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文久3年8月13日(1863年9月25日)(2)

【京】薩会ー中川宮連合の発足

■禁門の政変(8.18の政変、文久の政変)へ(後5日)

◆8/13(前)から続きます

(1)薩・会-中川宮連合の成立
【京】文久3年8月13日、中川宮と気脈を通じる薩摩藩士高崎左太郎が、三本木の会津藩邸を突然訪ね、公用局秋月悌次郎、広沢富次郎(安任)、大野英馬、柴秀治らに、政変による大和行幸/親征阻止をもちかけました。

秋月から話をきいた会津藩主松平容保、さらに中川宮の決断により、薩・会-中川宮連合が成立しました。協力を要請された近衛忠煕前関白は、成功を危ぶみ、熟考を求めましたが、来る16日に中川宮が参内して天皇に直接(行幸中止・急進派処分を)具申し、内勅を得次第、会津・薩摩がすぐに呼応する手はずとなりました。


薩・会-中川宮連合成立事情を垣間見れる手元の史料はいろいろあるのですが、時系列や内容に微妙な祖語があり、いったいどうだったのか、推測するのが悩ましいところです。とりあえず、だいたいこんなのではなかったかと思う動きを下表に整理してみました。

No 薩会-中川宮連合成立までの主な動き 参考史料番号
@ 8月10日頃〜。在京薩摩藩の奈良原幸五郎(繁)、高崎左太郎(正風)、上田郡六、井上(石見)弥八郎等は、「実々神人怒るべきの時節到来の機会」とみて「去る十日頃より頻りに諸藩の模様相伺い候処、会藩以ての外奮発致し居り候事情俄に探り得」た。 A
A 8月13日。西国鎮撫をあくまで固辞したい中川宮から相談を受けた高崎(左)は、対抗策として、天皇への直奏による急進派公卿処分をもちかけた。中川宮は承諾した。但し、これを成功させるには、在京薩摩藩だけでは兵力が少なく、(大兵を擁する)会津と協力せねばならないと、高崎はすぐに会津藩へ向かった。
B 同日。高崎(左)は、三本木の会津藩邸を訪ね、公用局秋月悌次郎、広沢富次郎(安任)、大野英馬、柴秀治らに、中川宮の協力の下、連合して政変を起し、天皇の好まぬ大和行幸/親征を阻止しようともちかけた。在京兵力は乏しいが、会津がのらねば自分たちだけでやるとの決意を示した。 A-H
C 同日。秋月らは高崎と会うのは初めてだったが、もとより願うところと同意。藩主容保の意向を確認するため、秋月が黒谷本陣に急いだ。 F-H
D 同日、容保は、基本的に同意し、中川宮が決断すれば如何様にも尽力しようと述べた。 A
(EFG)
E 同日中?容保は、交替のため帰国途上にある藩兵を召還し、各兵営に内命して、外出を停めた。(会津藩では8月8日に交代の藩兵が会津から到着しており、入れ替わりに同11日より藩兵の一団が京都を発って会津に向かっていた。会津の在京兵力は、帰京兵をあわせると2陣8隊になったという) H
F 同日。高崎・秋月が、中川宮に参殿。宮は「御決断相成」ったが、宮中で祭事があり、法体の自分は参内できないので、近衛前関白に相談するよう命じた(前関白近衛忠煕にも参内・協力を依頼するよう命じたともいう)
A
G 同日。近衛前関白は、とても成就するとは思えないと同意せず、書面での中川宮召命の奏聞も拒んだ。 A
B
H 同夜。近衛前関白父子は、高崎退出後、高崎に書を送り、改めて熟考を諭した。その中で、近衛前関白は、中川宮にも存意(=熟考を求める)を申し入れると述べた。 A,B
I 同夜〜15日?高崎(左)は、近衛前関白の件を中川宮・会津に知らせた。その結果、宮中神事終了後の16日に、宮が西国鎮撫使辞退を口実に参内して、急進派処分を直奏し、内勅を得て行動を起こすことが決った。薩摩藩からは高崎左太郎、井上弥八郎、奈良原幸五郎(繁)、上田郡六、会津藩からは秋月悌次郎、広沢安任、大野英馬等が、他の者の視聴を勉めて避け、夜間に会って計画を詰めていった。 C
F
G
H
D
(A).「京都政変ニ付奈良原幸五郎覚書」(『玉里島津家史料』ニ)、(B)8月13日付高崎左太郎宛近衛忠煕書簡・同人宛近衛忠房書簡.(『忠義公史料』ニ)、(C)高崎左太郎談話『伊達宗城在京日記』(文久3年11月2日の条)、(D)中川宮談話.『続再夢紀事』一(同年11月7日条)、(E)秋月悌次郎談話.『続再夢紀事』一(同年11月16日条)、(F)広沢安任の手記(『会津藩庁記録』三)、(G)、『京都守護職始末』、(H)『七年史』一

