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文久3年3月11日(1863.4.28)
【京】攘夷親征:攘夷祈願の賀茂行幸
【京】将軍東帰:将軍滞京延期、後見職・総裁職どちらかの対攘夷戦争防衛のための東帰の沙汰

■攘夷親征(賀茂行幸)
【京】文久3年3月11日、孝明天皇は攘夷祈願のため、将軍はじめ諸大名を従え、賀茂上下神社に行幸して攘夷を祈願しました。上賀茂神社下鴨神社

天皇在位中の行幸は寛永三年後水尾天皇が二条城に行幸して以来で、200余年ぶりのことでした。このため沿道には数万という人出があったそうです。

行幸に供奉した公家は、関白鷹司輔熙、前関白近衛忠煕、右大臣二条斉敬、内大臣徳大寺公純ら朝廷の重職のほか、急進派公卿の侍従中山忠光、左近衛権少将姉小路公知、同正親町公董なども随行しました。

武家は先陣に備前藩・対馬藩・津和野藩・久保田藩・肥後藩・米沢藩・因幡藩・仙台藩・阿波藩藩主、前宇和島藩主伊達宗城、長州藩世子毛利定広ら11人。後陣に将軍家茂、後見職一橋慶喜、水戸藩主徳川慶篤、老中水野忠精・板倉勝静、若年寄田沼玄蕃頭・稲葉兵部少輔、高家、京都町奉行らでした。総裁職松平春嶽は辞表を提出して出仕を取りやめており(こちら)、守護職松平容保は喪中で随行しませんでした。

天皇・関白・大臣は輿に乗り、そのほかは将軍・公卿・諸大名みな馬上だったそうです。

天皇は上賀茂神社(hp)で食事をする際、関白・前関白のほか、将軍家茂を召して、御膳から数種を選んで家茂に分け与え、また天酌・天盃の上、いろいろ話をしたそうです。これは近衛前関白の周旋だそうで、天皇はもともと将軍に親愛の情を懐いていたものの、よそ目を気にして思うようにふるまえなかったところ、こういう折にこそ・・・と特別な気持ちを示したのだとされています。

<ヒロ>
行幸は、天皇在位中としては約220年ぶりのことでした。また、行幸にあたって、天皇の前後を将軍と在京諸侯が警護したことは、天皇が将軍の上に立つ存在であることを、公に確認し、世上に知らしめることになりました。

関連:■「2月20日 -長州藩、攘夷祈願の賀茂両社・泉涌寺行幸を建議」■開国開城:「賀茂・石清水行幸と長州藩の攘夷戦争」■テーマ別文久3年:「攘夷期限」「攘夷親征
参考>『続再夢紀事』・『徳川慶喜公伝』・『昔夢会筆記』・『維新史』(2001.4.28、2003.5.2)

■生麦事件賠償&将軍東帰問題
【京】文久3年3月11日、朝廷は慶喜か春嶽に江戸防衛指揮のための帰府、将軍には「公武一和人心帰趨」の上での帰府(=滞京延期)を命じる沙汰を下しました。

攘夷期限に付き、兼てから大樹公滞京10日を命じていたが、(生麦事件償金支払を求めて)英国軍艦が渡来し、期限を待たずに戦争になるだろう。状況が先日と異なるため、後見職・総裁職のどちらか一人が速かに帰府し、防御万端の指揮をせよ。将軍は「公武一和人心帰趨」を処置した上で、帰府せよ。
(参考:『続再夢記事』より口語訳byヒロ)

<ヒロ>
幕府は、将軍上洛前の2月11日、攘夷期限設定を迫る朝廷に対して、将軍滞京は10日間で、さらに江戸帰還後20日以内に攘夷談判に着手すると約束し(こちら)、さらに期限は4月中旬だと奏していましたが(こちら)、とうてい実行不可能でした。そこで、慶喜は、公武一和の実現と薩摩藩国父島津久光の近々の入京に期待し、将軍滞京の延期を考えました。ちょうど、江戸において生麦事件の談判が予断を許さない状況でもあり、3月8日、鷹司関白に、京都守護を名目とする将軍滞京と水戸藩主徳川慶篤の(将軍名代としての)東帰を願い出ていました(こちら)。江戸守衛(和宮守衛)のための慶篤の東帰は、既に2月に朝命が出ていました(こちら)。ところが、この日、朝廷は、将軍滞京延期を認めたものの、慶篤ではなく、慶喜か春嶽に東帰を命じました。春嶽は、前々9日に幕府に辞職内願を提出して引篭り中でしたこちら)。

関連:■テーマ別文久3年:「生麦事件償金支払&第一次将軍東帰問題」■開国開城:「幕府の生麦償金交付と老中格小笠原長行の率兵上洛」■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年
参考>『続再夢紀事』一(2003.5.2)

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