「厚御依頼」の内容が、孝明天皇が兼ねてから久光に期待している「姦人掃除」(こちら)に関することだということは容易に推測できると思います。 近衛前関白父子は、7月1日に久光召命を建白していますが(こちら)が、その後、二条右大臣と連署の上、改めて建白したようです。彼らは、攘夷親征中止を求める在京薩摩藩士吉井幸輔(&奈良原)に対し、9日、10日と「鎮静」を求めていますが(こちらとこちら)。この間に、建白提出/召命の協議・周旋をしていたのではないかと想像します。 因幡藩主池田慶徳が14日に関白鷹司輔煕に聞いた話によれば、久光召命は、薩摩藩士が前関白に入説し、二条右大臣・徳大寺内大臣らが近衛邸に参集して協議し、中川宮も同意した上で、鷹司関白に申し立てて沙汰が下りたそうです。実際に沙汰が出されたのは7月12日のようですが、おそらく、この日には朝議で内定していたのだと思われます。 なお、『真木和泉遺文』では、守護職松平容保の東下工作に失敗した真木は、大兵を擁する会津藩に対抗させるには薩摩藩がよいと考えており、三条実美に久光の召命進言したところ、三条は大いに喜び、その翌日、召命の沙汰が下ったとされています。 ●おさらい:久光召命 ○久光に「暴論」公卿「開眼」の密勅(下付されず) 孝明天皇は外国嫌いで真から鎖港/破約攘夷を望んでいましたが、一方では公武一和思想の持ち主で保守的でした。かねてから、門閥の低い急進派公卿が過激な言動を繰り返し、自分の意思が貫徹しない朝廷の状況に怒りを感じていました。天皇の期待したのが前年の寺田屋事件で激徒を鎮圧した久光でした。4月下旬には中川宮に対し、久光に上京・「暴論」公卿を「開眼」させよとの密勅を示しましたが、中川宮が時機をみるべきと奉答したため、密勅を下すにはいたりませんでした(こちら) ○朔平門外の変と在京薩摩藩の苦境 久光退京後の薩摩藩は、5月20日の朔平門外の変(姉小路公知殺害事件こちら)で疑惑をもたれ、厳しい立場に立たされていました。25日には姉小路暗殺犯として田中新兵衛が逮捕され(こちら)、翌26日には自刃しました(こちら)。尊攘急進派は薩摩藩の責任だと主張し、薩摩藩は御所警備を罷免され、九門内往来を禁じられました(こちら)。急進派は「増長」して、天皇の「真実之御趣意」は「不貫徹」という状況にあり、近衛前関白父子は、26日、久光に書を送り、事件は薩摩を嫌い、貶めたい者の仕業だとの認識を伝えるとともに、上京を促しました(こちらとこちら)。 ○久光に「急速上京」・「姦人掃除」の密勅下付 この頃、孝明天皇は、強く望んだ将軍滞京も急進派の妨害で通らないことに怒りを募らせており、将軍東帰の暇が伝達された5月30日、ついに久光に「急速上京」して「姦人掃除」をせよとの密勅を下しました(こちら)。密勅を渡された留守居本田弥右衛門(親雄)は、京を発ち、鹿児島に向かいました(6月9日到着)。しかし、この頃、生麦事件償金支払を薩摩に迫るため、英国艦隊が鹿児島に来航する可能性が高まっており、久光は動くことができませんでした。 ○攘夷親征論の高まり 6月9日に、将軍家茂が東帰のために幕兵とともに退京・下坂し(こちら)、13日に大坂を出港しました(こちら)。そして、将軍と入れ替わるように、真木和泉が入京して、攘夷親征論は一気に具体化しました(こちら)。 孝明天皇は攘夷親征を好まず、近衛忠煕前関白父子・二条斉敬右大臣らも反対でした(こちら)。 7月5日には、近衛前関白らが、攘夷親征に関して外様藩を含む諸大名を召して衆議をこらすようにと上書しましたが(こちら)、翌6日には急進派公卿が連署して、将軍へ攘夷委任の不可&攘夷親征の布告を建言し(こちら)、9日には真木和泉が朝廷に召されて攘夷親征論を披露しました(こちら)。事態はいよいよ切迫してきましたが、久光からは密勅への返答はまだ到来しませんでした。この間、英国艦隊が鹿児島に来航し、7月2日には薩英戦争が勃発していたのです(こちら)。 関連:■テーマ別「島津久光召命」■薩摩藩「かけあし事件簿文久3年」 ■開国開城:「大和行幸計画と「会薩−中川宮連合」による禁門(8.18)の政変」 参考:『玉里島津家史料』ニp358 『真木和泉遺文』p598、『贈従一位池田慶徳公御伝記』(2012/4/20) ■攘夷親征(大和行幸)計画 【京】文久3年7月11日、長州藩家老益田右衛門介・根来上総が入京し、攘夷親征の建白を議定しました。 益田らは藩主毛利敬親の命令で、(1)攘夷親征、(2)立太子、(3)違勅の幕吏・諸侯の討伐を奏請するために上京しました。益田らは入京すると在京の支藩岩国領主吉川監物(経幹)・清水清太郎らと会合して、藩主父子の直書を示して、協議した結果、公卿に入説して親征を請願することに決めました。 ●おさらい 文久3年6月9日に、将軍家茂が東帰のために幕兵とともに退京・下坂し(こちら)、13日に大坂を出港しました(こちら)。そして、将軍と入れ替わるように、真木和泉が入京して、攘夷親征論は一気に具体化しました(こちら)。尊攘急進派は障害となる容保/会津藩を京都から追い出そうとし、6月25日には容保東下の勅命が降りました(こちら)。しかし、裏面の事情を察した天皇が容保に東下を望まぬ旨の密勅を下し(こちら)、天皇の真意を知った会津藩が東下をあくまで固辞したことから(こちら)、容保の東下は沙汰やみとなりました。 孝明天皇は、攘夷親征を好まず、近衛忠煕前関白父子・二条斉敬右大臣・徳大寺公純内大臣も親征には反対でした(こちら)。 7月5日、近衛前関白らは、外様藩を含む諸大名を召して攘夷親征可否の衆議をこらすようにと上書しましたが(こちら) 翌6日には急進派公卿が連署して、将軍へ攘夷委任の不可&攘夷親征の布告を建言しました(こちら)。親征布告は朝議の重要課題となり、7日には、因幡藩主池田慶徳を召して攘夷親征布告等を下問し(こちら)、次いで9日には真木和泉を召し出して攘夷親征について下問しました(こちら)。 関連:■開国開城:「大和行幸計画と「会薩−中川宮連合」による禁門(8.18)の政変」■テーマ別:「長州藩の攘夷戦争 「大和行幸と禁門の政変」 ■長州藩日誌文久3 参考:『維新史』三(2004.9.21) 【京】朝廷、東園中條・四条侍従に播磨・紀伊の監察を命ず。(『綱要』p493) 【京】水戸藩尼子長三郎、因幡藩主池田慶徳に謁す。明12日の東下を告げる(『御伝記』二p403) |
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