6月の幕末京都 幕末日誌元治1 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索 HPトップ
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【江】元治元年5月20日、将軍徳川家茂が江戸に到着しました。 この年の1月15日に入京した家茂(こちら)は、4月29日、朝廷から、鎖港攘夷成功の勅諭とともに東帰を許可され(こちら)、5月2日に、参内して、帰国の挨拶をすると(こちら)、7日に下坂し、摂海巡視のために下坂した禁裏守衛総督一橋慶喜とともに、11日に軍艦鯉魚門に搭乗して摂海の砲台を巡察し、16日に大坂港を発ち、海路帰府しました。文久3年12月に江戸を発って以来、実に約半年ぶりの帰府でした。 関連:■開国開城「25:横浜鎖港問題と将軍再上洛」、「26:参豫の幕政参加・横浜鎖港・長州処分問題と参豫会議の崩壊」 ■新選組の政治的側面 【京】元治元年5月20日、新選組近藤勇は、将軍滞留中の鎖港と長州処分か新選組解散かを老中に迫りましたが、京都守衛の不十分さを理由に「暫時」は従来通りの会津藩指揮下の市中見廻りを下命され、止むをえず納得したことを、故郷の知人に報知しました。 書簡の概容は以下の通り <本文>
<ヒロ> 池田屋事件直前の近藤勇の政治思想の方向・理想とする新選組像のわかる興味深い書簡です(近藤勇の書簡はそもそも公刊されているものが少ないのです)。ただ、この書簡は、故郷の知人に向けて「未タ格別之成功」がなく、成功の上での帰府が叶わない言い訳を連ねているともいえるので、その点をわりひいて読む必要はあろうかと思います。 ●この時点の近藤勇にとって、会津藩指揮下の市中見廻は本意ではなく、攘夷(外国掃攘)の先鋒となることを望んでいる。(但し、会津藩預かりが決まった当時の近藤は、「天朝并大樹公御守護」・「賊奸誅戮」を本懐としており、守護職松平容保からも「天下奸物誅戮」の内意があったので、今後、会津藩と協力して「天誅」を加えたいとの意気込みを、故郷の知人たちに知らせていた。(こちら)) ●しかし、老中の新選組へ期待する役割は、攘夷の先鋒ではなく、あくまでも「洛陽之処御手薄」を補うための、従来通りの会津藩指揮下の市中見廻である。それを「此処暫時之間」としているのは、近藤をなだめるための方便だろう。しかし、近藤は将来に希望をつなぐことができ、「不得止事」と説得を受け入れた。 ●有力諸侯中、近藤が幕府の味方だと認めるのは、会津と肥後くらい。薩摩、越前、宇和島、土佐、水戸などは「私之趣意」で「周旋」しているとみているようだ。(会津はともかく、肥後はなぜ?) ●同時期、在京水戸藩(「尊攘激派」)も将軍滞留・鎖港断行を入説しており、近藤の主張と重なるところがある。両者とも幕閣の方針に不満をいだくが、在京水戸藩が老中を抵抗勢力だとみなすのに対し、近藤にその発想はない。(水戸「尊攘激派」の芹沢ら(在京水戸藩士山口徳之進とつながりあり)を残留浪士組から粛清してできたのが近藤の新選組なので、違ってあたりまえかもしれない) ●後に隊士を家臣扱いするようになったとも言われる近藤だが、この時期は、まだ、彼らを同志(「馬合」)とみなしているようである。 関連:■テーマ別文久2「浪士組の政治的側面」 (おまけ) ○天狗党を「浪士」と名乗る「百姓(ぶらいの者)」というくだりに違和感があります。一つは、「浪士」>「百姓」という認識がみてとれること。近藤は百姓階級出ですから、彼こそ「浪士」を名乗る「百姓」なんですよね。ついでにいえば、新選組は京阪で強引な金策をして迷惑がられたり、内部抗争で次々邪魔者を粛清したり、これって見方によっちゃ「ぶらいの者」・・・。ひとことで言って、「あんたがいうか?」(笑) (むかしばなし) ○『新選組史料集コンパクト版』(コンパクト版しか公刊されてないけど)掲載のこの書簡は、なんと、メインの本文が省略されています。