1月の「今日の幕末」 幕末日誌文久3 開国開城 HP内検索 HPトップ

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文久3年12月7日(1864.1.15)
【京】慶喜・春嶽・容保・宗城・久光ら在京諸侯、朝廷に中川宮擁護の上書提出

■中川宮の浮説
【京】文久3年12月7日、将軍後見職一橋慶喜・前越前藩主松平春嶽・京都守護職松平容保(会津藩主)・前宇和島藩主伊達宗城・京都所司代稲葉正邦(淀藩主)・薩摩藩国父島津久光・筑前藩世乎黒田慶賛・肥後藩主弟長岡澄之助・良之助は、連署して上表し、中川宮に関する浮説の冤を弁じました。

「此節尹宮の御上に於いて、種々浮説相唱え候趣承知仕り、驚愕に堪えざるの至りに存じ奉り候。素より宮の皇国の御為に御心力を尽くせられ候御誠義は、一同深く感服奉り、依頼候義に御座候処、右様流言行われ候義は、皇国一層の危険を添え候義にて、何共戦■恐懼の極地と存じ奉り候。聖明にわたらせられ、夫(それ)等の迂策に御動揺在らせらるる御義とも存じ奉り候得共、姦邪凶険の正義を妨げ、骨肉を傷害仕り候に、離間の策を用い候は、古今同じ轍の義にて、照然たる事に御座候へ共、其の策成敗に寄て、天下国家の安危存亡を分け候義、和漢共に其の証跡分明の事に候へば、仮令聖明におわせられ、御嫌疑の叡慮在らせられず候共、鎖骨鑠金の姦計、朝野を煽惑するに至りては、以ての外容易ならざる大事にて、御間柄に於いて、御■隙一度相開き候ては、皇国の綱維御挽回も頓と絶え果て候事に相成り、臣等及ばずながら、身命を擲ち、尽力仕り候所、詮も之無く、赤誠空しく讒間の為に挫折仕り候ては、実に飲涙の至り堪えず候へ共、此時に当りて宮の日月を貫徹せられ候御高義御誠忠は、臣等社稷に換え、死を誓て奏上奉るべく候間、仰冀(こいねがわ)くは確乎たる聖聴、泰山不動に比せられ、皇国万世の御鴻基を建てさせられ候様、臣等、叩頭闕下に伏して企望懇願奉り候」
出所:『七年史』二p70-71より読み下しby管理人(素人なので、著作物作成の際は必ず原典にあたってね)

12月5日の後見職邸会議の結果を受けたものです(こちら)。

提出の日付は『維新史料綱要』によりました。

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■長州藩
【京】文久3年12月7日、長州藩士宍戸九郎兵衛が京都留守居役の交代として入京を請いましたが、許されませんでした。

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