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文久3年8月9日(1863年9月21日)
【京】親征vs西国鎮撫:因幡藩主池田慶徳、二条右大臣に書を送り、
中川宮の西国鎮撫使任命の「内実の御意味」を尋ねる

/中川宮、因幡・備前藩に親征建議(西国鎮撫不可)を依頼
/中川宮、上書して西国鎮撫使の内命・国事扶助辞退
/慶徳、板倉老中に書を送り、親征・西国鎮撫論を報じ、小倉藩処分・小笠原長行処罰・攘夷断行緊急性を説く
【江】横浜鎖港:幕府、8月20日前後の鎖港交渉開始を決定
【小倉】上京途上の薩摩藩士村山斉助、越・薩・肥後連合の同時上京に関する見込みを
国許の大久保一蔵(利通)に報じ、薩摩藩の早期決断・大挙上京を促す


☆真木和泉のお天気日記 晴
■攘夷親征か西国鎮撫使かvsー禁門の政変まで後9日
(1)池田慶徳、二条右大臣に中川宮の西国鎮撫任命の「内実の御意味」を尋ねる
【京】文久3年8月9日、因幡藩主池田慶徳は、右大臣二条斉敬に書を送り、中川宮西国鎮撫使任命の「内実の御意味」を尋ねました。


二条右大臣宛の書簡の概容は以下の通り
昨日(8月8日)、殿下(=鷹司関白)より米沢少将(=上杉斉憲)・阿波侍従(=蜂須賀茂韶)・備前侍従(=池田茂政)・下官を召されました。備前・下官は所労のため、米沢・阿波が参殿しました。
二人が殿下より承ったところによると、一昨日(7日)、殿下が召により、異例を押して参内されたところ、(天皇は)御親征の儀はこれ以上差し迫ればともかく、未だその機会とも思えない、ついてはどこまでも決断はし兼ねるが「御一策」があると仰せられた。殿下らがどのように主張しても(親征を)御採用にならず、「英断」をもって「確乎」と殿下に仰せになった。「御一策」と申されるだけでは諸臣にも説明しがたいと、「御一策」についてうかがうと、中川宮は先達て先鋒攘夷を願い出たことでもあり、先ず中川宮を「鎮撫将軍」に任じて四国・九州に攘夷掃斥をさせ、小倉藩処置も中川宮に命じたいとの思召であった。ついては、(中川宮に)御居住の御城地もお渡しにならねばならないが、そこまでは決めかねておられるものの、「中川宮将軍職之儀は断然と御決」めになっており、親征については誰がどれほど申し上げようと「時節未だ御早キ様被思召ニ付、断然と御取用」がないとの勅命であった。その「御果断」はどうにも致し方なく、畏まって退出したので、心得のため、達するとのことでした。
「実二驚入」りました。「過日蒙御内命候御次第」とは大いに相違しますが、定めて御事情があるのでしょうから「御内実の御意味」をうかがいたく存じます。
(出所:8月9日付(二条斉敬)右大臣殿宛慶徳書簡『贈従一位池田慶徳公御伝記』二より作成)

<ヒロ>
なぜ、慶徳が「実二驚入」ったかというと、天皇は、幕府への攘夷委任、あくまでも公武一和による鎖港攘夷を望んでいたはずで、それが慶徳の行動の基本にもなっていたからです。慶徳は、7月14日、下問に答えて、時機にあわぬ親征布告を見送り、攘夷監察使を西国の要港に送るべきだという建白をしました(こちら)、西国の攘夷監察と西国鎮撫(小倉藩処分込)では大違い。親王による西国鎮撫となると、それは公武一和とか攘夷委任とかは吹っ飛んでしまいます。慶徳にとっては、中川宮の西国鎮撫は攘夷親征同様、実現すれば徳川家(慶徳は水戸徳川家出身なので御家意識がある)の危機なのです。これには何か内々の事情があるに違いないと思ったとしても無理はありません。(西国鎮撫は真木和泉の策です。どうやら、急進派公卿が、天皇に親征か西国鎮撫かを迫り、親征を好まぬ天皇が西国鎮撫を言い出したというのが内情のようですこちら)。

また、この書簡からは、(おそらく)二条右大臣経由で、何らかの内命が下っていたことが伺えますが、それが何なのか、伝記をみても、鳥取池田家文書をみても、よくわかりませんでした。

