9月の「今日」 幕末日誌文久3 テーマ別文久3 事件:開国-開城 HP内検索 HPトップへ

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文久3年8月8日(1863年9月20日)
【京】西国鎮撫使:中川宮に、西国鎮撫使の内命。
【京】薩摩藩士高崎左太郎(正風)、国許に書を送り、会津・因幡・備前・米沢・阿波の
五藩の天覧馬揃時の小銃発砲に公卿が恐怖したこと、急進派の猛烈な親征採納運動等を報じる

☆真木和泉のお天気日記 晴
■攘夷親征か親王西国鎮撫かvs-禁門の政変まで後10日・・・
【京】文久3年8月8日、関白鷹司輔煕は、因幡・備前・米沢・阿波の四候を呼び出し、孝明天皇が親征を断固採納せず、代案として中川宮に西国鎮撫を命じたことを達しました。(但し、因幡・備前両候は所労のため参殿せず)

参考:『贈従一位池田慶徳公御伝記』二(2013.1.1,1.2)

【京】文久3年8月8日夜、中川宮に西国鎮撫使の内命が下りました。(内命降下の事情はこちら)

因幡藩京都留守居安達清一郎が翌9日に中川宮から聞いたところによると、中川宮は、8日夜、いったん西国鎮撫使の内命を請けたものの、内命が「真の叡慮」ではなく、議奏三条実美等の策謀から出たものであり、鷹司関白が急進派公卿の群議を排し兼ねて降下に及んだことを知り、辞退することを考えたそうです。

また、薩摩藩士高崎左太郎(正風)が、政変後、前宇和島藩主伊達宗城に語ったところによると、中川宮は西国鎮撫の内命を「以之外御驚愕且御不審」に思い、容易ならぬ儀なので熟考して御請申し上げる、と回答したそうです。

参考:『贈従一位池田慶徳公御伝記』二p441、『伊達宗城在京日記』p209(2013.1.1,1.2)

●おさらい:攘夷親征vs西国鎮撫
文久3年6月9日に、将軍家茂が東帰のために幕兵とともに退京・下坂し(こちら)、13日に大坂を出港しました(こちら)。そして、将軍と入れ替わるように、真木和泉が入京して、攘夷親征論は一気に具体化しました(こちら)が、孝明天皇は、攘夷親征を好まず、近衛忠煕前関白父子・二条斉敬右大臣らも親征には反対でした(こちら)。 7月18日には、ついに尊攘急進派の後ろ盾である長州藩が攘夷親征を建白し、朝廷に決断を迫りました(こちら)。しかし、鷹司関白に諮問された因幡・備前・阿波・米沢等の在京有力諸侯はいずれも親征に同意せず、親征論は一時頓挫しました(こちら)

長州藩や真木和泉は、8月に入り、在京諸侯の中心的存在である因幡藩を味方に引き入れようと藩主池田慶徳に頻りに入説しましたた(こちら)。慶徳や同席した諸侯は彼らの強硬な主張に同意しませんでしたが、これでは自分たちの望む穏健な方策は行われぬまいと、一時、国事諮問の辞退を申し合わせたほどでした。

相前後して、真木和泉の発案により、中川宮に西国鎮撫を命じる動きが活発化しました。急進派公卿は親征を好まぬ天皇に対し、中川宮の西国鎮撫使任命か、さもなくば「おイヤな」親征かと迫りました。孝明天皇は、8月7日、攘夷親征論を時機尚早だと断固退け、その代り中川宮に西国鎮撫使を命じたいとの強い意向を示しました(こちら)

■禁門の政変へ(薩摩藩の動き)
【京】文久3年8月8日、薩摩藩士高崎左太郎(正風)は、国許の中山中左衛門(尚之介)・大久保一蔵(利通)に書状を送り、五藩の天覧馬揃時の小銃発砲に公卿が恐怖したこと、薩英戦争の件で急進派が好意的な反応を示していること、急進派が中川宮・近衛家にも猛烈な親征採納運動をしかけていること、一橋慶喜の上京が近いこと等を報じました。


