8月の「今日の幕末」 幕末日誌文久3) 事件:開国:開城 HP内検索 HPトップ
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■久光召命 (1)召命中止の沙汰 【京】文久3年7月17日、朝廷は、薩摩藩国父島津久光の召命中止の沙汰を下しました。 久光召命は7月12日に出ていましたが(こちら)、朝野の急進派はこれを非としていました。16日には御前会議が開かれ、徹夜になったそうですが、近衛忠煕前関白・近衛忠房権大将父子、二条斉敬右大臣、徳大寺公純内大臣以外は、久光召命に反対して中止が決定しました(こちら)。召命取り消しの沙汰は、伝奏飛鳥井雅典を通して在京薩摩藩邸に達せられ、村山斎助が国許に運ぶことになりました(出京日付は不明)。 なお、久光召命に期するところのある孝明天皇は、一度出した勅命撤回を強く迫った三条実美らに激怒しました(16日の今日参照こちら)。 関連:テーマ別■「越前藩の挙藩上京計画(越・薩の政変計画)」「島津久光召命」■越前藩日誌文久3■薩摩藩日誌文久3 参考:『続再夢紀事』ニp86、『七年史』二p384-385(2004.9.21) ■慶喜再上京 (3)慶喜、上京の決意を固める 【江】文久3年7月17日、一橋慶喜は、後見職辞表を留める勅書への請書を認め、上京の上、委しく叡慮を伺い、御沙汰次第、捨身の微衷を尽くす決意を明らかにしました。
『徳川慶喜公伝』によれば、慶喜は今回の上京には必死の覚悟を定めており、末弟にあたる松平余九麿を手許に呼び寄せ、一字を与えて「喜徳」を名乗らせ、仮子としました。 ●おさらい 慶喜は4月22日、「鎖港攘夷の実効」をあげることを名目として東下の勅許を得て帰府していました。最初の辞表を提出したのは、生麦事件の償金支払い後の5月14日。横浜鎖港の勅旨を貫徹する見込みがないとの理由でした(こちら)が、朝廷は6月2日、<後見職を元のように務めて将軍とともに攘夷に尽力するように>と辞任を却下しました(こちら)。慶喜は、これに対し、6月13日、重ねて即時攘夷の困難さを伝え、<期限があっては攘夷をお請けできないので辞職を願いたい。内政を整えた上で攘夷に取り組みたいとの願いが聞き届けられれば粉骨砕身したい>と、二度目の辞表を提出しました(こちら)。同月15日には将軍が着府しましたが、24日には、さらに、生麦事件賠償問題や下関外国船砲撃事件での薩長処分について幕府が自分の意見を容れず、後見職は名ばかりであるとして、攘夷期限の有無に関係なく辞任を願いでました(こちら)。しかし、朝廷は、7月4日、再び辞表を却下し、即時攘夷への粉骨を求める沙汰を出しました(こちら) 参考:『贈従一位池田慶徳公御伝記』一p420-421、『徳川慶喜公伝』2p247-248(2012.12.23) 関連:■開国開城:「大和行幸計画と「会薩−中川宮連合」による禁門(8.18)の政変」■テーマ別:「将軍・後見職の再上京」 ■攘夷監察使 【京】文久3年7月17日、朝廷の命により、攘夷監察使の東園基敬(ひがしその・もとゆき)中将、四条隆謌(しじょう・たかうた)侍従が、それぞれ紀州・藩州の海防状況を巡察するため、京都を出立しました。 ●おさらい:攘夷監察使派遣 文久3年5月、長州藩が外国船を砲撃すると、6月1日、朝廷は攘夷期限通りに攘夷を実行したことを称揚する沙汰を下し、 さらに14日、正親町公菫を攘夷監察使に任命して、長州に派遣し、勅旨を伝えさせました(7月8日に伝達)。攘夷親征論の高まる中、急進派の建議により、7月11日にはさらに東園中條・四条侍従に対し、それぞれ播磨・紀伊の監察を命じました。これに対し、因幡藩主池田慶徳は、留守居の上申により、13日、監察使に勅使としての威儀を保たせるべきだと建白しました。 【京】備前藩主池田茂政入京。因幡藩主池田慶徳を訪問(『御伝記』二p410)←どちらも徳川斉昭の子で気の合う実の兄弟です・・・。 |
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