ちなみに、二条右大臣は生母が水戸7代治紀の娘(9代斉昭の異母姉従子)なので、斉昭の子にあたる池田慶徳・池田茂政・松平昭訓、江戸の一橋慶喜らとは従兄弟になります。(なお、関白鷹司輔煕&内大臣徳大寺公純も生母が治紀の娘(9代斉昭の実姉清子)で、慶徳らの従兄弟です。この時期の京都のキーパーソンは水戸家の親戚だらけです)。

参考:『贈従一位池田慶徳公御伝記』二p440-441,443-p445(2013.1.2)

(2)中川宮、真木和泉と決別
【京】文久3年8月9日朝、中川宮は、真木和泉を呼び出して、鎮撫使を辞すことを告げ、真木との決別を言い渡しました。

(八月)九日晴 朝、中川王余を呼ぶ。鎮撫を辞すと云。且離別を説。軍扇紙入を賜。余泣説之。(後略by管理人)
(出所:「文久癸亥(きがい)日記」『真木和泉守遺文』p605)

<ヒロ>
真木の「文久癸亥(きがい)日記」によれば、6月9日の入京後、これまでに、6月13日、7月10日、27日に、中川宮に謁していました。(7月10日、26日、29日にも参殿しましたが、所労・病を理由に対面が叶いませんでした)。

真木は西国鎮撫使の発案者です。日記の8月6日条には「朝條公(=三条実美)詣。鎮西(=西国鎮撫)云々之事を云ふ」とあり、その翌7日、孝明天皇が中川宮の西国鎮撫使任命を強く言い出して(こちら)、8日の内命につながりました。真木から入説を受けた三条実美が中心となって孝明天皇に迫ったということが想像できると思います。中川宮が真木を呼び出したのは、そのへんの経緯を改めて確認するとともに、辞退の意思を真木に伝えれば、彼が自分の思惑通り働いてくれると期待したんじゃないでしょうか。ところが、案に相違して、真木は西国鎮撫を請けるよう主張した・・・そこで、物別れになったのではないか、と思います。中川宮にしてみれば、真木には利用価値がなくなったという思いもあったのではないでしょうか。真木の方は、日記だけみれば、泣いて宮を説得しようとするなど、西国鎮撫に名を借りて中川宮を京都から追い出そうとしているというより、ただ純粋に中川宮が適任だと思っていたようにもみえますが・・・。

(3)中川宮、因幡・備前に西国鎮撫中止周旋・親征主張を要請
【京】文久3年8月9日、中川宮は、因幡藩・備前藩に対し、西国鎮撫使は真木和泉の発案であることを告げ、西国鎮撫が沙汰やみになるように親征を主張(=建議)せよと命じました。


中川宮は、8日、いったん西国鎮撫使の内命を請けたものの、「実は議奏三条中納言の術策なるを看破し」て辞退を考えていました。そこで、因幡藩京都留守居安達清一郎を召して、昨夕のことは「全く真の叡慮に出づるにはあらず、真木和泉守等の建白による処なり、然るを、関白、群議を拝し兼ねて、こゝに及べるなれば、内々動座せぬ様との密旨を下されたり、此上は、因・備両家にて、御親征を主張し、是度の儀は、沙汰止みとなる様、周旋あるべし」と命じました。(『贈従一位池田慶徳公御伝記』一p441)

<ヒロ>
去る8月7日の朝議で孝明天皇が親征を時期尚早だと断固退け、その代案として中川宮の西国鎮撫使を強く主張したことが、8日の内命につながっていました。因幡・備前は攘夷親征反対の在京諸侯の筆頭です。彼らが親征を建議すれば、親征推進派は勢いづき、朝廷で親征論が優位になることが予想されます。中川宮は、そうすれば、朝議がまた変わるのではないか、と期待したわけです。

でも、中川宮がいうように西国鎮撫使が真の叡慮でないなら、親征も真の叡慮ではありません。そして、そのことを中川宮はよく知っています。つまり、中川宮にとって、鎮撫なんて関係ないのです。自分が西国鎮撫を避けることができるなら、尊攘急進派に加担して、天皇の好まぬ、天皇が動座する親征を周旋させる。自分が巻き込まれないですむなら、なんでもいいというやぶれかぶれなのでしょうか・・・?