『コンパクト版』には、本状の解説に省略された本文の内容が簡単に触れられているのですが、それをみて「なんで、こっちを省略??!」と思ったのものでした。その後発行された『新選組日誌』にはその省略された本文が抜粋されており、両方で完全な内容を知ることができるようになりました。 ↓以下は2000年にUPしたものです。興味のある方はどうぞ 【坂】元治元年5月20日、大坂西町奉行所与力の内山彦五郎が天神橋で暗殺されました。 「元治新聞紙」という記録によれば、浪人が槍で駕籠を刺したそうです。前年の冬から浪士が内山の門前にはりがみをしていたので、護衛を2名つけていたそうで、この夜も抜き合わせて戦ったが、かなわず逃げたのだそうです。犯人は特定されていません。 ○新選組説 西村兼文が明治になって脱稿した『新撰組(壬生浪士)始末記』では、内山は新撰組の大阪での豪商への金策の強談に憤りそ覚えていてなんとか暴挙をやめさせたいと考えていたそうです。そうしたところ、前年の夏の大阪力士殺傷事件で届け出た近藤を厳しく詮議したといいます。近藤は、沖田と永倉をまねいて<内山のような者が大阪にいては自由に活動できない。内山は灯油の密商売をしているとの噂なので、暗殺して天誅浪士の所業にさせよう>と案をさずけたそうです。内山を斬りに出動したのは沖田・原田・永倉・井上で、沖田が駕籠に剣をつきたてて重傷の内山をひきずりだして首をはねて鳩首したそうです。新撰組のしわざと知る者は誰もいなかったそうですが、大阪奉行所は萎縮してしまい、逆に近藤/新撰組は邪魔者を排除して金策強談の自由をえ、勢力をのばしていったといいます。 <ヒロ> 新選組説は他に根拠といえるレベルのものがなく、真偽不明ですが、近藤が芹沢の死後も大阪豪商に押し借りを続け、市中迷惑したという同時代記録が残っています。 また、力士事件については、近藤の書簡に写されている届け出の提出先は東町奉行所であり、内山の西町ではありません。しかし、新撰組の監察だった島田魁が明治になってまとめた備忘録では、「大阪与力の噂がよくないので調べていたところ、力士殺傷事件にまきこまれたので奉行所に届けた」としてあり、内山の暗殺と力士事件の関係が示唆されてるような気もします。 西村兼文の手記で実行犯になざしされた4人のうち1人、永倉新八の伝記『新撰組顛末記』では、時期に誤認があるものの、近藤・土方・沖田・永倉・原田ら10名で襲撃。土方が剣を突き刺して内山を引き出し、近藤が首を刎ねたとしています。明治の早い時期に、記された永倉直筆の『浪士報国記事』には事件はかかれていません。このため、当事件への新撰組関与は伝記を書いた記者の創作であろうというみかたもあります。でも、『報国記事』は元新撰組隊士が明治の早い時期に記した他の記録同様、自己/新選組の名誉回復(正当化)を目的としてかかれているようで、新撰組への弔辞的色彩がつよく、ここに書かれていないから、事件への関与がなかったとはいえないと思います。 なお、内山の子孫には土佐浪士のしわざとも伝わっているときいたことがあります。 <参考>『新選組戦場日記』(PHP研究所)、『新撰組顛末記』・『新選組史料集コンパクト版』・『新選組日誌』上収録の関連史料(新人物往来社)(2000.6.23) この後、25日までの動き(維新史料綱要五) ◆5/21【京】四国艦隊:一橋慶喜、長州藩京都留守居乃美織江に対し、不日の外国艦下関襲撃の風聞を告げる【江】蘭国総領事、幕府に対し、7月1日期限の謝罪・賠償を要求。【坂】天神橋に島津久光批判の張紙/内山彦次郎の斬奸状掲示 ◆5/22【京】横浜鎖港:幕府、水藩に鎖港断行に尽力を求める朝命を慶篤に伝達/浪士、会津藩士松田鼎を殺害・梟首 ◆5/23【水】水戸藩使者美濃部・山国、再び田丸を説諭。 ◆5/24)【京】幕府、軍艦奉行勝海舟を神奈川に派遣/【天狗・諸生】慶篤、弘道館総裁青山延光らに親書付与 |
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