9月の「今日」 幕末日誌文久3 テーマ別文久3 事件:開国開城 HP内検索 HPトップへ
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☆真木和泉のお天気日記 晴 ■攘夷親征か親王西国鎮撫かvs-禁門の政変まで後11日 【京】文久3年8月7日、朝議において、孝明天皇は攘夷親征論を時機尚早だと断固退け、代案として中川宮に西国鎮撫使を命じることにしたいと強く述べました。 因幡藩主池田慶徳が、鷹司関白に伺候した備前藩主池田茂政らから聞いた話として、二条斉敬右大臣に報じたところによれば、この日の朝議は次のような状況だったようです。
もともと、西国鎮撫使は尊攘急進派真木和泉の発案したものでした。ちなみに真木和泉の立案した鎮撫使の職掌は、(1)攘夷の叡旨布告、(2)梗を問い罪を命じる(=小倉藩征討)、(3)人材を挙げる、(4)姦曲を退ける、(5)無告を撫す、(6)孝悌を表す、の六ヶ条から成ります。(真木は攘夷親征の主唱者でもあります)。 その真木は、前8日、三条実美に「鎮西云々」のことを述べていました。 薩摩藩士高崎左太郎(正風)が、政変後、前宇和島藩主伊達宗城に語ったところによると、天皇が中川宮の西国鎮撫を強く言い出したのは、急進派公卿が天皇に対し、<宮が「此事被畏候ハヽ」(=西国鎮撫使を拝命すいれば)、先ず親征には及ばず、御断りになれば「御いやに」思召される行幸をされるように>と「強奏」したからのようです。(『伊達宗城在京日記』) つまり、真木に入説された三条が強く迫ったというあたりでしょうか。 中川宮が攘夷親征に慎重なので、宮を西国鎮撫使に任じて京から遠ざけようとしたのだといわれています。(でも、中川宮はどちらかというと親征に前向きのようなのですが→・<ヒロ>へ) <ヒロ> どうみても、親征を好まぬ天皇が、尊攘急進派の策にのって中川宮に西国鎮撫を命じることで、急進派の主張する親征論を抑えようとしたようにしか思えませんよね。この日の天皇の主張と似ているのが、因幡池田慶徳の、時機にあわぬ親征布告を見送り、攘夷監察使を西国の要港に送るべきだという建白です。天皇は、この論法を参考にしたのかもしれませんが、攘夷監察使が鎮撫使になったのは大きな違いです。天皇は攘夷を幕府に委任し、あくまでも公武一和による鎖港攘夷を求めていたはずですが、攘夷監察→親王による西国鎮撫(小倉藩処分込)となると、攘夷親征同様、公武一和とか攘夷委任とかは吹っ飛んでしまいます。天皇が従来いってきたことと矛盾するわけですが、そんなこと気にしていないかのようです。親征となると自分が出ていかなきゃいけなくなる、とにかくそれがいやだという一念で、いわば、中川宮をスケープゴートにしたようにみえます。まあ、天皇も言っているように、中川宮自身、6月6日に上書して攘夷先鋒を願い出ているのですが(こちら)・・・。それにしても、孝明天皇も、必死になれば断固とした態度を貫き、意思を押し通せることもあるようです・・・。 ●中川宮は攘夷親征に慎重だったのか 少なくとも表面上はそうでなかったように思われます。7月4日、越前藩士村田巳三太郎(氏寿)が近衛忠煕前関白に謁したところ、「宮ハ御親征も可なるへし。いよいよ御親征あらハ先鋒の任に当るへしと申され、聊(自分たちと)意見を異にせられる」と聞かされています(こちら)。また、同月24日に中山忠能が伝奏野宮定功に親征論の高まりについて尋ねる書状を送っていますが、その中で「中川宮此頃ハ暴烈御親征御申立之由真実其御趣意ニ候哉」と確認しており、中川宮が親征論を激しく主張しているという噂の真偽を尋ねています(忠能卿記)。何より、後日、中川宮自身が天皇に呈した西国鎮撫内命辞退の上書において、西国鎮撫の本当の事情は、自分が「時々伺公(=伺候)御親征辺申上ヲ御疎ミニテ他国へ被遠サケ候様」に存じる、と書いてるのです。中川宮は薩摩藩に近いとみられており、姉小路公知暗殺の背景にもいると疑われていたので、なおのこと、親征を主張したとも考えられますが・・・。ともあれ、急進派にとっては親征に慎重な宮が邪魔だから京都から遠ざけたかったというよりは、どちらかというと、薩摩藩に近く何かと邪魔になりそうだから・・・たというほうがわかりいい気がします。 参考:『贈従一位池田慶徳公御伝記』二p440-441,p445、『伊達宗城在京日記』p209,『維新史』三p547、『続再夢紀事』ニ、『孝明天皇紀』巻百六十七p22、『徳川慶喜公伝』2(2002.9.21、2013.1.1,1.2) ●おさらい:攘夷親征/大和行幸 文久3年6月9日に、将軍家茂が東帰のために幕兵とともに退京・下坂し(こちら)、13日に大坂を出港しました(こちら)。