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元治元年5月20日(1864年6月23日) 
【江】将軍帰府/四国艦隊:幕府、蘭国総領事に下関襲撃猶予を求める
【京】新選組近藤勇、老中に将軍滞留中の鎖港断行・長州処分決定か
新選組解散かを迫ったことを、故郷の知人に報知
【坂】大坂西町奉行所与力・内山彦五郎暗殺

【江】元治元年5月20日、将軍徳川家茂が江戸に到着しました。

この年の1月15日に入京した家茂(こちら)は、4月29日、朝廷から、鎖港攘夷成功の勅諭とともに東帰を許可され(こちら)、5月2日に、参内して、帰国の挨拶をすると(こちら)、7日に下坂し、摂海巡視のために下坂した禁裏守衛総督一橋慶喜とともに、11日に軍艦鯉魚門に搭乗して摂海の砲台を巡察し、16日に大坂港を発ち、海路帰府しました。文久3年12月に江戸を発って以来、実に約半年ぶりの帰府でした。

関連:■開国開城「25:横浜鎖港問題と将軍再上洛」、「26:参豫の幕政参加・横浜鎖港・長州処分問題と参豫会議の崩壊」

■新選組の政治的側面
【京】元治元年5月20日、新選組近藤勇は、将軍滞留中の鎖港と長州処分か新選組解散かを老中に迫りましたが、京都守衛の不十分さを理由に「暫時」は従来通りの会津藩指揮下の市中見廻りを下命され、止むをえず納得したことを、故郷の知人に報知しました

書簡の概容は以下の通り

<本文>
仰せの通り「局中」(=新選組)は自分が「採用」(=差配?)しているが、御存知の通り、「平素より不文武、短才之者」なので、「未タ格別之成功」なく、諸兄に対して赤面の限りである。
そちらでは、去年の暮れから入門者が7〜8人、今年もさらに盛んだとのこと。、自分も大変喜んでおり、未熟ながら「差急帰府」し、各々方の剣術稽古の相手をしたい。しかし、未だ東下する状況に至らず、恐縮である。
「野州浪士共相集り蜂起」(注1)と伝え聞く。こういう際「浪士抔と唱」えるものの「百姓ぶらいの者共」(注2)のようだ。先日、京都で「右徒党頭分召捕」り(注2)、一通り取り調べたが、「敢大事ニも無之哉」と存じる。しかし、小事から大災が生じることがあるやもしれない。また関東では諸物価が高騰しているようだが、これまたどちらも同様である。
西国の形勢は極めて不安定で危険であり、幕府の悪口が「紛々沸騰」している。大樹公が再度御上洛されたものの、「格別之御英断」もなく、ただ滞留されていたが、当月2日、俄かに御暇の参内をされ(こちら)、5日に退京を仰せ出された。そこで、閣老酒井雅楽頭殿に(会津藩公用方経由で)建白書を差し出し、<「翌年以来より(=昨年の間違い?)外夷鎖港期限も未だ御成功」なく、国内では「目前之長州様御裁判没生」の処置がないまま東下されれば、「亦々天心喧囂(けんごう)紛々沸騰」しよう。「大諸侯」が「反覆之色」を「顕」すときでもあり、是非とも御滞留中に内外の問題のを御処置願いたい>と頻りに申し上げたが、敢て「御答」はなく、肥後殿(=容保)に「挨拶」したので聞き取るよう指図された。

肥後守殿に参ったところ、どういう「御答」なのか、「局中江御手当等御書取」を申し付けられた。この場に及んで御手当をうんぬんするのではないと、速かにその場にて「御廻上」(=返上?)申し上げ、大目付衆に参り、方々に「前条之趣意」を申し上げて、「還御」(=将軍帰府)の件及び「万事御取置ふり」について伺ったところ、閣老衆より御話があろうと言聞かされたので、(将軍東帰の)御警衛で下坂し(=5月7日)、大坂で月藩老中の雅楽頭殿に「断論」した。もし(建白の内容が)不採用にでもなれば、「下拙見込之機会(注4)」はなく、「長々滞京」して「銘々失策等」も出てくるのも恐れ多いので、「局中離散」か個々の隊士の帰国処置をお願いした。「実二切迫」の議論をしたところ、雅楽頭は、「未タ洛陽之処御手薄ゆへ」、その間は「精勤」するよう、「此処暫時之間」は「肥後守殿指揮」を受けるよう命じられた。止むを得ぬことである。

