9月の「今日」 幕末日誌文久3 テーマ別文久3 事件:開国〜開城 HP内検索 HPトップへ
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■攘夷親征/天覧馬揃え (1)在京有力諸侯、即時親征に反対 【京】文久3年7月19日、因幡・備前・阿波・米沢・土佐等の在京諸侯は、関白鷹司輔熙の下問に対し、いずれも即時親征に反対を唱えました。 また、この際、因幡藩主池田慶徳は、慶徳の<天皇・公卿が武道を学び、会津や在京諸藩の武備を見て砲撃に慣れてから、親征の可否を議するべき>だと言上しました。 この日、鷹司関白に呼び出された因幡藩主池田慶徳(6月27日入京)・備前藩主池田茂政(7月17日入京)・阿波藩世子蜂須賀茂韶(7月15日入京)が参殿したところ、親征の評議だというので、慶徳は、重大事であり在京諸侯全員を召出すべきだと進言しました。これにより、米沢藩主上杉斉憲、土佐藩支族山内兵之助(前藩主容堂の弟)が参内。大垣藩主戸田氏彬は所労により欠席しました。 関白は、攘夷親征を布告予定なので、その方略を評議して奏聞せよ、と告げました。因幡藩主池田慶徳は実父・斉昭譲りの鎖港攘夷派ですが、攘夷親征は尚早で見送るべきだとの意見を述べ、他の諸侯も攘夷親征を可とする者はいませんでした。 慶徳は、さらに、親征をするにはまず天皇・公卿が武道を学ぶことが必要で、大兵を擁する守護職会津藩や在京諸藩に命じて、その武備を見て砲撃に慣れてから、親征の可否を議すべきだと述べました。(20日付の慶徳宛関白書簡に「昨日・・・後談に御申之馬揃之儀」、21日付関白宛慶徳書簡に「一昨日・・・後座及言上候馬揃之儀」とあることから、評議後、話が進んで馬揃えに及んだ模様です) <ヒロ> 慶徳は、入京後間もなく、国事の諮問に答えよとの沙汰を受け取っています。7月7日には召しによって参内して親征布告等の国事の下問を受けており、14日には、その返答として親征布告見送りを建白していました(こちら)。 鷹司関白は、前18日に長州藩の攘夷親征建白書を受け取っていますので、再度慶徳の意見を聴取しようとしたのではないかと思います。なお、慶徳とともに最初に呼び出された備前藩主池田茂政・阿波藩世子蜂須賀茂韶は関白の親戚です。慶徳・茂政は従兄弟、茂韶は甥にあたりります(詳細は下記参照)。また、この日、御所に呼ばれた因幡藩・備前藩・阿波藩・土佐藩は九門外警備を担当し、米沢藩は六門警備を担当しています。 それにしても・・・親征という重大事を諮問するのに守護職は呼ばれませんでした^^;。諸侯とはいっても、幕府の役職にあるからなんでしょうか・・・。それとも尊攘急進派からは目の敵にされ、「衆人疑念ヲ懐候会津」状態のため、関白もあえて呼ばなかったのでしょうか。 ●有力在京諸侯(因幡・備前・阿波・米沢)と鷹司関白の親戚関係(水戸につながる・・・) この日、鷹司関白に最初に呼ばれた因幡・備前・阿波藩は鷹司家及び水戸家の親戚です。因幡・備前藩主は水戸9代徳川斉昭の実子。鷹司関白の生母は水斉昭の実姉清子ですから、両藩主と鷹司関白は従兄弟となります(祖父が水戸6代徳川治紀)。また、阿波藩世子蜂須賀茂韶は祖母・母が鷹司家出身で、生母は関白の妹・標子なので鷹司関白の甥になります。その一方で、母方の祖母(斉昭の姉・清子)が水戸家です。 また、後から呼ばれた米沢藩主上杉斉憲は継室(郁)が水戸の血筋を引いています(父が徳川斉昭の異母兄・讃岐藩主松平頼恕の娘で、祖父が治紀。郁と因幡・備前両藩主はいとこです)。 ちなみに二条斉敬右大臣の生母も水戸家(斉昭の異母姉・従子)で、鷹司関白同様、因幡・備前両候とは従兄弟となります。徳大寺内大臣も鷹司関白の実弟なのでやはり因幡・備前両候と従兄弟です。 ややこしいですが、やはりすべての道は水戸につながる・・・?(豆知識:幕末将軍・大名・宮家・公家の姻戚関係)←そのうち系図つくりますね。 ●おさらい:攘夷親征布告 文久3年6月9日に、将軍家茂が東帰のために幕兵とともに退京・下坂し(こちら)、13日に大坂を出港しました(こちら)。そして、将軍と入れ替わるように、真木和泉が入京して、攘夷親征論は一気に具体化しました(こちら)。尊攘急進派は障害となる容保/会津藩を京都から追い出そうとし、6月25日には容保東下の勅命が降りました(こちら)。しかし、裏面の事情を察した天皇が容保に東下を望まぬ旨の密勅を下し(こちら)、天皇の真意を知った会津藩が東下をあくまで固辞したことから(こちら)、容保の東下は沙汰やみとなりました。 公武一和による攘夷を望む孝明天皇は、攘夷親征を好まず、近衛忠煕前関白父子・二条斉敬右大臣らも親征には反対でした(こちら)。 7月5日には、近衛前関白らは、攘夷親征に関して外様藩を含む諸大名を召して衆議をこらすようにと上書しましたが(こちら) 翌6日には急進派公卿が連署して、将軍へ攘夷委任の不可&攘夷親征の布告を建言しました(こちら)。親征布告は朝議の重要課題となり、7日には、因幡藩主池田慶徳を召して攘夷親征布告等を下問し(こちら)、次いで9日には真木和泉を召し出して攘夷親征について下問しました(こちら)。 11日には、急進派公卿の後ろ盾である長州藩の家老が入京し(こちら)、親征派はさらに勢いづきました。孝明天皇や近衛前関白らは、12日、薩摩藩国父島津久光に対して召命の沙汰(表向きは親征「御用」)を出して、久光に急進派を掣肘させようとしました(こちら)。また、親征に慎重な慶徳は、異母弟の後見職一橋慶喜らに親征論が起ったことを知らせて幕府の攘夷断行を促すとともに、14日には、親征布告見送りを建白しました(こちら)。相前後して、親征反対&久光召命派公卿に「天誅」等の脅迫が続きました。久光の召命も、急進派の主導する朝議で16日に中止が決定しました(こちら)。自分の意向が通らないことに孝明天皇は激怒しましたが、翌17日、久光上京猶予の沙汰が出されました。そして、18日には、長州藩が鷹司関白に攘夷親征の建白書を差出しました(こちら)。 参考:『徳川慶喜公伝』2(2001.9.1)、『贈従一位池田慶徳御伝記』二p410-411(2012.12.23) 関連:■開国開城:「大和行幸計画と「会薩−中川宮連合」による禁門(8.18)の政変」■テーマ別:「大和行幸と禁門の政変」 「因幡藩文久3後半」 ■親征反対&久光召命派への「天誅」 (2)徳大寺内大臣・二条右大臣家臣、襲撃される 【京】文久3年7月19日夜、浪士4、5人が徳大寺内大臣の家臣滋賀右馬允を殺害しました。また、浪士7人が二条右大臣家諸大夫の北小路冶部権少輔宅を襲撃しましたが、北小路は不在であり、難を免れました。 参考:『七年史』一(2004.9.21) 関連:■テーマ別「島津久光召命」 ■開国開城:「大和行幸計画と「会薩−中川宮連合」による禁門(8.18)の政変」 |
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