<ヒロ>
高崎左太郎、大活躍です。

A: 同年8月中(推定)に作成された奈良原幸五郎覚書(意訳by管理人。以下同様)全文意訳こちら
主上が、大和国神武陵へ行幸等を仰せ出される(8/13)。そのほか、「暴論之三条」(=三条実美)は、「第一逆威逞」しく、上は主上に迫り、下は万民を驚かせ、「種々様々偽勅拵」え、此節に至っては、さらに「跋扈」が「甚敷」、この結果、浪人共は殺害・放火を心のままに行う。その上、今回の行幸について、御家・加州・細川・久留米・土佐・長州に対し、御高割で十万金の献金を来る二十七日までに上納せよとの朝命が下る(但し、8/15)。かつ、中川宮様へ西国鎮撫将軍の勅命が下り(8/9)、急々に下向される様、昼夜分けず、伝奏衆より御催促がある。その上、牧和泉(=真木和泉)・桂小五郎等も毎度参殿して、甚だ不届きな主張をし、宮様(=中川宮)の諸大夫・武田相模守へ浮田何某と申す者を遣し、「不似合」な振舞をするなど、あれといい、これといい「実々神人怒るべきの時節到来の機会と見及び候間」、奈良原幸五郎(繁)、高崎左太郎(正風)、上田郡六、井上(石見)弥八郎らで談じて、「去る十日頃より頻りに諸藩の模様相伺い候処、会藩以ての外奮発致し居り候事情俄に探り得候間」、去る十五日(ママ)、同藩(三本木屋敷で)秋月悌二郎外三人へ高崎より申談じた。異論無く承諾し、殊の外喜んで、早速(秋月が黒谷の)肥後守(=松平容保)様へ申し上げたところ、「宮様(=中川宮)ニテ被為思召候はヽ、如何様共御尽力可被成トノ事」だった。早速左太郎が宮様へ参殿して、細々切迫の事情申し上げ、さらに策略の次第も献言仕ったところ、「則、宮ニハ御決断相成、何レ一人ニテハ万事都合モ如何敷候間、前関白様(=近衛忠煕)ヘモ御参内有之有候可申上トノ御沙汰」をされた。直に同人(=左太郎)が桜木御殿(=近衛別邸)へ参り、右の段を歎願したが、「兎(と)テモ此策ハ成就無覚束無、殊ニ一大事之儀也」と同意されず、あまつさえ、左大将様は書状で同意されぬ旨をお遣わしになり、「頓ト無頼片事機」になった。そうしたところ、宮様が「断然」と「御英断」なされた。
(出所:京都政変ニ付奈良原幸五郎覚書『玉里島津家史料』ニp426より作成。、()内、下線by管理人)

B. 同年8月13日夜、近衛忠煕・忠房父子が薩摩藩に熟慮を促す書状
「極密早々申入候、過刻ハ来謁、其砌承候一件(=政変計画のこと)、段々熟考候処、禁中(=朝廷)之都合イカニモ無覚束、何分近日事ニ(孝明天皇が)御当惑之折柄、万一(自分らが)窮迫之事状即今(天皇に)及言上候テハ、(天皇は)御即決ト申次第ニモ可被遊兼、左候テ御不納得モ央相発ス候テハ、惣テノ儀、内外手連(手遅れ?)ト相成可申、左候ハヽ実ニ功ハ聊(いささか)モ不相立候ハヽ、大惑乱之次第ニ可相成候得ハ、忠志本意不相立候上、却テ奉悩宸襟候ニ陥リ候テハ、実ニ重大之大功モ水泡ト相成、忿怒逼迫之存念ハ至極尤モ之事ニ候ヘ共、今一ツ熟案有之候様致度、就テハ宮(=中川宮)ヘモ(自分の)存意申入置き候ハテハ、何分不堪苦心、右之事共早々申入候事ニ候也   八月十三日夜」
(出所:8月13日夜付高崎佐太郎殿宛(近衛忠煕)書簡『忠義公史料』ニp768)
「極密申入候、誠ニ昨今之形成不容易苦心之事候テ、今日其許儀別荘(=近衛忠煕)へ出殿ニテ、極秘言上之条、実ニ尤ニハ存候得共、何分即今窮迫ニ相発シ候テハ、惣テ之儀内外手連(手遅れ?)と相成、実ニ以て之外之次第ニ相成行、功ハ聊(いささか)モ不相立候テ、大惑乱之次第ト相成、忠志之本意不相立、却テ奉悩宸襟、実ニ必至不容易場候ニ陥リ候テハ、重大之大功モ水泡ト可相成、何共々々難堪苦心候、併(しかし)斯迄之忠志感佩不過之候得共、実ニ前文次第厚組取、今一応熟案深々有之度、前殿下(=近衛忠煕)ニモ深御心配ニテ、中川宮ヘモ被仰入候事ニ候、何分叡慮之処イカニモ心配仕候間、篤ト篤ト熟案有之度、呉々卒爾ニ事発シ候テハ、実ニ実ニ叡慮之処深々心配々々之至ニ候、呉々熟案有之度、苦心之余リ此方ヨリモ早々申入候事ニ候也   八月十三日夜」
「呉々本文之次第厚組取、熟案有之度候事
追々不容易形成国家一大事之御場合、不堪苦心可尽丹精了簡武ニ候、其許為国家深厚申合セ、同藩一同必死尽力呉々油断無大功ヲ願候様、深々依頼ニ存候事」
(出所:8月13日夜付高崎佐太郎殿宛(近衛忠房)書簡『忠義公史料』ニp768)

