8月の「今日の幕末」 幕末日誌文久3) 事件:開国:開城 HP内検索  HPトップ

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文久3年7月9日(1863.8.22):
【京】大和行幸:薩摩藩吉井幸輔・奈良原孝五郎、
近衛忠房に面会し、大和行幸の延期を主張
【京】久光召命:近衛前関白父子、久光に召命建白を知らせ、急速上京を促す
【江】幕府、長州藩に外国船攻撃禁止を厳命

■大和行幸&越前藩挙藩上京(政変)計画
【京】文久3年7月9日、薩摩藩吉井幸輔・奈良原孝五郎が近衛忠房(前関白近衛忠煕の子)に面会し、大和行幸の延期を主張しましたが、時機を待つよういわれました

この日、吉井・奈良原が近衛忠煕前関白を尋ねたところ、二条邸で集会をしているとのことだったので、二条邸に向かいました。

吉井・
奈良原
(攘夷親征である)大和行幸延期を速やかに決定せねば必ず事変を生じることでしょう
忠房 もっともだと存ずるが、先日言上した意見書に対して「奮発は見合わせ尚鎮静を尤と思召さるる旨」の沙汰があったので急に実行することは困難だ
吉井・
奈良原
日を経れば甚だ危ういことになります。至急断行すべきです。
忠房 暫く待つように。
忠房 (一旦退座し、しばらくして再び対面して)先ほどの件を相談したところ、一同尤だとの事である。しかし二条殿は深き存じよりがあるので、今回は他の周旋によらず、全くの叡断をもって仰せ出されることにしたいと申し出られた。ついてはしばらく静かにしておるべきである

二人はそれならと退出したそうです。

<ヒロ>
二条斉敬の「深き存寄」とはなにでしょうか。7月11日に、近衛前関白父子・二条斉敬の連署の建白を受けて、孝明天皇は久光召命の沙汰を出しますので、そのことを指しているのかもしれません。

関連:■開国開城:「大和行幸計画と「会薩−中川宮連合」による禁門(8.18)の政変」「越前藩の挙藩上京(クーデター)計画」■テーマ別: 「大和行幸と禁門の政変」■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年」
参考:『続再夢紀事』ニ(2004.9.20)

■久光召命
【京】文久3年7月9日、前関白近衛忠煕・忠房父子は、久光に、召命の建白を行ったことを知らせ、急速上京を促しました。

概容は以下の通り
時勢はますます切迫し、最早「屹度屹度」其許の御上京がなくてはすまぬ事態と意を決し、別紙の通り建白した(こちら)。今後、再三再四飽く迄迄申立てる心組、押返し申立てる覚悟である。
いよいよ召された上は、自国防御は修理大夫(=藩主島津茂久)へ御委任し、「急速急速御上京」になるように。御上京なくては、当家も「心細」区存じる。今度は、早々御登京になるよう願いたい。

<ヒロ>
久光召命の建白自体は7月1日に行っています。その後、7月6日には急進派公卿(国事寄人)が連署して、攘夷親征の布告を建言し、この日には、真木和泉が朝廷に召されて攘夷親征について質されています。ますます危機感を募らせたものと思われます。危ないとみたのかもしれません。

関連:■テーマ別:「久光召命」 ■薩摩藩:「事件簿文久3」日誌文久3
参考:『玉里島津家史料』ニ、p357(2004.10.6)

■攘夷親征/大和行幸
【京】文久3年7月9日、朝廷は、久留米藩士真木和泉を召し出し、攘夷親征の議に関する意見を質しました。(朝廷側は左大臣一条忠香・前関白近衛忠熈・内大臣徳大寺公純、国事寄人(=急進派公卿)らが参席) 

●おさらい
6月9日に、将軍家茂が東帰のために幕兵とともに退京・下坂し(こちら)、13日に大坂を出港しました(こちら)。そして、将軍と入れ替わるように、真木和泉が入京して、攘夷親征論は一気に具体化しました(こちら)。 しかし、孝明天皇は攘夷親征を好まず、近衛忠煕前関白父子・二条斉敬右大臣らも反対で(こちら)、 7月5日には、近衛前関白ら公武合体派が、攘夷親征に関して外様藩を含む諸大名を召して衆議をこらすようにと上書しました(こちら)。翌6日には急進派公卿が連署して、将軍へ攘夷委任の不可&攘夷親征の布告を建言し(こちら)、7日には参内した因幡藩主池田慶徳に対し、急進派公卿が攘夷親征布告等を諮問しました(慶徳は回答猶予を願い出こちら)。

参考:『維新史料綱要』四(2004.9.20)

■長州藩の攘夷戦争
【京】文久3年7月9日、幕府は長州藩に外国船打払い禁止を厳命しました。

関連:■開国開城「加茂・石清水行幸と長州藩の攘夷戦争」■テーマ別:「長州藩の攘夷戦争」 ■長州藩日誌文久3
参考:『修訂防長回天史』(三下)(2004.9.20)

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