9月の「今日」 幕末日誌文久3 テーマ別文久3 事件:開国-開城 HP内検索 HPトップへ

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文久3年7月21日(1863.9.3)
【京】守護職職権:所司代は守護職の指図に従うようにとの幕命
【京】天覧馬揃:慶徳、鷹司関白に諸藩親兵の馬揃えを建議
【京】右大臣二条斉敬、会津藩公用人大野英馬と密談

■守護職の指揮権確立握工作
文久3年7月21日、幕府は新任の所司代稲葉正邦(淀藩主)に対し、京都守護については時宜により守護職の指揮を受けること等を命じました

正邦への通達の概容は以下の通り。
京都守衛については、時宜により、守護職の指図を得よ
非常時の京都守衛については、松平肥後守の指図を得るように、大坂城代ならびにその役人、その他、近国の大名、伏見奈良奉行はじめ、その他の地役人に達しを行うこと

●おさらい
会津藩は、京都守護職を奉命してから、幕府に対し、京阪の役人・諸藩への指揮権委任(『梱外の権』)を要求していましたが、あいまいなままになっていました(こちら」)。しかし、6月9日に将軍が退京して容保が在京幕府最高責任者になり(こちら)、また21日に前尾張藩主徳川慶勝(容保の異母兄)が帰国して会津藩が京都政局で孤立を深めたこともあり(こちら」)、会津藩は江戸に使者を派遣して、指揮権委任の確認を求めていました(こちら」)。この日の幕命は、会津藩の再度のリクエストに答えたもので、守護職としての懸案事項の一つが解決されたわけでした。

参考:『七年史』一p392(2001.9.3)
関連:■「覚書」「京都守護の全権委任問題」■守護職/会津」「事件簿文久3年」
■攘夷親征&天覧馬揃
【京】文久3年7月21日、因幡藩主池田慶徳は、鷹司関白に対し、会津・備前・因幡のうち二藩の天覧馬揃は「混雑」が懸念されるので、諸藩親兵の馬揃の天覧を建議しました。

馬揃を備前守か会津肥後守か下官のうち両人に命じたいとのこと、承りました。
「急速」に催せば「有志輩之人気引立」にもよいかと存じます。
「先始て之儀」であり、親兵の馬揃をご覧になればと存じます。親兵も多人数であり、一度に行うのは難しく、両度行えばどうでしょうか。親兵ならば、23、24日の内に命じられても支障ないと存じます。
「銘々(=因幡、備前、会津藩主)」の「手勢」が揃えば、一人でも二、三千人から四、五千人の藩兵になりましょうから、(三藩のうち二藩の馬揃となると)「混雑」するだけで、(藩兵の馬揃は)最初からは難しいと考えます。先ずは「急速」に親兵の馬揃をご覧いただければと存じます。
<別紙>
内々にお尋ねの件は早々に言上仕ります。
「長之一条」(=長州藩の攘夷親征の建白)、昨日も決定しかね、「参政以下所存紛々之趣にて御苦心」とのこと、恐れいります。
これより、「淡路・備前」(=淡路藩世子蜂須賀茂韶・備前藩主池田茂政)と参会し、早々に回答申し上げます。

●おさらい:天覧馬揃え
7月19日、鷹司関白邸にて在京諸侯に攘夷親征が諮問された際、慶徳は<天皇・公卿が、大兵を擁する会津や在京諸藩の武備を見て砲撃に慣れてから、親征の可否を議するべき>だと、天覧馬揃(天皇の前での軍事調練)を進言しました(こちら)。鷹司関白が馬揃の件を天皇に奏上したところ、天皇は、まず因幡・備前・会津のうち二藩による馬揃の開催を命じ、20日、関白は慶徳に書を送ってこれを内示しました(こちら)

<ヒロ>
慶徳は、最初、大兵を擁する守護職や諸藩による馬揃えを進言していました。大勢になれば「混雑」するからという理由で、親兵の天覧馬揃建議に転じたのは、ちょっと説得力がない気がします。会津・因幡・備前一藩でも二、三千人から四、五千人の藩兵というのは、実際の在京兵力と隔たりがあり・・・というより誇張が過ぎる気がしますし。しかも、親兵による馬揃になると、親兵を出していない会津は、馬揃えから除外されてしまいます。(因幡・備前を始めとする諸侯は親兵を差し出しています)。

なぜ、最初と異なる建議をすることになったのでしょうか?いくつか想像してみました

○鷹司関白や慶徳の書簡から推測すると、馬揃えの進言は、熟慮の上の正式な提議というより、その場で話が進んで出てきたようなので、現実的に検討したところ、藩兵による馬揃えには「混雑」による問題が生じると判断した(せっかくの軍事力アピールが「混雑」により不首尾に終わって恥じをかくことになるとか、大兵を御所内にいれることにより不測の事態が発生するとか・・?)。

○「会津・因幡・備前の三藩のうち二藩」という朝廷案の選択肢が狭すぎた(三藩のうち二藩というのは難しい選択だったとか、他の在京諸侯(特に親征の諮問に召喚された阿波藩、米沢藩)が入っていないのも彼らへの手前、まずかったとか・・・?)