C. 同年11月、伊達宗城が高崎左太郎から聞き取った事情 
(左太郎は)会津へ参り、何某【朱書・秋月亭次郎】へ「段々之次第」を「密話」したが、彼方は「甚以不可解事」と密かに話し合っているので、不安に思っていたところ、(秋月は)御所向のことは「望洋・不分明」なので、只今まで打ち過ぎてきたが、右のごとくであれば「燃眉之大變」であり、委曲主人へ申し聞かせる、と申した。佐太郎は、そのように「緩々」いたす場合ではないと気色ばんだが、(秋月は)聊かも遅々といたすのではない、「君臣之手数故」、主人に申し聞かせるとは御答えしたが、(自分たちが薩摩藩に)不同意というのでは決してなく、(容保も)早々に「御施」をされるだろうとのこと。何か手筈を相談する由。宮を訪ね、(会津が賛同したことを)言上したところ、(宮中で神事の)御祭中なので、元服前の姿(の自分)では参内に支障があるゆえ、近衛様へ(参内・直奏依頼を)申し上げるようにとの御沙汰であった。即時に(近衛家に)参殿し、密奏したところ、「尤之儀」だが「危き軽挙故先ツ見合」せるようにと、「御困り之御様子」で、色々論争したが、御納得にならなかった。御参内になられぬのなら、書面にて宮を召されるよう御奏聞願いたいと申し上げたが、それも御承知にならなかった。そこで、宮に申し上げ、会津にも知らせ、宮の御参内・御直奏となった。(*意訳全文は11/2
(出所:『伊達宗城在京日記』p209-214(文久3年11月2日条)より作成。()内、下線by管理人)

D. 同年11月、中川宮松平容保同席の下、松平春嶽に語った事情
最初、三条始め「激徒等」は御親征として大和国へ行幸を主張し、既に八月二十七日の御出発が内決していたが、実は、三条は、先発として十八日に京都を出発し、また中山(忠光)は大和にて予め挙兵して五条の陣屋を攻め、代官鈴木源内を殺戮して三条を迎え、それより勢いに乗じ、畿内五国を取って御料地となし、そこへ行幸されれば、さらに鳳輦を長州に奉ずるという手筈であった。さて、その頃、此方には、西国鎮撫を名目に、実は豊前小倉を征討せよとの内命があった。もし、内命を請けねば当邸に放火するとの脅しがあり、武田相模守(=中川家諸大夫)は、いよいよそうなれば、此方を背負って難を避けようなど密かに計画いたしていた程である。「激徒等の粗暴愈増長して何分捨置かたかりし故」、会藩へ申し談じ、予め策を定めて・・・。(*意訳全文は11/7
(出所:『続再夢紀事』ニp224-229(文久3年11月7日条)より作成。()内、下線by管理人)

