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8. 京都守護の会津藩全権委任問題(VS将軍上洛・直接警衛)
文久2年12月24日(1863.2.12)、京都守護職松平容保が入京しました。 容保は、紆余曲折の結果、閏8月1日に京都守護職に任命されていました(こちら)。その後、12月まで4ヶ月以上も上京をしなかった経緯は覚書7に整理した通りです。

しかし、京都守護職という肩書きではあったものの、実は、当初、会津藩は京都守護を一任されていませんでした。会津藩に全権が委任されたのは、容保が入京して7ヶ月もたった後のことで、それも会津藩の強い要求によるものでした。もちろん、会津藩が全権を要求したのはこのときが最初ではありません。

なぜ、このようなことが起ったのでしょうか?

(1)会津藩の全権委任要求

会津藩は、守護職に任命された閏8月上旬、「斯る大任」を仰せ付けられたからには、「格別の御威権の御沙汰」がなくては勤めは果たせないと考え、赴任の条件として京都守護に関する全権委任を求めていました。具体的には、(1)「兼て御警衛の方々(=所司代以下幕府組織・京都警備担当の九大名)」はもちろん、「中国西国の諸大名」にも非常時には万事会津藩に従うように台命を出すこと、(2)御所の外については全権を委任し、「諸家の野心暴発」のときは速やかに「御征伐人数」を出すことを、京都警備担当の九大名家に予め命じること、の2点を幕府に求めており、京都町奉行に任命された永井尚志から「仰立られ候通り相成筈」との「御挨拶」を受けていました(『会津藩庁記録』一)。

(2)将軍上洛・京都直接警衛の約束

ところが、その後、全権委任の正式な沙汰は付与されませんでした。にもかかわらず、会津藩が上京の準備を進めていったのは「将軍上洛し親しく守護し給えると云を以て論ずべきもの之を待て論ぜず」だったからと、会津藩公用局員の広沢安任が記しています(「鞅掌録」『会津藩庁記録』三)。つまり、全権委任という条件と将軍上洛・京都直接守護という条件が引き換えられたわけですネ。将軍の上洛自体は6月に決まり(こちら)、翌春2月という時期も9月に布告されていました(こちら)。

容保が将軍から暇を与えられたのは12月7日(こちら)ですが、その翌日、首席老中板倉勝静は、容保に対して、将軍の明春早々の上洛と将軍による京都直接直接警衛の条件を再確認する内容を、わざわざ文書にして渡しています(「来春早々(将軍が)御上洛、御警衛遊ばされ候御積に候間、それ迄の間、彼是の儀、之有り候えども、皇国の大事を思い、堪忍び、家来共居合い方、精々心を用い、早々上京致さるべく候」)。管理人は、会津藩が、江戸を出立する前にこの条件を文書化にすることを老中に催促した結果ではと想像しています(こちら)

将軍の2月上洛と京都直接警衛を信じて、容保一行は上京の途に着き、12月24日に入京しました。ところが、今度は薩摩藩主導の将軍上洛延期運動が起り、容保は家臣を江戸に送って、改めて将軍の早期上洛を促すはめになります(こちら)。(←薩摩藩とは島津久光の守護職就任問題ですでに感情がこじれていましたが、とことん相性が悪い様子です^^;)。結局、将軍上洛延期運動は失敗し、将軍は、3月4日に入京しました。会津藩にとっては待ちに待った将軍上洛でした。

(3)将軍東帰と全権委任の督促

ところが、3月中旬に入って生麦事件償金支払に絡んで将軍東帰問題が起こりました。容保は、将軍が京都を直接警衛するという約束があったことを持ち出し、東帰に強く反対します(こちら)。このときは、将軍は孝明天皇の度重なる勅書によって東帰をとりやめました。ところが、6月3日、攘夷決行を名目とした東帰の勅を得ると(こちら)、同月9日には、会津藩の反対を押し切って下坂し、13日、海路江戸に向かいました(こちら)。このとき、老中は容保に残事務を委任しましたが、京都守護の全権を含め、その他の事項については曖昧なままでした(こちら)。さらに21日には容保の実兄であり、依頼していた前尾張藩主徳川慶勝も帰国し、以後、容保と会津藩は、尊攘過激派の牛耳る京都政局において、幕府側の唯一の有力者として孤立していくことになります(こちら)。容保が守護職として赴任する際の幕府の約束は完全に反故にされてしまったわけです。

今度こそ、本当に「格別の御威権の御沙汰」が必要な事態であり、6月22日、容保は幕府に非常時の全権付与等を要請させるため、家老田中土佐を江戸に派遣しました(こちら)。幕府は、7月21日、新任の所司代稲葉正邦(淀藩主)に対し、(1)京都守護については時宜により守護職の指揮を受けること、及び(2)非常時なので松平容保の指揮を受けるよう、大坂城代ならびにその役人、そのほか、京都の近隣諸大名、及び伏見・奈良奉行始め、その他の地役人へ達しを行うことを命じました(こちら)。会津藩の再度のリクエストに応えたものだといってよいでしょう。守護職の懸案事項の一つがようやく解決されたわけです。

関連:■守護職日誌文久2 ■私的資料「所司代・諸藩を守護職の下に置く沙汰書」
参考:『会津藩庁記録一、三』、『七年史一』、『続再夢紀事一』など

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