9月の「今日」 幕末日誌文久3 テーマ別文久3 開国開城 HP内検索 HPトップへ

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文久3年8月14日(1863年9月26日)
【京】平野國臣、宮部鼎蔵、桂小五郎・久坂玄瑞らに学習院出仕の沙汰
【京】在京公武合体派諸侯と急進派公卿、親征可否の激論
【京】天誅組、京都を脱して大和へ
【鹿】島津久光、松平春嶽の計画に同意。同時上京・国事周旋の決意を示す
【江】幕府、徳川慶勝に摂海・京都周辺の防御指揮を命ず

☆真木和泉のお天気日記 雨

■攘夷親征/大和行幸
【京】文久3年8月14日朝、朝議参謀の因幡・備前・米沢藩主・阿波藩世子四候を含む七候は、朝廷に、昨13日の親征反対の議論が僭越だったことを謝して進退を伺いましたが、関白鷹司輔煕はその必要はないと退けました。

「私共儀、昨日参内の節、微臣過当僭越之儀申上候段、神州之御為筋と相考申上候儀ニも御座候得共、重々恐入奉存候。依之進退相伺申上候。宜敷御差図希入奉存候」
(出所:8月14日付両伝奏宛(池田)仲立・修・光貞・(池田)茂政・(上杉)斉憲・(蜂須賀)茂韶・(池田)慶徳書簡『鳥取池田家文書』一p581。句読点by管理人)

「昨日御参内之節、過当僭越之儀被申上候由ニ付、御恐懼依之進退御伺之旨、関白殿江申入候處、神州之御為御誠忠ニ而被申上候事故、決而不及其儀旨、宣申入被命候。必御安意之様存候」
(出所:8月14日付因幡中将殿(=池田慶徳)・阿波侍従殿・米沢少将殿・備前侍従殿・分部若狭守殿・松浦豊後守殿・松平伊勢守殿宛(野宮)定功書簡『鳥取池田家文書』一p571-572。句読点by管理人)

■西国鎮撫
【京】文久3年8月14日、米沢藩主上杉斉憲は、因幡藩主池田慶徳に書状を送り、親征布告の件は仕方ないとして、西国鎮撫を阻止すべく、中川宮にあくまで固辞するよう言上してはどうかと提案しました。
昨日は御同然恐縮の事でござった。「行幸之儀は無拠鎮撫之一条は甚残念実ニ天下之惑乱是より生し」申すと存じる。「昨朝、中川宮江貴兄被為入候訳も御座候間」、此上如何様の御沙汰がござっても、御請けなさらぬよう貴兄より(中川宮へ)仰せ上げられてはいかがでござろうか。尊虜をうかがいたい。実にこの一条は天下の一大事と存じる。中川宮が御断りになれば、ほかに然るべき御方(=候補者)もなく、(西国鎮撫は)自然御沙汰止みにもなるだろうと愚意には存じられる。(後略)
ニ伸 (朝議参謀の)辞表は今日お差出になるか伺いたい
(出所:待宵(=14日)付相模様(=池田慶徳)宛弾正大弼(=上杉斉憲)書簡『鳥取池田家文書』p570)

慶徳は賛同し、中川宮の西国鎮撫使不可の上書案を作成の上、他の三候にはかったところ、最終的には恐れ多いという理由で、提出を見送りました
ニ伸 (朝議参謀の)辞表は今日お差出になるか伺いたい
(出所:待宵(=14日)付相模様(=池田慶徳)宛弾正大弼(=上杉斉憲)書簡『鳥取池田家文書』p570)


【京】文久3年8月14日、朝廷は、平野國臣(筑前)、真木和泉・水野丹後・木村三郎・池尻茂左衛門(久留米)、宮部鼎蔵・山田十郎(肥後)、益田右英門・桂小五郎・久坂玄瑞(長州)、福羽文三郎(津和野)、土方久元(土佐)ら尊攘急進派/即今破約攘夷派の浪士・諸藩士に学習院出仕を命じました

急進派公卿の三条実美らは、彼らと親征・在京兵数の取調べ等について話し合ったそうです。

関連:■「開国開城」「大和行幸計画と「会薩−中川宮連合」による禁門(8.18)の政変」■テーマ別文久3年:「大和行幸と禁門の政変」 ■長州藩日誌文久3
参考:『七年史』一、『会津藩庁記録』三、『維新史料綱要』など(2001.9.26、2004.10.6)