他方、慶徳にとっては攘夷親征も西国鎮撫も幕府の屋台骨を揺るがしかねない、避けたいことです。西国鎮撫をやめさせたいからといって、そのまま親征を建議するわけにはいきません・・・(親征反対が天皇の真意だと知っていますし)。中川宮の依頼はいわゆる「無茶ぶり」ですが、なんとかよい案はないかと弟の池田茂政に相談します・・・。

それにしても、中川宮は、慶徳が上京(6月末)後、慶徳/因幡藩とはほとんど接触なし。まあ、因幡の留守居安達清一郎などは、どっちかというと諸藩の急進派/即時破約攘夷派に近く、ばりばりな親長州なので、あまり近づきたくなかったのかもしれませんが。この日、因幡藩に依頼したのは、よほど追いつめられていたからだと思います。(宮の独断なのか、それとも二条右大臣あたりの入れ知恵なのでしょうか・・・)

(4)中川宮、西国鎮撫の内命辞退
【京】文久3年8月9日、中川宮は、上書して、西国鎮撫の内命を固辞するとともに、国事扶助その他全ての役職の罷免を願い出ました


今般、御内慮を蒙ったた鎮撫一條の事を熟考仕りましたが、容易ならぬ国家の重大事、短才の尊融(=中川宮)ではとてもとても微力に及ばず、半途で仕損じては朝威を汚し奉りましょう。今日、尊命を反し奉るは深く恐れ入りますが、尊融一身の罪状と存じますので、恐れながら、右御内慮の一條御免の儀を断然願い上げ奉ります。
かつまた、兼て仰せ付けられております国事御扶助の儀も、今日に到り寸効もなく、今後も何等の御用も勤められず、重々恐れ入ります。これまた、御役儀とも全て御免の儀、伏して願い上げます。
重罪のお咎めを蒙り奉ることになり、深く恐れ入りますが、宜しく御沙汰を願い上げ奉ります。
(出所:久邇宮文書『孝明天皇紀』巻百六十七p13-14より作成)

夕刻、中川宮のもとに議奏が使者として遣わされ、内命を請けるよう説得しましたが、中川宮は承知せず、八幡宮行幸が至当であると主張しました。議奏(徳大時実則・長谷川信篤)は、それでは、その旨を建白をするよう求め、中川宮が明10日に上書すると言ったところ、ようやく帰りました。

<ヒロ>
八幡=石清水八幡宮です。中川宮が辞退したのに、早速、使者が来るというあたり、孝明天皇の本気度がうかがえる気がします。

なお、『孝明天皇紀』には、8月13日のことか、として次の中川宮の奉答案が載っていますが、文脈からして、この日の議奏との議論後に作成されたものではないでしょうか。
・・・(西国鎮撫を)再度お命じになられ(たことは)、謹んで承りました。尊融(=中川宮)が先刻申し上げた次第は実に実に短気の段、深く恐れいります。この段、分けてお断り申し上げます。しかし、止むを得ず、その様に申し上げたのです。さて、極密に申し上げます。先刻、因州藩(家臣)が入来し、面会したところ、昨日の関白殿より御達し、この儀は如何なる事でしょうか、前日に伺った叡慮の旨とは違い、実に叡断なのか、何ともあやしいと尋ねました。そこで、(叡慮ではなく)真木和泉の存意だという真実を申し聞かせました。同藩の者によれば、今朝、因州(=藩主池田慶徳)が、八幡行幸のことは、尊融の(西国)鎮撫より軽い(=中川宮の西国鎮撫使任命問題の方がより重要である)と申しておったといいます。今日、関白邸へ同人その他が参集・必ず議論をするとのことですので、この段を申し上げておきます。いずれ、因州から御親征行幸について申し上げるでしょう。真木和泉の存意と答えたのは「御不信」かと存じますが、これ(=西国鎮撫)は真木の謀略であることは、昨夜確かに伝承しました。
(出所:「久邇宮文書」『孝明天皇紀』巻百六十七p17-18の尊融親王奉答案 より作成。()内管理人)

参考:『贈従一位池田慶徳公御伝記』二p440-441,p445、『鳥取池田家文書』一p599、『孝明天皇紀』巻百六十七(近代デジタルライブラリー)p13-14,17-18(2013.1.1,1.2, 1.3)

(5)池田慶徳、京都の情勢を板倉老中に報知
【京】文久3年8月9日、因幡藩主池田慶徳は、老中板倉勝静に密書を送り、時勢の切迫を告げ、親征を防ぐためにも小倉藩処分・小笠原長行処罰・攘夷断行の要を説き、中川宮の西国鎮撫使任命の事情を知らせました。


