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文久2年12月13日(1863.2.1)
【江】幕府、攘夷を諸大名に布告/
【江】浪士組:清河八郎、江戸に到着

■攘夷布告
【江文久2年12月13日、幕府は諸大名以下に総出仕を命じ、攘夷の勅諚及び親兵設置の沙汰を示達しました。さらに、(1)来春2月の将軍上洛までに各自の(攘夷の)策略を意見書として提出すること、(2)武備充実を心がけること、(3)委細は衆議の上、天皇の考えを伺うので、「無謀の所行」のないよう家臣に申し付けること、の3点を命じました。

<おさらい:攘夷布告の経緯>
攘夷の布告は、勅使三条実美・姉小路公知が11月29日に求めていました。最初、将軍後見職一橋慶喜は断りましたが(こちら)、12月3日、政事総裁職の松平春嶽が、慶喜の欠席した勅使との会見で承諾しました(こちら)。同月4日、登城した勅使は、早々に攘夷・親兵設置を決定・布告し、攘夷の策略・期限を翌春までに言上するようとの沙汰を伝えました(こちら)。5日、幕府は攘夷を奉答しました(こちら)。勅使は、7日に江戸を発ちましたが(こちら)、攘夷を奉答し、総裁職春嶽が布告するとの言質を与えた以上、幕府としても、攘夷の勅諚を布告せねばならなくなったのでした。

攘夷の策略は衆議の上で天皇の意見を聞くので「無謀の所行」(外国人襲撃など)がないようにと釘をさしているのは、幕府としては、将軍上洛前に先立って上京する慶喜・春嶽・容堂・久光ら公武合体派諸侯と近衛忠煕関白・青蓮院宮ら朝廷の公武合体派と連携した「衆議」により、(破約→)自主開国という「策略」を決定し、天皇に上奏するつもりでいるからでした・・・。

参考:『続再夢紀事』一・『徳川慶喜公伝』2(2004.2.1)
関連:■開国開城「第2の勅使三条実美東下と攘夷奉勅&親兵問題」 「幕府の公武合体派連合(幕薩連合)策」■テーマ別「国是決定:攘夷奉勅VS開国上奏」 「将軍上洛準備:京都武力制圧VS幕薩連合の公武合体派会議

■浪士組
【江】文久2年12月13日、清河八郎が江戸に到着しました

清河八郎は、9日に浪士取扱を命じられた松平主税助(こちら)の招きに応じ、11日に水戸を出立していました。江戸に着くと、山岡鉄舟宅に寄寓しました。
(浪士組についてはまた、後でまとめて・・・)。

参考:『清河八郎』(2004.2.1)
関連■「清河八郎」「文久2年(寺田屋事件〜浪士組募集決定)

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