○前20日に、諸藩親兵(肥後・宇和島・姫路・松代・桑名・津山・忍・久留米・芸州・備前・小田原・佐倉・水戸・因幡・白河・久保田・庄内・阿波・大垣・淀・中津・讃岐・松江・筑前・郡山・米沢・伊予)による御所六門の交替警備が始まっており、非常時に備えた諸藩親兵の調練、士気昂揚が重要だと考えた。

○弟の備前藩主池田茂政に親兵の馬揃を入説された。

○藩内の尊攘急進派(留守居・周旋方)に会津藩の馬揃えを反対され、親兵による馬揃建議を入説された

上のうち、一つが理由なのではなく、いくつか、あるいは全部があわさったのかもしれません。どうでしょう?

参考:『贈従一位池田慶徳公御伝記』二p411〜412(2012.12.30)
関連:■テーマ別 「大和行幸と禁門の政変」「因幡藩文久3後半」■開国開城:「大和行幸計画と「会薩−中川宮連合」による禁門(8.18)の政変」■守護職/会津」「事件簿文久3

■攘夷親征&久光召命
【京】文久3年7月21日、右大臣二条斉敬は会津藩公用人大野英馬を呼び出し、久光召命&中止の経緯、大和行幸/攘夷親征布告の裏事情などを話しました

二条右大臣から公用人の呼び出しがあり、大野英馬が二条右大臣を訪問しました。大野が藩主松平容保に復命した覚書によれば、密談の内容は以下に要約する通り。

浪士の近衛家・徳大寺家への脅迫:島津久光召命の周旋をしたことを恨みに思い、威すためである
久光召命の経緯:薩摩藩士に歎願された近衛前関白が、中川宮・徳大寺内大臣らと相談の上、鷹司関白に申し出たところ、国事掛に気に入られている真木和泉に尋ねるよういわれた。そこで、和泉に尋ねたところ、親征のための召命なら差し支えないというので、議奏へ談じ、勅命が下された。
久光召命中止の経緯:(召命の沙汰から)2日後に水戸藩士原市之進・梅沢孫太郎が訪ねてきて、久光召命を中止するよう求めたが、すでに勅命が下りて2日もたっており、勅命を軽々しく撤回すべきではないと言い聞かせた。しかし、その後、朝廷で大議論となり、関白・議奏などは、このままでは、議論が沸騰し、いつ有志500人がに暴発し、暗殺が起こるかもしれないと迫った。それで終に上京は中止となった。
大和行幸布告の裏事情:推測にすぎないが、今度の男山行幸(=大和行幸)では、御前で軍議を開いて、14、5日滞留し、大坂城に入って従わぬ者を征伐し、五畿内を朝廷領として召し上げるとの密議があると察せられる。
水戸藩への警戒:今日も水戸藩梅沢孫太郎が来邸して関東の事情を話していった、その大意は<小笠原大膳大夫(小倉藩)が長州の攘夷戦争に加担しなかったのは、朝命があっても幕命がなくては応じられなかったからだと、出府した家老が説明した。幕府の役人は大いに同意し、長州糾問を論ずる様子である>というものである。もともと攘夷は幕府に委任しているので、「幕命乃朝命」である。了見のある者は、たとえ勅命があっても簡単に打払えないのは当然だが、水戸藩士らはただただ「違勅」という点に執着しており、このようなことを聞けば、即因循と歎き、姑息と歎き、関白・三条などに申し触れる。近親の間柄ではあるが、このような深密の話は、肥後守までであるので、厚く心得てほしい。
高家の中条信礼は、胸中清涼で、後先の勘考もなく、「ヒョイヒョイと」ものをいうので、意外の害が生ずるやもしれず、極秘事項は話さないようにしたい。

<ヒロ>
容保は斉敬と良好な関係を構築しており、翌文久4年(元治元年)2月には二条家と「両敬の約」を結んでいます。「両敬の約」とは「両敬相敬し、親交姻戚に亜くなり」というものだそうです(こちら)。斉敬が会津藩士を召出して事情をきかせるというのは確かに厚意の現れではありますが、会津藩の方から積極的に情報収集をしないのがなんとも受け身すぎます。いくら政治的役割を期待されないからといって、京都守護に情報収集は必須ですよね(ここで縁ができても、その後、政変直前まで接触しようという気配がありません)

参考:『七年史』一p387-390(2004.9.23)
関連:■「開国開城」「大和行幸計画と「会薩−中川宮連合」による禁門(8.18)の政変」■テーマ別:「天誅と急進派の伸張・公武合体派の後退2」「大和行幸と禁門の政変」■守護職/会津「事件簿文久3

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