板倉老中宛書簡(別紙)の概容は以下の通り
近頃、親征の議論がいよいよ切迫し、日夜心痛しているところ、ようやく今日になり、江戸の様子を伺えば、貴兄御出勤、(開国派の)酒井飛州(若年寄)以下御役御免等を命じられたという。こうなれば、不日にいよいよ攘夷御遵奉となり、「横浜攘斥」(=横浜鎖港)に着手だと存じる。このあたり、如何だろうか。(注:ちょうど同日、幕府は8月20日前後の横浜鎖港交渉開始を決めています↓この次の記事)
当地では一日が千日、片時も猶予が付かぬ次第である。十日以内に攘夷の効験が顕れれば、必ず(公武)御一致に至るだろう。もし、「離間之徒」があっても、実効が上がっていれば、自然とそのあたりは恐れるに足らぬと存じる。
就いては、当時急務は、第一に攘夷だが、内治も考えねばならない。以下を実行あれば、必ず当地の「人気鎮撫」が可能だと存じる。それは、松平大膳大夫(=長州藩主毛利慶親)・小笠原大膳大夫(小倉藩主小笠原忠幹)の件である。今の形勢では、「不日内乱」になると見え、甚だ容易ならぬ次第である。
(以下、長州寛典と、小倉処分、小笠原処罰について説く)
攘夷、小倉・唐津の処置は早々に行われるよう願う。もし、右処置が行われねば、「不日一大挙発」がないとは申しがたい。
もし、親征が行われば、「実以徳川御家之御存亡は此日二御座候」。よくよく御熟慮をされたい。「被中被」でお願いしたい。
<別紙>
昨夕、殿下(=関白鷹司輔煕)が我々を召されて承ったところによれば、先日来、有志共が親征について追々建白してきたが、叡慮に叶わぬとのことで、(天皇は)断然と御採用にならない。しかし、とかく攘夷の叡念は行われず、長州・薩摩以外は、未だ中国・四国・九州にても残らず攘夷に「決定一致」とも思召されぬので、西国鎮撫のため、中川宮を差下したいとの叡慮を示された。この件は、一同の存意を尋ねるというわけではなく、決定事項であった。殿下始め、両役(=議奏・伝奏)方もいろいろ言上したが、宸断にてご決定になったからには致し方がなかった。
親王のことなので、ただ鎮撫に派遣するとはいかず、いずれ鎮西太守や鎮撫将軍とかの号を賜らねばならぬだろうと申す者もいる。
差し当たり「小倉傍観」(=長州の攘夷戦争を応援しなかったことを指す)は重罪であるので、まずこれから先に「征討」と申す様にも薄々聞こえる。
「甚以大変」なことなので、取り急ぎ申しあげる。
(出所:8月9日付板倉周防守様宛松平相模守書簡『贈従一位池田慶徳公御伝記』二より作成)

参考:『贈従一位池田慶徳公御伝記』二p440-441,443-p445(2013.1.1)
関連:■「開国開城」「大和行幸計画と「会薩−中川宮連合」による禁門(8.18)の政変」■テーマ別文久3年:「大和行幸と禁門の政変

●おさらい:攘夷親征vs西国鎮撫
文久3年6月9日に、将軍家茂が東帰のために幕兵とともに退京・下坂し(こちら)、13日に大坂を出港しました(こちら)。そして、将軍と入れ替わるように、真木和泉が入京して、攘夷親征論は一気に具体化しました(こちら)が、孝明天皇は、攘夷親征を好まず、近衛忠煕前関白父子・二条斉敬右大臣らも親征には反対でした(こちら)。 7月18日には、ついに尊攘急進派(即時破約攘夷派)の後ろ盾である長州藩が攘夷親征を建白し、朝廷に決断を迫りました(こちら)。しかし、鷹司関白に諮問された因幡・備前・阿波・米沢等の在京有力諸侯はいずれも親征に同意せず、親征論は一時頓挫しました(こちら)

長州藩や真木和泉は、8月に入り、在京諸侯の中心的存在である因幡藩を味方に引き入れようと藩主池田慶徳に頻りに入説しました。慶徳や同席した諸侯は彼らの強硬な主張に同意しませんでしたが、これでは自分たちの望む穏健な方策は行われぬまいと、一時、国事諮問の辞退を申し合わせたほどでした。