まさに諸侯の議論は、「攘夷又ハ鎖港亦者(または)開国」、長州の件は「誅伐」か「寛大」かと、「紛々沸騰」する時分、「驕慮五大州之凌海を受」け、国内は「大奸日々●」(勢いをましている?)。「幕府衰運挽回之周旋方々」は、会津中将殿、熊本候殿など。その他は「私之趣意」で「周旋」しておるので、「国体瓦解」の兆しは明らか、「国家存亡命脈」は今にかかっている。近頃、特に「浪士之猪勇」が激しく、楠公や宋の岳飛の志を続ぎたいと考えている
<追伸1>
愚身を顧みず、「尽忠報国有志」の募集(こちら)があり(それに応じた)、ところが「馬合(=馬の合う仲間)之局中」を預かり、「州鄙客申述」(??)、頻りに心配したため、意外に多病となり、2月には肥後守殿からの勧めで温泉に行った。しかし、7〜8日で、急に肥後守殿御役替(=容保の陸軍総裁転出こちら)を知らせる飛脚が到着したため、その夜帰京した。最近は「大丈夫」なので御懸念なく。
昨年に府中宿で登楼して「妄戯」したことを時々思い出す。近頃、女性と戯れることは聊かもなく、「局中頻二男色流行」している。帰府の際、申し上げたい。
<追伸2>
(将軍)御警衛で下坂したおり、「警衛向且局中行届」の「御褒美」として銀百麻衣を下された。このことを「風聴」(=吹聴)申し上げる。また、「武術(上覧)之義」も、大樹公(=将軍)が上洛をお命じになったところ、急なご出発で延期、諸閣老がご覧になるとのお達しがあった。また後便で申し上げる。
(出所:元治1年5月20日付中島次郎兵衛宛近藤勇書簡『新選組日誌』上p169-170及び『新選組史料集コンパクト版』p135 より作成)

注1 天狗党の挙兵を指す。水戸「尊攘激派」急進派を幹部とし、ここまで、老中に攘夷断行の建白を行うとともに、自らは「攘夷之先鋒と罷成、撃刀横槊醜夷之陣営に討入り奮死」することを願っており、「攘夷先鋒之勅許」を求めて、因幡・備前藩主に周旋を依頼していた。
注2 天狗党の争乱は水戸浪士(水戸「尊攘激派」の藩士・郷士・神官ら)が中心となって起こしたものである。ただし、合流した農民がおり、金策のために乱暴をする者もいたので「百姓ぶらいの者共」も交じっていたといえる。これが事実誤認なのか、あえて彼らを「百姓ぶらいの者共」と呼んだのかは不明。
注3 「右徒党」は「野州浪士共」(=天狗党)を指すと思われるが、天狗党の首領格(水戸町奉行田丸稲之衛門や藩士藤田小四郎を含め)は、元治1年5月時点はおろか、最期まで京都に足を踏み入れることはなかった。天狗党関連の史資料をみても、この時期、幹部が京都に潜伏していたり、関係者が捕縛されたりした形跡はない(在京水戸「尊攘激派」は天狗党シンパだが、その彼らすら直接関係者と接触はしていない。また、仮に天狗党幹部が新選組の捕縛・取り調べを受けたことがあれば、大騒動になっていたはずである)。近藤が誰を捕縛し、取り調べたというののか、あるいはそもそも「右徒党頭分召捕」が実際にあったかどうかすら、不明である。
注4 5月7日の板倉への上書で主張する残留理由、「万一有変之節一廉御奉公」の機会、すなわち、万一、京阪に外国船が押し寄せてきたとき、幕府の指揮下、攘夷の先鋒となる機会を指すと思われる。文久3年3月、浪士組の大半が東帰した際に、芹沢鴨(水戸「尊攘激派」)・近藤ら同志17名で会津藩に提出した残留嘆願書では、「勅ニ基キ攘夷」をするのが「同志一統之宿願」だとしているので、初志を持ち続けているといえる(こちら)。ただし、残留決定後に近藤が故郷に送った「志大略認書」では、「願わくハ右姦悪共(を)斬戮」して「寸志御奉公」するため滞京を嘆願したと記し、嘆願が聞き届けられたからには「志以テ天朝并大樹公御守護奉リ右之賊奸誅戮」した上で東帰するという決意を記しており、近藤自身は「天誅」に重きを置いていた様子がある。(こちら

