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文久3年1月20日(1863.3.9):
【京】将軍上洛延期蹉跌。近衛忠煕・鷹司輔熙、上洛延期発令見合わせを決定。
近衛関白、島津久光に再度上京の内意。

■将軍上洛延期運動
【京】文久3年1月20日:近衛忠煕・鷹司輔熙は将軍上洛延期発令の見合わせを決定し、薩摩藩-幕府の将軍上洛延期運動は蹉跌しました

薩摩藩士高崎猪太郎(高崎五六)が越前藩士村田巳三郎に語ったところによると、この日、近衛忠煕関白・鷹司輔熙前右大臣(16日に関白宣下の内旨)・近衛左大将が集って将軍上洛延期発令について協議しましたが、上洛予定の期限が迫る今となって延期の令を出せば、朝廷にも異議を唱え、諸藩にも疑惑を生じる者が少なくないだろうという懸念があって、結論が出ませんでした。そこで、鷹司が中川宮(当時青蓮院宮)へ赴き相談したところ、彼にも妙案がなく、結局、発令を見合わせることになったとのことでした。

このように薩摩藩の建議した上洛延期は実現しませんでしたが、関白らは、島津久光に対しては、別用があるので速やかに上京するよう求める直書を認めました

●将軍上洛延期運動:おさらい
文久2年12月、政事総裁職松平春嶽・前土佐藩主松平容同の上京要請(こちら)を受けた薩摩藩国父島津久光は、自身の上京は承諾したものの、将軍の早期上洛には不賛成だった。確固とした国是が定まらないまま上洛しては「必定例の浪人等、公卿を扇動して急激の暴論を唱え、不足の変を惹起すべければ」将軍の上洛を延期し、春嶽・容堂・自分などで、先ず京都の形勢を挽回すべきだと考えたからだ。久光は、将軍上洛延期を工作することにし、大久保と吉井に、公武合体派近衛忠煕関白・中川宮(当時青蓮院宮)にあてた建白書(こちら)をもたせ、まず、朝廷工作のために京都に向わせた。

大久保・吉井の両名は12月9日に鹿児島を出立し、22日に京都に着いて関白に久光の建白書を差し出し、その内意を告げると関白はこれを嘉納した(こちら)。24日には関白・議奏の中山忠能・正親町三条実愛の三人で中川宮(当時青蓮院宮)邸に集って内談の上、即日奏聞すると、すぐに勅許(天皇の許可)が下りった(こちら)

25日、両名は、今度は幕府に周旋するため、春嶽宛関白の密書を携えて、江戸に向かった。途中、春嶽が7日に江戸を発して上京するとの情報があり、吉井は途中で大久保に別れて、道を急ぎ、文久3年1月2日、江戸に到着した。春嶽が吉井に会うと、関白の密書を差し出し、吉井は仔細は大久保が到着の上で申上げるからと、大略だけを述べて退邸した。関白からの書状には<将軍上洛については天皇のお考えがあり、大久保に内々に言い含めたので、お聞きになり、腹蔵のないお答えを承りたい>とあった。4日、吉井は大久保とともに、春嶽・山内容堂に謁し、久光の将軍上洛延期案に同意を得た(こちら)

翌5日、春嶽は幕議において、将軍上洛延期を内々に建議して、老中水野忠精と板倉勝静の同意をとりつけた。次いで6日、大久保・吉井と内談し、将軍上洛延期の朝命を周旋することを決した。使者には越前藩重臣中根雪江と大久保が発つことになったた(こちら)。8日、容堂が春嶽を訪ね、将軍の2月上洛は布告したことでもあり、一時の延期ならばともかく無期限に延期というのは適切ではないと意見した。そこで春嶽が大久保を呼び出して意見を聞いたところ、大久保は<将軍上洛を3月中旬と内決してはどうか。そのように内決の上は、京都においても、将軍の上洛は3月中旬まで延期するので諸侯の上京には及ばないとの朝命が下るよう周旋し、それ以前に入京した諸侯があれば早々に帰国して専ら富国強兵をはかるべきとの朝命を下すことも困難ではないだろう>(参考:久光の建白)と述べた。そして、そうやって時日を経るうちに、島津久光が着京し、国是一定の朝議を促すことができるだろうと付け加えた。容堂・春嶽は異議なく、大久保の意見を採用することにした。

大久保・中根は9日に江戸を発ち、15日に入京した。翌16日、中根は早速、先発上京していた後見職一橋慶喜に謁し、将軍上洛延期の動きを報告したが、慶喜は情勢は「以ての外険悪」だと語り、延期による人心の「折合」への悪影響を指摘した(こちら)。また、大久保は近衛忠熙・鷹司輔熙・中川宮を訪ね、近衛・鷹司の同意を得たが、中川宮には、所労の上、国事御用掛を辞退中だからとして面会を断られ、取次ぎを通じての言上しかできなかった。そこで、大久保は、勅使として東下していた三条実美が帰京以来「殊の他暴激にて頻りに無謀の攘夷を主張せられ殆ど当るべからざる勢」で、公武合体派の近衛も中川宮も最近参内をとりやめており、その他正親町三条実愛も参内を辞退している状況だと知った。さらに、鷹司に関白宣下の内旨が下っており、近々に近衛は関白を辞すことが決まっていた。17日、中根、大久保は本多弥右衛門・藤井良節と相談した結果、情勢の厳しさに鑑み、近衛忠熙・鷹司輔煕だけに内談し、勅許を得た上で一件を議奏に下して詮議させ、委細は大久保に諮問させるよう周旋することに決定した(こちら)

関連:■開国開城:「幕府の公武合体派連合(幕薩連合)策」 「後見職・総裁職入京-公武合体策挫折と攘夷期限■テーマ別文久2:「将軍上洛下準備:京都武力制圧VS幕薩連合の公武合体派会議薩摩藩の将軍上洛延期運動」■テーマ別文久3「薩摩藩の将軍上洛延期運動2」 」■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年」
<参考>『続再夢紀事』一(2004.3.9)

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