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文久3年7月22日(1863.9.4)
【京】慶喜再上京:所司代、鷹司関白に対し、後見職辞表を留める勅書への慶喜の請書を提出

■慶喜再上京
【京】文久3年7月22日、所司代稲葉正邦(淀藩主)は、後見職辞表を留める勅書への一橋慶喜の請書(上京の上、委しく叡慮を伺い、御沙汰次第、捨身の微衷を尽くす決意述べたもの)を関白鷹司輔煕に提出しました。

『徳川慶喜公伝』によれば、先に小笠原長行の率兵上京の記憶も新しい尊攘急進派は、慶喜上京を知って「激昂大方ならず、朝廷は松平余四麿(=水戸藩主名代。慶喜異母弟)に公上京の真意を探らしむなど、疑念最も深く、流言盛んに行はれて、悪評取り取りなり」だったそうです。

参考:『徳川慶喜公伝』2p248、『贈従一位池田慶徳公御伝記』ニp420
関連:■開国開城:「大和行幸計画と「会薩−中川宮連合」による禁門(8.18)の政変」■テーマ別:「将軍・後見職の再上京

●おさらい
慶喜は4月22日、「鎖港攘夷の実効」をあげることを名目として東下の勅許を得て帰府していました。最初の辞表を提出したのは、生麦事件の償金支払い後の5月14日。横浜鎖港の勅旨を貫徹する見込みがないとの理由でした(こちら)が、朝廷は6月2日、<後見職を元のように務めて将軍とともに攘夷に尽力するように>と辞任を却下しました(こちら)。慶喜は、これに対し、6月13日、重ねて即時攘夷の困難さを伝え、<期限があっては攘夷をお請けできないので辞職を願いたい。内政を整えた上で攘夷に取り組みたいとの願いが聞き届けられれば粉骨砕身したい>と、二度目の辞表を提出しました(こちら)。同月15日には将軍が着府しましたが、24日には、さらに、生麦事件賠償問題や下関外国船砲撃事件での薩長処分について幕府が自分の意見を容れず、後見職は名ばかりであるとして、攘夷期限の有無に関係なく辞任を願いでました(こちら)。しかし、朝廷は、7月4日、再び辞表を却下し、即時攘夷への粉骨を求める沙汰を出しました(こちら)。17日、慶喜は勅書への請書を認め、上京の上、委しく叡慮を伺い、御沙汰次第、捨身の微衷を尽くす決意を表しました(こちら)。 前後して、攘夷親征論の高まる京都では将軍の急遽帰府・攘夷不実行を譴責する勅諚が下され(こちら)、勅諚伝達の使者として、 7月15日、禁裏附武士小栗正寧が江戸に到着しました。善後策を協議した幕府は、慶喜に関東の状況を説明させるために上京させようと決めました。両者の思惑があい、、18日には慶喜に上京の台命が下りました(こちら)

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