E. 同年11月、越前藩士中根雪江が秋月悌次郎から聴き取った事情
浮浪らの暴行は当夏以来いよいよ増長し、己の意見に適わぬ者があればみだりにこれを殺害し、あるいはその行為を誣して種々の暴言を書きたて諸方に貼り付けるなど、その悪行が極まり、心ある輩は大いにこれを憂い、もはや捨て置くわけにはいかぬとの議もあった。我が藩においては、「神人共に怒るの時あるべし」とその時機を考えていたところ、八月になって薩摩藩の高崎猪太郎が来て、「時機既に至れり。此上猶予すべからず」と申した。さらに協議に及び、近衛殿・二条殿へ参上して、「浮浪」の罪は既に極まったと速やかな処置を求めたが、御両所とも大事なので容易には処置できないと仰る。そこで中川宮に参上して言上したところ、宮は承諾されて、即内奏されたが、やはり即日断行には至らなかった。(*意訳全文は11/16
(出所:『続再夢紀事』ニp233-235(文久3年11月16日条)より作成。()内、下線by管理人)
注1 秋月談話では、中川宮が即内奏(時間的に14日か)、つまり16日の参内とあわせてに二度参内したとされるが、裏付け史料がみあたらなかった(16日の参内は、長谷日記『孝明天皇紀』から裏付けられる)。

F 広沢安任の手記「鞅掌録」(作成時期不詳)
時に、薩州人高崎左太郎が突然として我(=広沢)等の旅寓にやって来て、「親王(=中川宮)の大に憤発せられ、当路の姦臣を除き、真の叡慮を遵奉せんと決心せらるるが故に、同意なるに於ては力を尽すべし、然らず共薩一藩に於て之を助んと欲す、尊藩の職に任せらるるが故に敢て告ざるを得ず」と言った。大野英馬、松坂三内、柴秀次、秋月悌次郎及び(広沢)安任等、皆で「近頃の所謂(いわゆる)叡慮なる者甚だ疑うべし真の叡慮を遵奉するに於ては固より願う處」と言った。我公(=容保)に言上すると、「公には機会の来らざるを待玉えり」。そこで、安任は悌次郎と共に(中川宮邸へ)行き、武田相模守(=中川宮家諸大夫)を通じて親王に上奏した。親王は大いに悦び、一身を砕くことも厭わず真の叡慮を遵奉しようと言われるた。天皇家に神事があり、親王は未だ法体で天前に出ることができないので、十六日の神事終了後に言上しようと言われた。これより前に、(会津藩には)左太郎を知る者はおらず、(左太郎は)この日初めて悌次郎を訪ねてきた。大事を謀るその決心は称すべきである。
(出所:『会津藩庁記録』三より作成。()内、下線、段落分けby管理人)

G.『京都守護職始末』
「是月八月十三日薩摩藩士高崎佐太郎今の正風我藩秋月胤永等の寓居を訪ひ、謂て云く、近来叡旨として発表せられたるもの多くは儀勅にして、奸臣等が所為より出でたるは兄等が知る所の如し、聖上之を知り賜ひ、度々中川宮に謀り賜へ共兵力を有する武臣の清側の任に当るものなきを嘆き賜ふと聞く、我輩之を聞いて袖手傍観する能はず、思ふに此任に当る会津と薩摩の二藩あるのみ、希くは共に当路の奸臣を除き、叡慮を安んぜんと、意気昂然たり、胤永等素より其意ありと雖も、私に協力を諾すべくもあらず、因りて直ちに馳せて黒谷に至り、是を我公に啓す、公素より其意あるを以て之を許容し、先づ胤永をして左太郎と共に中川宮に候して、事の由を白す、宮、大に悦び、身を挺ちて宸襟を安んじ奉らんと誓ひ賜ふ、会ま聖上神事を親らしたまふより、宮未だ法体なるを以て宸儀に尺し賜う事能はず、十六日神事終るを待ち、直ちに参内事の由を奏し、勅を得て事に従ふの結構なり、然れ共此大事を決行せんには、主上の御親任ある所の近衛前殿下御父子並に二條右府の賛助を得ざるべからず、薩藩士は近衛御父子に説くの負担を約し、我藩士は二條邸に遣す、重英公に謁見して具に事情を陳述し、非常手段によりて革新を計るにあらざれば、国事遂に為すべからざるに至るべしと、至情面に顕れて縷々数千言を陳ぶ、公稍々覚るの色あれども、会薩の兵力長州並に過激の浪士等を墜伏し得べきやを疑ひ、暫く賛同せられず、蓋しなる事をし出して、不測の禍乱を醸さん事を恐れられしもの々の如し、重英又往古皇極帝の御世に、御先祖鎌足公が中大兄皇子を助け参らせて、賊臣蘇我入鹿を誅し賜ひし事を思召さば、卿の場合躊躇し賜ふべきにあらずと、色を正して申しければ、斉敬公膝をはたと拍き、汝が云ふ所如何にも最もなり、其に力を尽すべしと云はれけり、又前殿下御父子には薩藩士等の説を入れられ、是れ又賛同せられけり(注1)」
(出所:『京都守護職始末』p170-171より作成。()内、下線、段落分けby管理人)
注1 13日に近衛前関白父子・二条右大臣が賛同したとするのは『京都守護職始末』のみ。13日、高崎左太郎が近衛前関白父子に説得を試みたが、この日は断られたことは、13日夜付の近衛前関白父子書簡から裏付けられる。(つまり、近衛前関白には二度協力を要請している)。二条右大臣については、13日に説得にいったとするのは『京都守護職始末』及び秋月談話(『続再夢紀事』)で、二条右大臣が承諾したとあるのは『京都守護職始末』のみ。会津藩が13日に二条右大臣に説得にいった可能性は否定しきれないが、管理人は、ニ条右大臣が懇親の因幡藩主に、俄かに直接お会いしたい事情ができた、と急報したのが17日夜であることから、その承諾日(13日説(前掲の『京都守護職始末』、15日説(『七年史』、17日説(奈良原覚書)あり)とともに、17日だと判断。

