8月の「今日の幕末」 幕末日誌文久3) 事件:開国:開城 HP内検索  HPトップ

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文久3年7月18日(1863.8.31)
【京】長州藩、朝廷に攘夷親征の建議
【江】将軍後見職一橋慶喜に上京の台命

■攘夷親征/大和行幸計画
(1)長州藩の親征建議
【京】文久3年7月18日、長州藩は支藩岩国藩主吉川監物らを通して、関白鷹司輔熙に、攘夷親征を建議しました

●おさらい:攘夷親征問題
文久3年6月9日に、将軍家茂が東帰のために幕兵とともに退京・下坂し(こちら)、13日に大坂を出港しました(こちら)。そして、将軍と入れ替わるように、真木和泉が入京して、攘夷親征論は一気に具体化しました(こちら)。尊攘急進派は障害となる容保/会津藩を京都から追い出そうとし、6月25日には容保東下の勅命が降りました(こちら)。しかし、裏面の事情を察した天皇が容保に東下を望まぬ旨の密勅を下し(こちら)、天皇の真意を知った会津藩が東下をあくまで固辞したことから(こちら)、容保の東下は沙汰やみとなりました。

公武一和による攘夷を望む孝明天皇は、攘夷親征を好まず、近衛忠煕前関白父子・二条斉敬右大臣らも親征には反対でした(こちら)。 7月5日には、近衛前関白らは、攘夷親征に関して外様藩を含む諸大名を召して衆議をこらすようにと上書しましたが(こちら) 翌6日には急進派公卿が連署して、将軍へ攘夷委任の不可&攘夷親征の布告を建言しました(こちら)。親征布告は朝議の重要課題となり、7日には、因幡藩主池田慶徳を召して攘夷親征布告等を下問し(こちら)、次いで9日には真木和泉を召し出して攘夷親征について下問しました(こちら)。 11日には、急進派公卿の後ろ盾である長州藩の家老が藩主毛利敬親の命令で、(1)攘夷親征、(2)立太子、(3)違勅の幕吏・諸侯の討伐を奏請するために上京しました。益田らは入京すると在京の吉川監物(経幹)・清水清太郎らと会合して、藩主父子の直書を示して、協議した結果、公卿に入説して親征を請願することに決めました(こちら)。親征派はさらに勢いづきました。これに対し、孝明天皇や近衛前関白らは、12日、薩摩藩国父島津久光に対して召命の沙汰(表向きは親征「御用」)を出して、久光に急進派を掣肘させようとしました(こちら)。また、親征に慎重な慶徳は、異母弟の後見職一橋慶喜らに親征論が起ったことを知らせて幕府の攘夷断行を促すとともに、14日には、親征布告見送りを建白しました(こちら)。しかし、相前後して、親征反対&久光召命派公卿に「天誅」等の脅迫が続き、16日には、急進派の牛耳る朝議で、久光召命の中止が決定しましました(こちら)。この日、長州はいわば、攘夷親征を主唱する人々の盟主となって、親征の決断を迫ったわけでした。

関連:■開国開城:「大和行幸計画と「会薩−中川宮連合」による禁門(8.18)の政変」■テーマ別:「長州藩の攘夷戦争」 「大和行幸と禁門の政変」■長州藩日誌文久3
参考:『徳川慶喜公伝』2・『七年史』一・『日本歴史大系12 開国と幕末』(2002.8.31)

■後見職一橋慶喜の再上京
(2)慶喜上京の台命
【江】文久3年7月18日、関東の状況説明のため、将軍後見職一橋慶喜に上京の台命が下されました。

<ヒロ>
幕府と慶喜の思惑が一致しての慶喜上京決定となりました。

〇慶喜の事情
慶喜は4月22日、「鎖港攘夷の実効」をあげることを名目として東下の勅許を得て帰府していました。最初の辞表を提出したのは、生麦事件の償金支払い後の5月14日。横浜鎖港の勅旨を貫徹する見込みがないとの理由でした(こちら)が、朝廷は6月2日、<後見職を元のように務めて将軍とともに攘夷に尽力するように>と辞任を却下しました(こちら)。慶喜は、これに対し、6月13日、重ねて即時攘夷の困難さを伝え、<期限があっては攘夷をお請けできないので辞職を願いたい。内政を整えた上で攘夷に取り組みたいとの願いが聞き届けられれば粉骨砕身したい>と、二度目の辞表を提出しました(こちら)。同月15日には将軍が着府しましたが、24日には、さらに、生麦事件賠償問題や下関外国船砲撃事件での薩長処分について幕府が自分の意見を容れず、後見職は名ばかりであるとして、攘夷期限の有無に関係なく辞任を願いでていました(こちら)。しかし、朝廷は、7月4日、再び辞表を却下し、即時攘夷への粉骨を求める沙汰を出しました(こちら)。前17日、慶喜は7月4日の沙汰に対する請書を認め、上京の上、詳しく叡慮を伺い、御沙汰次第、如何ようにも捨身の微忠を尽すとの決意を朝廷に奏していました(こちら)

〇幕府の事情
前後して、攘夷親征論の高まる京都では将軍の急遽帰府・攘夷不実行を譴責する勅諚が下され(こちら)、勅諚伝達の使者として、 7月15日、禁裏附武士小栗正寧が江戸に到着しました。善後策を協議した幕府は、慶喜に関東の状況を説明させるために上京させようと決めました。

『徳川慶喜公伝』では、「斯く上京を思ひ立たれし時、下総守(小栗)の著府によりて、幕府は京都の消息(攘夷親征論が盛んなことなど)を詳にしたれば、異議なく公の上京に同意したるものゝの如し」と、慶喜が自身の上京を提案したように記されています。

関連:■テーマ別文久3「慶喜の後見職辞任問題」「慶喜の再上京
参考:『徳川慶喜公伝』2(2004.10.1)

【京】因・備藩主、二条右大臣邸訪問(『御伝記』二p410)

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