7月の「今日」  幕末日誌文久2 テーマ別日誌 事件:開国:開城 HP内検索  HPトップ

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文久2年7月2日(1862.7.28)
【江】越前藩、松平春嶽の登城再開を決定/
【江】幕府、島津久光の浪人鎮撫を称して刀を下賜/
【京】長州藩主毛利敬親、入京

■幕政改革(春嶽の登城スト)
【江】文久2年7月2日、越前藩は評議の上、春嶽の登城再開を決定しました。

<ヒロ>
前日、幕府は春嶽の総裁職登用を、本人の承諾を得ぬまま勅使大原重徳に回答していました。この件について、老中は、春嶽登城の上で承諾を得るつもりだとの意向を示していました。将軍からも登城の催促がありました(こちら)。もともと越前藩では、6月25日に「幕私を去る」ための登城再開を決めており(こちら)、総裁職就任を承諾するかどうかはともかく、そろそろ登城せねば話が進まないと思ったのではないでしょうか。

参考>『大久保利通日記』一・『再夢紀事・丁卯日記』(2006.1.8)

■幕府と薩摩藩
【江】文久2年7月2日、老中は、島津藩主名代島津淡路守を呼び出し、島津久光が京都において浪人鎮撫に尽力したことを称して刀を下賜することを伝えました。

関連■「開国開城」:「文2:薩摩の国政進出-島津久光の率兵上京と寺田屋事件
参考>『大久保利通日記』一・『再夢紀事・丁卯日記』(2006.1.8)

■長州藩
【京】文久2年7月2日、長州藩主毛利敬親が入京しました。

<おさらいbyヒロ>
先に長州藩は幕府の許可を得て世子定広を西上させていました(こちら)。また、長州藩には勅使大原重徳東下の際には薩摩藩と協力して尽力するようにとの朝命も下っていました。しかし、長井雅楽の謗詞事件が起り、弁明の必要を感じた敬親は、幕府から上京の許可を得て、6月6日に江戸を発っていました(こちら)

敬親の出立は実に勅使大原重徳の江戸到着の前日でした。しかも、一行は中山道を西上しました。まるで東海道を大原と東下してくる薩摩藩国父島津久光を避けるような出府でした。(『維新史』では敬親の行動を「久光に代って、京都に於いて画策する所あらんとしたのであった」としています)。敬親一行は勅使一行と川崎で行きかい、敬親は周布を挨拶に向わせました。周布は江戸出立を遅らせ、来島又兵衛らとともに薩摩藩の大久保利通・伊地知貞馨(堀次郎)らと会って両藩の融和を図りますが失敗に終わっています(「薩長の「鴻門の会」)

さて、中仙道を西上中の敬親は、6月18日、京都藩邸より呼び寄せた浦靱負より京都の情勢を聴取しました。同月20日には、在京中の世子定広の命を受けて出迎えに赴いた桂小五郎が合流し、京阪の情勢を報告しました。長州藩が藩論としていた公武合体・航海遠略策は時宜にあわなくなったとの説明をしたわけです。(といっても、公武合体・航海遠略の批判の中心にはほかでもない藩論の一転を画策する長州藩の尊攘激派がいたのですが^^;)。同夜から、浦・益田弾正・林主税・兼重謙蔵・山田宇右衛門に桂が加わって3日間に渡って会し、ついに従来の路線を破棄することで意見がまとまりました。これを受け、益田・桂・山田は藩主一行に先立って出発し、28日に入京していました。

在京激派には、島津久光とともに勅使を輔佐するようにとの勅命を受けながら、勅使を避けて上京した敬親に疑念を抱く激派もおり、いわば、逆風の中での入京でした。このため、敬親は病と称してすぐには参内せず、まず根回しをすることにします・・・。

参考>『修訂防長回天史』・『徳川慶喜公伝』2・『維新史』三・『木戸孝允』(2002.9.20, 2006.1.8)

関連■「開国開城」「文2:勅使&島津久光東下と文久2年の幕政改革」文1:長州の国政進出:航海遠略策」 「文2:長州藩論一転・破約攘夷へ」■テーマ別:「一橋慶喜・松平春嶽の登用問題と勅使大原重徳東下」■薩摩藩日誌文久2 ■越前藩日誌文久2 ■長州藩日誌文久2 ■余話「薩長の「鴻門の会

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