相前後して、真木和泉の発案により、中川宮に西国鎮撫を命じる動きが活発化しました。急進派公卿は親征を好まぬ天皇に対し、中川宮の西国鎮撫使任命か、さもなくば「おイヤな」親征かと迫りました。孝明天皇は、8月7日、攘夷親征論を時機尚早だと断固退け、その代りに、中川宮に西国鎮撫(具体的には四国・九州における攘夷掃斥・小倉藩処置)を命じたいとの強い意向を示しました(こちら)。翌8日夕、急進派の圧力により、中川宮に西国鎮撫の内命が下りました(こちら)
■慶喜の再上京
(6)慶喜の上京延引
【江】文久3年8月9日、将軍後見職一橋慶喜は、在京の因幡藩主池田慶徳に書を送り、横浜鎖港交渉が当月20日頃開始になる見込みを知らせるとともに、上京延引を関白鷹司輔熙に内申するよう依頼しました。
(書簡は13日京着)

慶喜書簡の概容は以下の通り。
先便にて、監察使の儀は、近々上京するのでそれまで猶予をと申し上げたが、上京についてなお勘考したところ、このまま「拒絶」(=横浜鎖港)もなく只上京しては天朝に対して申し訳もたたないので、飽く迄も(江戸で)尽力致し、実現せぬときは、謹んで罪を待つよりほかなく、ついては、上京は暫時見合わせる積りである。
酒井浅野(=開国派の若年寄酒井飛騨守・大目付兼神奈川奉行浅野伊賀守)も罷免になったが、「又々奸人蜂起之躰」もあり、「扨々心痛至極」である。板倉(=老中板倉勝静)を出仕させたが、他の閣老は残らず「引込」み、君公から使者を派遣しても出勤いたさぬ。今後の様子によっては、お罰しになるほか致し方あるまい。
拒絶之儀、當月中は勿論、廿日前後ニは屹度取掛候積ニ而板倉と共ニ尽力罷在候」。上京は、殿下にも申上げ置いたことではあるが、右の様子故、成否勝敗は測り難いものの、是非とも叡慮貫徹の上、奏聞いたす心底なので、殿下に極内密に仰せ上げられるよう願いたい。
(出所:8月9日付松平相模守様宛一橋中納言書簡『鳥取池田文書』一p580より作成。下線、()内も管理人)

<ヒロ>
慶喜が再上京することは7月18日に決まっていました。慶喜に破約攘夷が進まない事情を説明させるためですが、慶喜自身は、天皇の考えを再確認し、その上でどのような沙汰でも実行するつもりだったようです(こちら)。当初の予定では8月5日に出発するはずでしたが、京都の情勢が日に日に厳しくなっていること(特に攘夷親征論が高まっていること)、逆に幕府では開国派が罷免されて破約攘夷(横浜鎖港)に傾いてきたことから、西上を延期して、まず勅命を奉じて鎖港交渉に従事しようと考えたようです。 予定通り、5日に出立していれば、政変がどうなっていたかなお、慶徳は前水戸藩主五男で、慶喜の異腹の兄になります。(京都で超活躍中です)

●おさらい:慶喜再上京
慶喜は4月22日、「鎖港攘夷の実効」をあげることを名目として東下の勅許を得て帰府していました。最初の辞表を提出したのは、生麦事件の償金支払い後の5月14日。横浜鎖港の勅旨を貫徹する見込みがないとの理由でした(こちら)が、朝廷は6月2日、<後見職を元のように務めて将軍とともに攘夷に尽力するように>と辞任を却下しました(こちら)。慶喜は、これに対し、6月13日、重ねて即時攘夷の困難さを伝え、<期限があっては攘夷をお請けできないので辞職を願いたい。内政を整えた上で攘夷に取り組みたいとの願いが聞き届けられれば粉骨砕身したい>と、二度目の辞表を提出しました(こちら)。同月15日には将軍が着府しましたが、24日には、さらに、生麦事件賠償問題や下関外国船砲撃事件での薩長処分について幕府が自分の意見を容れず、後見職は名ばかりであるとして、攘夷期限の有無に関係なく辞任を願いでていました(こちら)。しかし、朝廷は、7月4日、再び辞表を却下し、即時攘夷への粉骨を求める沙汰を出しました(こちら)。前17日、慶喜は7月4日の沙汰に対する請書を認め、上京の上、詳しく叡慮を伺い、御沙汰次第、如何ようにも捨身の微忠を尽すとの決意を朝廷に奏しました(こちら)(請書は7月22日京着)。 前後して、攘夷親征論の高まる京都では将軍の急遽帰府・攘夷不実行を譴責する勅諚が下され(こちら)、勅諚伝達の使者として、 7月15日、禁裏附武士小栗正寧が江戸に到着しました。善後策を協議した幕府は、慶喜に関東の状況を説明させるために上京させようと決め、18日、慶喜に上京の台命をを下していました(こちら)