<ヒロ>
池田屋事件直前の近藤勇の政治思想の方向・理想とする新選組像のわかる興味深い書簡です(近藤勇の書簡はそもそも公刊されているものが少ないのです)。ただ、この書簡は、故郷の知人に向けて「未タ格別之成功」がなく、成功の上での帰府が叶わない言い訳を連ねているともいえるので、その点をわりひいて読む必要はあろうかと思います。

●この時点の近藤勇にとって、会津藩指揮下の市中見廻は本意ではなく、攘夷(外国掃攘)の先鋒となることを望んでいる。(但し、会津藩預かりが決まった当時の近藤は、「天朝并大樹公御守護」・「賊奸誅戮」を本懐としており、守護職松平容保からも「天下奸物誅戮」の内意があったので、今後、会津藩と協力して「天誅」を加えたいとの意気込みを、故郷の知人たちに知らせていた。(こちら))
●しかし、老中の新選組へ期待する役割は、攘夷の先鋒ではなく、あくまでも「洛陽之処御手薄」を補うための、従来通りの会津藩指揮下の市中見廻である。それを「此処暫時之間」としているのは、近藤をなだめるための方便だろう。しかし、近藤は将来に希望をつなぐことができ、「不得止事」と説得を受け入れた。
●有力諸侯中、近藤が幕府の味方だと認めるのは、会津と肥後くらい。薩摩、越前、宇和島、土佐、水戸などは「私之趣意」で「周旋」しているとみているようだ。(会津はともかく、肥後はなぜ?)
●同時期、在京水戸藩(「尊攘激派」)も将軍滞留・鎖港断行を入説しており、近藤の主張と重なるところがある。両者とも幕閣の方針に不満をいだくが、在京水戸藩が老中を抵抗勢力だとみなすのに対し、近藤にその発想はない。(水戸「尊攘激派」の芹沢ら(在京水戸藩士山口徳之進とつながりあり)を残留浪士組から粛清してできたのが近藤の新選組なので、違ってあたりまえかもしれない)
●後に隊士を家臣扱いするようになったとも言われる近藤だが、この時期は、まだ、彼らを同志(「馬合」)とみなしているようである。

関連:■テーマ別文久2「浪士組の政治的側面

(おまけ)
○天狗党を「浪士」と名乗る「百姓(ぶらいの者)」というくだりに違和感があります。一つは、「浪士」>「百姓」という認識がみてとれること。近藤は百姓階級出ですから、彼こそ「浪士」を名乗る「百姓」なんですよね。ついでにいえば、新選組は京阪で強引な金策をして迷惑がられたり、内部抗争で次々邪魔者を粛清したり、これって見方によっちゃ「ぶらいの者」・・・。ひとことで言って、「あんたがいうか?」(笑)
(むかしばなし)
○『新選組史料集コンパクト版』(コンパクト版しか公刊されてないけど)掲載のこの書簡は、なんと、メインの本文が省略されています。『コンパクト版』には、本状の解説に省略された本文の内容が簡単に触れられているのですが、それをみて「なんで、こっちを省略??!」と思ったのものでした。その後発行された『新選組日誌』にはその省略された本文が抜粋されており、両方で完全な内容を知ることができるようになりました。

