9月の「今日」 幕末日誌文久3 テーマ別文久3 開国開城 HP内検索 HPトップへ
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☆真木和泉のお天気日記 雨 ■攘夷親征/大和行幸 【京】文久3年8月14日朝、朝議参謀の因幡・備前・米沢藩主・阿波藩世子四候を含む七候は、朝廷に、昨13日の親征反対の議論が僭越だったことを謝して進退を伺いましたが、関白鷹司輔煕はその必要はないと退けました。
■西国鎮撫 【京】文久3年8月14日、米沢藩主上杉斉憲は、因幡藩主池田慶徳に書状を送り、親征布告の件は仕方ないとして、西国鎮撫を阻止すべく、中川宮にあくまで固辞するよう言上してはどうかと提案しました。
慶徳は賛同し、中川宮の西国鎮撫使不可の上書案を作成の上、他の三候にはかったところ、最終的には恐れ多いという理由で、提出を見送りました。
【京】 ![]() ![]() ![]() 急進派公卿の三条実美らは、彼らと親征・在京兵数の取調べ等について話し合ったそうです。 関連:■「開国開城」「大和行幸計画と「会薩−中川宮連合」による禁門(8.18)の政変」■テーマ別文久3年:「大和行幸と禁門の政変」 ■長州藩日誌文久3 参考:『七年史』一、『会津藩庁記録』三、『維新史料綱要』など(2001.9.26、2004.10.6) ■越前藩の挙藩上京計画 【鹿】 ![]()
<ヒロ> 越前藩家老岡部豊後らが、薩摩藩・肥後藩に対して挙藩上京の藩論(こちら)を説明し、連携しての上京を促すために福井を発ったのは7月5日でした(こちら)。彼らは、途中、熊本に寄って、肥後藩主細川慶順の同意をとりつけ、最終目的地である鹿児島に入っていました。この時代の福井と南九州は遠く、また、この間の政局の動きはあまりに早かった・・・・。せっかくの久光の決意ですが、このとき、既に越前藩では藩論が一転して挙藩上京派は更迭されており(こちら)、政事顧問の横井小楠も福井を去っていました(こちら)。また、肝心の京都では、前日の13日に攘夷親征の沙汰が発表され、当初、越前藩との連携を考えていた在京薩摩藩士(こちら)は、今まさに、会津藩・中川宮と連合して政変を起そうとしていました(こちら)。 久光の返書を携えた岡部が福井に帰りついたのは禁門の政変から11日経過した8月29日でした・・・。 関連:■「開国開城」「大和行幸計画と「会薩−中川宮連合」による禁門(8.18)の政変」■テーマ別文久3年:「越前藩の挙藩上京(政変)計画」「島津久光召命」■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年」 参考:『続再夢紀事』ニp121-123、『玉里島津家史料』ニ、『島津久光公実記』(2004.10.6) ■天誅組 【京】 ![]() ![]() ![]() <ヒロ> 中山忠光(19歳:父はのちの明治天皇外祖父の中山忠能)は、文久3年2月、国事寄人新設とともにこれに任じられていましたが、3月に京都を脱走して長州に下り、志士と交わっていました。6月、京都に戻って、真木和泉、久坂玄瑞、吉村寅太郎らとともに攘夷親征の実現に向かって奔走していました。 ちなみに浪士組結成の立役者清河八郎は天誅組とは縁があります。藤本は諸国漫遊中に清河の実家斎藤家に立ち寄り、1ヶ月正客となっています。清河は17歳で藤本の出立時に漢詩を作っています。また、清河と安積五郎は東条塾の塾友で、義兄弟の誓いを立てたといわれています。 なお、のちに御陵衛士となった篠原秦之進も天誅組酒井伝次郎とは安政年間にともに尊攘に尽そうと誓い合った仲でした。 参考『徳川慶喜公伝』2・『清河八郎遺著』など(2001.9.26) 関連: ■「開国開城」8/10月:大和の乱・生野の乱 ■テーマ別文久3「天誅組」 【江】 ![]() <ヒロ> これも、攘夷親征論に対抗したものなのでしょうか。この摂海及び京都付近の警衛の指揮・・・というのは、後に一橋慶喜が拝命することになる禁裏守衛総督・摂海防御指揮職と、ちょっと似てますね。 参考:『東西紀聞』ニ(2004.10.6) |
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