関連:■「開国開城」「大和行幸計画と「会薩−中川宮連合」による禁門(8.18)の政変」■テーマ別文久3年:「大和行幸と禁門の政変」「後見職・将軍の再上洛」「横浜鎖港交渉」■徳川慶喜日誌文久3
参考:『鳥取池田文書』一p580(2004.10.2, 2013.1.8)
■禁門の政変(文久政変)へ (&未発の越・薩・肥連合の上京計画)
(7)再上京途上・村山斉助の報告
【小倉】文久3年8月9日、久光の命で上京途上にある薩摩藩士村山斉助は、肥後における越前・肥後藩士との面会結果に基づき、「一挙」(=越・薩・肥後連合の同時上京)に関する見込みを国許の大久保一蔵(利通)に報じ、薩摩藩の早期決断・大挙上京を促しました。


斉助書簡の概容は以下の通り
道中不順で、ようやく昨夜(=8日)小倉に着き、今日(=9日)乗船の予定である(注1)。去る6日夜、肥後では、横井平四朗門下で、七、八年来の知人でもあり、先日鹿児島に来た一人の徳富多太助(=徳富一敬)と計らずも出会って話をし、肥後の国論は委細わかった。越前藩士三人も当地に来ているので(注2)会うよう勧められ、徳富と一緒に、うち一人の三岡八郎(=由利公正)と暫時話した。
越前・肥後の論は大体同じで、つまりは開港説に落ち着くと申すべきか。しかし、それは先、ともかく後のことで、今のところは、「同盟して速ニ(京都政局を正常に)恢復」させるべきである。ところが、「春嶽公京都之気受極々不宣」、(春嶽が)出京になれば「早速騒動」になることはみえているので、「何分ニモ此節ハ戦闘ニ可及ハ必定」である。
長州の「暴挙」は倍化して甚だしく、小倉の飛脚を防州宮市で殺害・御用封を奪うなど「傍若無人」の至りを尽しているが、「此般之一挙」(注3)を聞けば「早速多勢ヲ以テ」上京しようから「イツレ共流血ニ相違有之間敷奉存候」
(一挙の際は)肥後藩は豊後鶴崎より出船すると承った。「御国之人数」(=薩摩藩兵)も日向豊後の間から乗船し、馬関(=下関=長州藩)へ知られぬようにすることが専要である。肥後藩は一手を京都守衛の名目で先に出兵させるそうだ。御国も同様に一手二手はまず大坂迄なりと密かに登らせるべきではないか。越前藩出京については、既に「京師(=朝廷)」で沙汰があったとの風聞である。
何分、此節は(=久光?の上京の際は)少しでも多く藩兵を御引き連れになることが望ましい。尤も、「事落着ハ三日四日之内ニ相済候事故」、多勢が長く滞京する必要はなく、「只々勢援ヲ張」るためだけのことである。
肥後藩は小笠原備前(=家老)が一人で(朝廷に?)建議するそうだが藩内に異論はないという。
「諸藩一同之儀」(=越前・薩摩・肥後が呼応しての上京・建議)になるので、いずれ、(薩摩の関与が)前もって京都に知られてしまうだろうから、なるだけ早めに「御決策」されたい。
三島弥兵衛が(薩英戦争の)「御褒勅杯」をもって下国の由。恐悦である。しかしながら、「三条並諸暴論之者」は「陽ニ称賛シテ陰ニ猜疑ヲ抱キ、(以前より)倍御国ヲ忌む」気持ちが深まったようである。
筑前藩とも話を通じておくべきかと存じる。(肥後で会った)越前藩士は御国に参るとの事だったので、もう到着したかと思われるが、このうち、三岡八郎は「余程之モノ」である。先達て御国に参った肥後藩士も、皆、昔から懇意にする者たちである。そのうちの川瀬にも熊本駅で少し会ったが、「肥後藩之情実」は聊かの疑いもない。
(出所:8月9日付大久保一蔵様宛村山斎助書簡『忠義公史料』ニp761より作成。箇条書き、()内by管理人)
注1)これより先、村山斉助は、国許に久光召命撤回等の事情を報告するために京都を発ち、8月1日頃、鹿児島に到着(『忠義公史料』ニp751)。(村山に先んじて、久光召命の沙汰を伝えに帰国していた奈良原幸五郎(繁)は、久光の内命(「御趣意」)を言い含められて京都に発った後だった)。村山は、再び京都に向かう道中である。
注2)家老岡部豊後・酒井十之丞・三岡八郎(由利公正)の三名(こちら)。)藩命を受けて、肥後・鹿児島周旋のため、7月5日に越前を発っていた。なお、肥後藩は既に越前藩に同意し、8月7日、藩主細川慶順が春嶽への返書を認めている(こちら)
注3)文脈からして越前藩が薩摩・肥後藩に正式に連携をもちかけている挙藩同時上京を指すと思われる。
注4)村山は、おゆら騒動時、筑前藩に脱走し、藩主黒田斉溥(島津重豪の子。斉彬の大叔父)の庇護を受けていました。(当時の名は木村仲之丞です)。