■越前藩の挙藩上京計画
【鹿】文久3年8月14日、薩摩藩国父島津久光は、前越前藩主松平春嶽・越前藩主松平茂昭の上京要請に対して返書し、その中で越前藩と同時に上京・国事周旋をする決意を明らかにしました。

「・・・方今容易ならざる形勢と相成り、皇京の御難題差見え居り、御苦心の余り御家老(=岡部豊後)を以て態々遠国迄仰せ越され候趣、逐一承知致し候。至当の御儀更に異論御座無く候砌、当春大樹公(=将軍家茂)御上洛の節、愚拙にも上京仕り候えども、実に以て暫時の事、尊公(=春嶽)にも御不快中御面談も申し上げず、今に至り遺憾限りなく御座候處、今般御使差し下され御相談預かり候儀抔(など)、躍の至りに御座候。目前の国難(=薩英戦争)も之有り候えども、皇国の御為東西一時に上京、身命を挺し周旋仕りたき含みに御座候。尚、細事御家臣へ申し述べ置き候間、御聞き取り下されたく存じ奉り候・・・」
(出所:8月14日付松平春嶽宛島津久光書簡より。素人の管理人がさらに書き下して、句読点も追加していますので、原文として扱わないでね)

<ヒロ>
越前藩家老岡部豊後らが、薩摩藩・肥後藩に対して挙藩上京の藩論(こちら)を説明し、連携しての上京を促すために福井を発ったのは7月5日でした(こちら)。彼らは、途中、熊本に寄って、肥後藩主細川慶順の同意をとりつけ、最終目的地である鹿児島に入っていました。この時代の福井と南九州は遠く、また、この間の政局の動きはあまりに早かった・・・・。せっかくの久光の決意ですが、このとき、既に越前藩では藩論が一転して挙藩上京派は更迭されており(こちら)、政事顧問の横井小楠も福井を去っていました(こちら)。また、肝心の京都では、前日の13日に攘夷親征の沙汰が発表され、当初、越前藩との連携を考えていた在京薩摩藩士(こちら)は、今まさに、会津藩・中川宮と連合して政変を起そうとしていました(こちら)

久光の返書を携えた岡部が福井に帰りついたのは禁門の政変から11日経過した8月29日でした・・・。

関連:■「開国開城」「大和行幸計画と「会薩−中川宮連合」による禁門(8.18)の政変」■テーマ別文久3年:「越前藩の挙藩上京(政変)計画」「島津久光召命」■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年」
参考:『続再夢紀事』ニp121-123、『玉里島津家史料』ニ、『島津久光公実記』(2004.10.6)

■天誅組
【京】文久3年8月14日、前日に出された攘夷親征の詔を受け、天皇を大和に迎えて親征の先鋒となることを志す天誅組−藤本鉄石、松本奎堂、安積五郎、吉村寅太郎ら尊攘急進派数十名−が、元侍従中山忠光を奉じて、京都を脱し、大和に向いました

<ヒロ>
中山忠光(19歳:父はのちの明治天皇外祖父の中山忠能)は、文久3年2月、国事寄人新設とともにこれに任じられていましたが、3月に京都を脱走して長州に下り、志士と交わっていました。6月、京都に戻って、真木和泉、久坂玄瑞、吉村寅太郎らとともに攘夷親征の実現に向かって奔走していました。

ちなみに浪士組結成の立役者清河八郎は天誅組とは縁があります。藤本は諸国漫遊中に清河の実家斎藤家に立ち寄り、1ヶ月正客となっています。清河は17歳で藤本の出立時に漢詩を作っています。また、清河と安積五郎は東条塾の塾友で、義兄弟の誓いを立てたといわれています。

なお、のちに御陵衛士となった篠原秦之進も天誅組酒井伝次郎とは安政年間にともに尊攘に尽そうと誓い合った仲でした。

参考『徳川慶喜公伝』2・『清河八郎遺著』など(2001.9.26)
関連: ■「開国開城」8/10月:大和の乱・生野の乱 ■テーマ別文久3「天誅組

【江】文久3年8月14日、幕府は前尾張藩主徳川慶勝(守護職松平容保の実兄)に上坂を命じました。摂海及び京都付近の警衛の指揮をとらせるためです

<ヒロ>
これも、攘夷親征論に対抗したものなのでしょうか。この摂海及び京都付近の警衛の指揮・・・というのは、後に一橋慶喜が拝命することになる禁裏守衛総督・摂海防御指揮職と、ちょっと似てますね。

参考:『東西紀聞』ニ(2004.10.6)

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