↓以下は2000年にUPしたものです。興味のある方はどうぞ
【坂】元治元年5月20日、大坂西町奉行所与力の内山彦五郎が天神橋で暗殺されました。

「元治新聞紙」という記録によれば、浪人が槍で駕籠を刺したそうです。前年の冬から浪士が内山の門前にはりがみをしていたので、護衛を2名つけていたそうで、この夜も抜き合わせて戦ったが、かなわず逃げたのだそうです。犯人は特定されていません。

○新選組説
西村兼文が明治になって脱稿した『新撰組(壬生浪士)始末記』では、内山は新撰組の大阪での豪商への金策の強談に憤りそ覚えていてなんとか暴挙をやめさせたいと考えていたそうです。そうしたところ、前年の夏の大阪力士殺傷事件で届け出た近藤を厳しく詮議したといいます。近藤は、沖田と永倉をまねいて<内山のような者が大阪にいては自由に活動できない。内山は灯油の密商売をしているとの噂なので、暗殺して天誅浪士の所業にさせよう>と案をさずけたそうです。内山を斬りに出動したのは沖田・原田・永倉・井上で、沖田が駕籠に剣をつきたてて重傷の内山をひきずりだして首をはねて鳩首したそうです。新撰組のしわざと知る者は誰もいなかったそうですが、大阪奉行所は萎縮してしまい、逆に近藤/新撰組は邪魔者を排除して金策強談の自由をえ、勢力をのばしていったといいます。

<ヒロ>
新選組説は他に根拠といえるレベルのものがなく、真偽不明ですが、近藤が芹沢の死後も大阪豪商に押し借りを続け、市中迷惑したという同時代記録が残っています。

また、力士事件については、近藤の書簡に写されている届け出の提出先は東町奉行所であり、内山の西町ではありません。しかし、新撰組の監察だった島田魁が明治になってまとめた備忘録では、「大阪与力の噂がよくないので調べていたところ、力士殺傷事件にまきこまれたので奉行所に届けた」としてあり、内山の暗殺と力士事件の関係が示唆されてるような気もします。

西村兼文の手記で実行犯になざしされた4人のうち1人、永倉新八の伝記『新撰組顛末記』では、時期に誤認があるものの、近藤・土方・沖田・永倉・原田ら10名で襲撃。土方が剣を突き刺して内山を引き出し、近藤が首を刎ねたとしています。明治の早い時期に、記された永倉直筆の『浪士報国記事』には事件はかかれていません。このため、当事件への新撰組関与は伝記を書いた記者の創作であろうというみかたもあります。でも、『報国記事』は元新撰組隊士が明治の早い時期に記した他の記録同様、自己/新選組の名誉回復(正当化)を目的としてかかれているようで、新撰組への弔辞的色彩がつよく、ここに書かれていないから、事件への関与がなかったとはいえないと思います。

なお、内山の子孫には土佐浪士のしわざとも伝わっているときいたことがあります。

<参考>『新選組戦場日記』(PHP研究所)、『新撰組顛末記』・『新選組史料集コンパクト版』・『新選組日誌』上収録の関連史料(新人物往来社)(2000.6.23)

この後、25日までの動き(維新史料綱要五)
◆5/21【京】四国艦隊:一橋慶喜、長州藩京都留守居乃美織江に対し、不日の外国艦下関襲撃の風聞を告げる【江】蘭国総領事、幕府に対し、7月1日期限の謝罪・賠償を要求。【坂】天神橋に島津久光批判の張紙/内山彦次郎の斬奸状掲示 
◆5/22【京】横浜鎖港:幕府、水藩に鎖港断行に尽力を求める朝命を慶篤に伝達/浪士、会津藩士松田鼎を殺害・梟首
◆5/23【水】水戸藩使者美濃部・山国、再び田丸を説諭。
◆5/24)【京】幕府、軍艦奉行勝海舟を神奈川に派遣/【天狗・諸生】慶篤、弘道館総裁青山延光らに親書付与 

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