<ヒロ>
●村山斉助再上京の使命は?
村山は、久光召命撤回の情報をもって鹿児島に帰っていました。村山に先立ち、召命の情報をもって鹿児島へ戻った奈良原幸五郎(繁)は、久光から何事か(「趣意」)を言い含められて、先に京都に戻っていました。それは、趣意通り事が運べば、一門家老がすぐに兵を率いて上京するという類のものでした。召命撤回という状況変化を受けた久光が、何を考えたのか、伝わっていません。ただ、『忠義公史料』には、奈良原が鹿児島にもたらした召命の沙汰により、「宮之城(=島津図書久治。久光の次男。一門当主)」が上京することになり「小松(=家老小松帯刀)」にも上京が命じられたが、8月1日頃に到着した村山の報告によって「京都ノ都合向不宣・・・殊ノ外薩士不塩梅ノ模様」が知れて、「宮ノ城ノ上京モ相延」になったらしい、とする8月6日付の日記なのか備忘録なのか書状なのか(筆者不詳)が収められています。これをみると、久光は、この段階で、奈良原に言い含めた「趣意」を断念したようです。

久光が、折り返し鹿児島を出発する村山に対し、近衛家への「巨細」な伝言を託したことは、政変後に近衛前関白父子が久光にあてた書状(『忠義公史料』三p79)からうかがえます。それが何だったのかは明らかではありませんが、おそらく、その後の京都の情勢に鑑みて、先に奈良原が近衛家に説明した久光の「趣意」は反故にせざるをえない、という内容が含まれていただろうと思います。

管理人は、久光が奈良原(幸)に言い含めた「趣意」は、孝明天皇の了解の下、久光上京前に、中川宮・近衛前関白、それに挙藩上京する越前藩と連合しての政変だったと推測しています(こちら)。そして、、村山を通して、近衛家に、そして在京薩摩藩に伝えられるべき新たな「趣意」は、その政変の見送りなのではないかと想像しています。

村山の書状からは、既に国許において「一挙」が議論されていたことが窺えます。三藩連合の同時上京は、召命撤回で反故になった政変計画に代わる、有望な次の一手として検討されていたのではないかと思います。村山も、そう感じていたから、徳富の誘いにのって三岡にも会いにいったし、その上で、同時上京計画にかける肥後・越前の本気を確信し、成功の可能性を感じたから、越前藩の使者が国許に入るタイミングに間に合うよう、上京途上で、この書状を書き送ったのではないでしょうか。

村山斉助豆知識(維新後は村山松根):おゆら騒動で筑前藩に脱走した藩士の一人、木村仲之丞です。一時、北条右門という変名を使って国事に奔走しました。あの平野國臣が北条右門時代の村山に影響を受けたとかいわれています。でも、小楠の高弟の徳富一敬とも親しかったり、三岡八郎を余程の者と推薦しちゃったり、国学・和歌得意で、開国派と意見があうなんて・・・管理人的にちょっと気になる人物です。

参考:『忠義公史料』ニp754、p761(2013.1.15)
関連:■「開国開城」「大和行幸計画と「会薩−中川宮連合」による禁門(8.18)の政変」■テーマ別文久3年:「大和行幸と禁門の政変」「越前藩の挙藩上京(クーデター)計画」■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年」

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