7月の「今日」  幕末日誌文久3 テーマ別文久3 事件:開国:開城 HP内検索  HPトップ

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文久3年6月12日(1863年7月27日)
【京】老中、外国船砲撃事件で長州藩を詰問/
【坂】小笠原長行、上京の理由書を提出/
【京】村田巳三郎、薩摩藩高崎左太郎・吉井幸輔に藩論を説き、
同意を得るが時機を待つよう助言される。
【京】近衛忠熙、久光に書を送り、上京を促す

■長州藩の攘夷戦争
【坂】文久3年6月12日、老中水野忠精は、書を長州藩大坂屋敷の留守居役北条瀬兵衛に下し、横浜談判中に外国船を砲撃したことについて詰問しました。

参考:『修訂防長回天史』三下(2004.7.27)

関連:■開国開城:「賀茂・石清水行幸と長州藩の攘夷戦争」■テーマ別文久3年:「長州藩の攘夷戦争」■長州藩日誌文久3
■越前藩の挙藩上京計画(越・薩の政変計画)
【京】文久3年6月12日、越前藩目付の村田氏寿(巳三郎)は、薩摩藩士高崎左太郎・吉井幸輔に挙藩上京計画を説明しました。両者は同意した上で、時機を待つように助言しました。

両者の会談は以下の通り(口語訳byヒロ)
高崎
(左)
薩摩藩は近日朝廷より嫌疑を蒙り、又、諸藩よりも誹謗を受ける意外な状況にあり、慨嘆に耐えない。しかし、最初に伺った叡慮を奉じ、公武合体を以て皇国の衰退を挽回する事に尽力すべきという国論は、天地に誓って断然変更させない
村田 事態は切迫してきている。臣民たる者は徒に傍観すべきではなく、我が藩では鎖港談判及び内地政体の目的を議定し、これを朝廷幕府に言上することに決した
高崎 尤も至極の御趣意はいささかも間然する所がないが、言上は機会を待たれる方がよいのではないか。もちろん、三郎も眼前に内憂外患が切迫して叡慮を悩ます事態を傍観する存念ではない。しかし叡慮を以て仰せ出されたことすら中間にて逼塞する状況なので、今日、朝廷より嫌疑を蒙り、諸藩よりも誹謗を受ける身分で到底意見の行われるべき時ではない。故に止むを得ず時機の至るのを待っているのである
村田 越前藩の国論は前術の通りだが、是を実際に行うにはなお同志方にも御相談にも及べく、時機を待っている
高崎 過般来、三郎へ上京を命ずべしとの叡慮によって、幾度も御沙汰があったのを、議奏伝奏国事掛の輩がいつも遮っている。一両日前も又又仰せ出されたのに、例の輩が三郎を召されてはお為にならないと意見したところ、ことのほか逆鱗されたと聞いている。このことは極密で当藩でも一両人しか知るものはないが、御承知であれば御参考にもなるべき事なので、内々にお耳に入れるものである。この後、どう決定されるか計りがたいが、万一召される方に決定しても、やはり当春のような状況に至ることは明らかなので、三郎には容易に応じられないだろう。しかし、今後、なお、同じ事に尽力する機会があれば、その際は、一橋公・春嶽公・容堂公及び三郎が会することを祈っている
高崎 薩摩藩の国論は既に述べた通りだが、今日の御談話は、憂国の至誠に実に感服するばかりでなく、容易ならざる大事件なので、吉井幸輔にも御内話を願いたい

村田が吉井に面会して再び越前藩の国論を詳述したところ、吉井も高崎の意見と同様であったそうです。

おさらい
<越前藩の事情
越前藩では、6月1日に、「身を捨て家を捨て国を捨る」覚悟で挙藩上京して(1)各国公使を京都に呼び寄せ、将軍・関白を始め、朝廷幕府ともに要路が列席して彼我の見るところを講究し、至当の条理に決すること、(2)朝廷が裁断の権を主宰し、賢明諸侯を機務に参与させ、諸有司の選抜方法としては幕臣だけでなく列藩中から広く「当器の士」を選ぶよう定めることを決めましたが(こちら)、4日には慎重論を説く中根雪江の意見を容れたかたちで、京都に藩士を送り、その報告をもとに進発日を決めることにしました(こちら)。これを受けて、村田は6日に上京していました。

<薩摩藩の事情>
久光退京後の薩摩藩は、5月20日の朔平門外の変(姉小路公知殺害事件こちら)で疑惑をもたれ、厳しい立場に立たされていました。25日には姉小路暗殺犯として田中新兵衛が逮捕され(こちら)、翌26日には自刃しました(こちら)。尊攘急進派は薩摩藩の責任だと主張し、薩摩藩は御所警備を罷免され、九門内往来を禁じられました(こちら)。この頃、急進派は「増長」して、天皇の「真実之御趣意」は「不貫徹」という状況にあり、近衛前関白父子は、26日、久光に書を送り、事件は薩摩を嫌い、貶めたい者の仕業だとの認識を伝えるとともに、上京を促しました(こちらこちら)。このような状況下、5月30日、孝明天皇は久光に対し、「急速上京」して、天皇の存意を「中妨」し、「偽勅」を出す「姦人(=三条実美ら)掃除)」をせよとの密勅を、中川宮・近衛前関白を介して下しました(こちら)。密勅を渡された留守居本田弥右衛門(親雄)は、京を発ち、鹿児島に向かいました(9日到着)。11日には、九門往来は許されましたが、御所警備は免除されたままでした(こちら)

<ヒロ>
高崎左太郎という名前に覚えがありませんか?そう!彼は、会津藩に8.18の政変をもちかけた在京薩摩藩の公武合体派キーパーソンです。8.18政変は会薩-中川宮連合によって起こされましたが、会津側の資料を読んでいると、高崎による連合のもちかけはほんとうに唐突に行われています。それ以前の会津藩には朝廷改革を起こそうという様子はみえません。会津は、政変後どうするかという青写真を描かぬまま、緊急避難的に政変に参加したようにさえ思えます。だから、大兵力を有しながらも政変後の政局のイニシアティブをとれなかった・・・。

一方、薩摩藩は、『続再夢紀事』を読んでいくと、8.18以前から政変(朝廷改革)の機会をうかがっていたことがうかがえます。そして、そのパートナーは会津藩ではなく越前藩でした。というより、主導していたのはむしろ越前藩の方に思えます。しかし、高崎は最終的になぜ連合の相手に会津藩を選んだのか(選ばねばならなかったのか)・・・。今後、「今日」でフォローしていきたいと思います。越前藩日誌や薩摩藩日誌もごらんください。

参考:『続再夢紀事』ニp51-53(2004.7.27)
関連:■テーマ別「越前藩挙藩上京計画」■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年」

■小笠原の率兵上京
文久3年6月12日、小笠原長行は上京の理由書を提出しました。

<ヒロ>
理由書は『七年史』に引用されてるのですが、5ページに渡る長文なので、時間ぎれ・・^^;。

参考:『七年史』一(2004.7.27)
関連:■開国開城:「幕府の生麦償金交付と老中格小笠原長行の率兵上京」■幕末日誌文久3 ■テーマ別:「第2次将軍東帰問題と小笠原長行の率兵上京
【京】近衛忠熙、久光に書を送り、上京を促す((『玉里島津家史料』ニp316)

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