H.『七年史』
薩州藩高崎左太郎正風が、会津藩公用局員を三本木に訪れて、会津藩公用方秋月悌次郎、広沢富次郎(安任)、大野英馬、柴秀治等にこう説いた。<大和行幸の事は、長州人及び真木和泉等が、密かに三條中納言等と結託して、御親征行幸の途上より、俄かに公卿諸侯に詔を出して関東に下し、天下に号令せんとの陰謀であり、堂上を脅迫し、国事掛の過激輩が、叡旨を矯めた偽勅である。もし御発輦あれば、二度と取り返しがつかぬだろう。これこそ、天下の安危が決するところであり、志士が傍観すべき時ではない。想うに非常手段でなくては、行幸を止め、叡慮を安んじ奉る策はあるまい。我らは既に志を決した。ただ、「在京の兵力に乏しきを恨むのみ。貴藩は職守護にありて、兵も多し、故に来りて此大業を共にせられん事を望む、貴藩若し応ぜられずば、幣藩これに当らんのみ」>と、「語気激昂」して、薩人の本色を顕した。悌次郎等がその方略を尋ねたところ、左太郎は<中川宮は御聡明であり、機微を察して、既に鎮西大使を御辞退された。我等の精神を具申できる方である、その他、今日の有様を苦慮される公卿もおられる。どうして事の成らざるを憂えることがあろう>と答えた。(会津側は)皆、「善し」とうなずいた。そこで悌次郎が黒谷(=会津本陣)に馳せて、左太郎の言を肥後守に告げると、肥後守は、「往時に鑑みて、其言の虚ならざるを信じ、断じて叡慮を安じ奉らんと決心ありて」、先ず交代の途上に在る藩兵を召還し、各兵営に内命して、外出を停めらた。こうして高崎・秋月の両人は、共に中川宮に参り、諸大夫武田相模守を通して、宮に謁し、激家等の陰謀を陳述して、宮の「英略」を請願した。宮は御承諾になり、<十四日(注1)は主上の御神事が終わる日であるので、鎮西大使の内命辞退を口実として、(15日の)暁更に参内して、(急進派処分の)内勅を奉じ、武田相模守に命じて、勅旨を伝達しよう>と仰せになった。高崎等は拝謝して退出した。薩州藩からは高崎左太郎、井上弥八郎、奈良原幸五郎、上田郡六、会津藩からは秋月悌次郎、広沢富二郎、大野英馬等が、夜間に会って話し合い、他の者の視聴を勉めて避けた。
(出所:『七年史』一p420-421(文久3年8月13日条)より作成。()内、下線、段落分けby管理人)
注1 中川宮の直奏・参内日を15日とするのは『七年史』のみ。


関連:■「開国開城」「大和行幸計画と「会薩−中川宮連合」による禁門(8.18)の政変」■テーマ別文久3年:「越前藩の挙藩上京(政変)計画」「島津久光召命」「大和行幸と禁門の政変」■守護職日誌文久3 ■越前藩日誌文久3  ■薩摩藩日誌文久3
参考:『会津藩庁記録』三、『七年史』一、『京都守護職始末』、『続再夢紀事』一、『伊達宗城在京日記』、『忠義公史料』ニ・三、『玉里島津家史料』ニ(2001.9.25、2004.10.6)
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