そして、将軍と入れ替わるように、真木和泉が入京して、攘夷親征論は一気に具体化しました(こちら)。尊攘急進派は障害となる容保/会津藩を京都から追い出そうとし、6月25日には容保東下の勅命が降りました(こちら)。しかし、裏面の事情を察した天皇が容保に東下を望まぬ旨の密勅を下し(こちら)、天皇の真意を知った会津藩が東下をあくまで固辞したことから(こちら)、容保の東下は沙汰やみとなりました。 孝明天皇は、攘夷親征を好まず、近衛忠煕前関白父子・二条斉敬右大臣らも親征には反対でした(こちら)。 7月5日には、近衛前関白らは、攘夷親征に関して外様藩を含む諸大名を召して衆議をこらすようにと上書しましたが(こちら) 翌6日には急進派公卿が連署して、将軍へ攘夷委任の不可&攘夷親征の布告を建言しました(こちら)。親征布告は朝議の重要課題となり、7日には、因幡藩主池田慶徳を召して攘夷親征布告等を下問し(こちら)、次いで9日には真木和泉を召し出して攘夷親征について下問しました(こちら)。 11日には、急進派公卿の後ろ盾である長州藩の家老が藩主毛利敬親の命令で、(1)攘夷親征、(2)立太子、(3)違勅の幕吏・諸侯の討伐を奏請するために上京しました。益田らは入京すると在京の吉川監物(経幹)・清水清太郎らと会合して、藩主父子の直書を示して、協議した結果、公卿に入説して親征を請願することに決めました(こちら)。親征派はさらに勢いづきました。 これに対し、孝明天皇や近衛前関白らは、12日、薩摩藩国父島津久光に対して召命の沙汰(表向きは親征「御用」)を出して、久光に急進派を掣肘させようとしました(こちら)。また、鎖港攘夷派ではあるものの親征に慎重な慶徳は、異母弟の後見職一橋慶喜らに親征論が起ったことを知らせて幕府の攘夷断行を促すとともに、また、親征に慎重な慶徳は、異母弟の後見職一橋慶喜らに親征論が起ったことを知らせて幕府の攘夷断行を促すとともに、14日には、朝廷の下問に対し、幕府・大名が職掌を尽さぬうちの親征は時機尚早だと断じ、布告の見送り・攘夷監察使の西国要港派遣を建白しました(こちら)。相前後して、親征反対&久光召命派公卿に「天誅」等の脅迫が続きました。久光の召命も、急進派の主導する朝議で16日に中止が決定しました(こちら)。自分の意向が通らないことに天皇は激怒しましたが、翌17日、久光上京猶予の沙汰が出されました。そして、18日には、長州藩がついに攘夷親征を建白し、朝廷に決断を迫りました(こちら)。ところが、鷹司関白に諮問された因幡・備前・阿波・米沢等在京の有力諸侯はいずれも親征に同意せず、親征論は一時頓挫することになりました(こちら)。さらに、22日、江戸の一橋慶喜より後見職辞表を留める勅書への請書が京都に届きましたが、その中で、慶喜は上京の上、委しく叡慮を伺い、御沙汰次第、捨身の微衷を尽くす決心を明らかにしていました(こちら)。 長州藩や真木和泉は、8月に入り、在京諸侯の中心的存在である因幡藩を味方に引き入れようと藩主池田慶徳に頻りに入説しました(こちら)。慶徳や同席した諸侯は彼らの強硬な主張に同意しませんでしたが、これでは自分たちの望む穏健な方策は行われぬまいと、一時、国事諮問の辞退を考えたほどでした。一方、真木和泉は、慶徳らが親征論に転じたと受取り、そう吹聴したそうです。 ■越前藩の挙藩上京計画 【熊】文久3年8月7日、肥後藩主細川慶順・長岡良之助(護美/藩主弟)は、春嶽父子の計画にに同意するとの返書を認めました。 京都では、越前藩士村田氏寿が、在京薩摩藩士吉井幸輔らに挙藩上京の藩論(こちら)に同意をつりつける一方、7月5日、家老岡部豊後らが、薩摩藩・肥後藩に対して藩論を説明し、連携しての上京を促すために福井を発っていました(こちら)。この後、岡部は鹿児島に向かい、14日に島津久光の同意もとりつけました。 ところが、7月23日に、越前藩内部の問題により、挙藩上京の藩論が一転して挙藩上京派は更迭されていました(こちら)。京都で周旋していた村田氏寿も帰国(こちら)し、挙藩上京を主導した政治顧問の横井小楠も福井を去っており(こちら) 、越前・薩摩・肥後連合による朝廷政変計画は未遂に終わりました。 参考:『続再夢紀事』ニp121-123 関連:■「開国開城」「大和行幸計画と「会薩−中川宮連合」による禁門(8.18)の政変」■テーマ別文久3年:「越前藩の挙藩上京(政変)計画」「大和行幸と禁門の政変」■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年」 |
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