五藩の天覧馬揃と公卿の恐慌:去る六日(ママ)、会藩・因州・備前・上杉(=米沢)・阿波五藩の調練の叡覧があり、巳の半刻より始まった。前殿下(=近衛忠煕)のお話しでは、今回は発砲いたしたところ、「堂上公卿殊之外御恐怖、或は未前ニ御暇も有、或央ニ而退出茂有之、或は始より発砲ノ事を聞而不参」など。三条卿は御引籠り中、押して御参内のところ、「別而御恐縮、始終コハイコハイと」仰せだったそうだ。調練は、上杉が特に宜敷との評判である。
薩英戦争への好意的反応:錦公路殿(=錦小路頼徳・国事寄人)が(攘夷監察使として)近々御発京になり薩州へ御下向だと、今日承り、すぐに問い合わせたが、相違なさそうである。その御趣意は、今般、薩州が攘夷で大勝利を得たのにその褒賞が甚だ少なく、これでは賞罰不明、人心の折合もつきかねるので、是非とも末世までも面目の立つほどにしたいというもので、浪士あるいは「暴論公卿方」の中にも建議した者が多々あり、決議された。長州へは正親町卿が御下向の様子で、戦場を御監察される由。随従の人数を伺うと、御親兵か御供を選ぶ予定だとのことで、俄かには分り兼ねた。御下向は間違いない様子だが、委曲がわかれば、詳しくお知らせする。最近、「暴論連中」の情実を細々と聞いたが、此節一事(=薩英戦争)だけは、余程感嘆した輩が多く、三分の二だけは、これまでの論と変わったようである。
真木和泉の活躍:真木和泉は余程用いられている様子で、いろいろ嫉妬する輩もあるようだ。
急進派の猛烈な親征採納運動:「御親征一條頃日厳敷周旋」、宮(=中川宮)、陽明家(=近衛家)あたりにも段々迫るので、「大ニ御配慮」されている。
後見職一橋慶喜再上京:一橋公は、五日・六日に江戸を出発の予定らしい。御縁類の一条家へ申し参ったと、前殿下のお話しである。今回は「将軍同様心得」よと、二条城へもあたりがあったようだ。
(出所:8月8日付中山中左衛門殿・大久保一蔵殿宛高崎左太郎書簡『玉里島津家史料』ニp412より作成。箇条書き、小見出し、()内by管理人)

<ヒロ>
高崎は8月5日にも中山・大久保宛に京都形勢報告を送っていますので(こちら)、それから短期間に知り得た主要事項が記されています。
・「御親征一條頃日厳敷周旋」:8日付書状では、近衛前関白とともに中川宮が急進派に迫られている記されていますが、5日付書状では、中川宮から嫌疑を避けるために薩摩とは暫く距離を置くといわれたことを書き送っています。この間に中川宮とのチャンネルが復活したのか、(たとえば)近衛家経由で聞いた話なのかは書状からは明らかではありません。
・慶喜上京のニュース:5日付書状の続報です。関心が高いことがうかがえますね。慶喜が8月5〜6日に江戸を出立するという噂は、当然、急進派もキャッチしていたでしょう。このニュースが親征採納運動の活発化に影響したのではないかと思います。
・天覧馬揃:5日付書状に引き続く報告です。小銃の威力に公卿がうろたえる様子が報告されています。これは、会津側資料にもみられる記述です。この時点では、政変のパートナーとなった会津藩に特別関心を寄せている様子はうかがえないのもポイントだと思います。

参考:『玉里島津家史料』ニp412(2013.1.14)
関連:■開国開城 「大和行幸計画と「会薩−中川宮連合」による禁門(8.18)の政変」■テーマ別文久3年:「島津久光召命」「大和行幸と禁門の政変」■薩摩藩日誌文久3

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