9月の「今日」 幕末日誌文久3 テーマ別文久3 事件:開国-開城 HP内検索 HPトップへ

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文久3年8月1日(1864.9.13)
【京】長州藩支族吉川監物・家老益田右衛門が因幡藩主池田慶徳らに攘夷親征を入説
【坂】大坂城代松平信古、容保に上京延引を周旋するよう依頼
【越】挙藩上京(21)村田、監察を罷免される

☆真木和泉のお天気日記 雨
■攘夷親征
(1)【京】文久3年8月1日、長州藩支族(岩国領主)吉川監物・家老益田右衛門が因幡藩邸を訪ね、藩主池田慶徳らに攘夷親征を入説しました。

去る7月28日夕刻、長州藩士中村九郎が因幡藩留守居約安達清一郎を訪ねて引見を求めたのがきっかけですが、この間、天覧馬揃えがあり、この日になりました。

この日、因幡藩邸には備前藩主池田茂政・阿波藩世子蜂須賀茂韶・米沢藩主上杉斉憲・水戸藩藩主代理の松平昭訓が参集しました。吉川監物らは、長州藩の藩論である攘夷親征・大和行幸について論じましたが、慶徳らは服しませんでした。

この後も、8月2日には真木和泉が、4日には久坂玄瑞・中村九郎が、安達清一郎の仲介で、因幡藩邸を訪れ、親征論を説きました。

<ヒロ>
長州藩は、7月18日に攘夷親征を建白しましたが、翌19日、朝議参謀として、朝廷に度々呼ばれ、国事を諮問されている慶徳らが揃って攘夷親征に反対したことから、親征論は一時頓挫していました。とはいえ、因幡藩と長州藩が犬猿だというわけではありませんでした。藩主慶徳は鎖港攘夷派。しかも、京都留守居安達清一郎らは、従来から各藩の尊攘急進派と交わっており、長州藩士とも好みを通じていました。説得の可能性を見出せる相手でした。また、22日には、一橋慶喜より後見職辞表を留める勅書への請書(7月17日付)が京都に届き、その中で、慶喜は上京の上、委しく叡慮を伺い、御沙汰次第、捨身の微衷を尽くす決意を奏していました(こちら)。18日には慶喜上京の台命が下り、当初の予定では慶喜は8月5日に出発するはずでした。徳川慶喜公伝』によれば、先に小笠原長行の率兵上京の記憶も新しい尊攘急進派は、慶喜上京を知って「激昂大方ならず、朝廷は松平余四麿(=水戸藩主名代。慶喜異母弟)に公上京の真意を探らしむなど、疑念最も深く、流言盛んに行はれて、悪評取り取りなり」だったそうです。長州藩としては、慶喜が入京するまでに、異母兄である慶徳を親征派に引き込んで朝議で親征を一決させ、幕府の意図をつぶす必要を感じたと思います。また、味方に引き込んだ慶徳に入京した慶喜を慶徳に牽制させようという意図もあったのではないかと想像します。

●おさらい:攘夷親征布告
文久3年6月9日に、将軍家茂が東帰のために幕兵とともに退京・下坂し(こちら)、13日に大坂を出港しました(こちら)。そして、将軍と入れ替わるように、真木和泉が入京して、攘夷親征論は一気に具体化しました(こちら)。尊攘急進派は障害となる容保/会津藩を京都から追い出そうとし、6月25日には容保東下の勅命が降りました(こちら)。しかし、裏面の事情を察した天皇が容保に東下を望まぬ旨の密勅を下し(こちら)、天皇の真意を知った会津藩が東下をあくまで固辞したことから(こちら)、容保の東下は沙汰やみとなりました。

公武一和による攘夷を望む孝明天皇は、攘夷親征を好まず、近衛忠煕前関白父子・二条斉敬右大臣らも親征には反対でした(こちら)。 7月5日には、近衛前関白らは、攘夷親征に関して外様藩を含む諸大名を召して衆議をこらすようにと上書しましたが(こちら) 翌6日には急進派公卿が連署して、将軍へ攘夷委任の不可&攘夷親征の布告を建言しました(こちら)。親征布告は朝議の重要課題となり、7日には、因幡藩主池田慶徳を召して攘夷親征布告等を下問し(こちら)、次いで9日には真木和泉を召し出して攘夷親征について下問しました(こちら)。 11日には、急進派公卿の後ろ盾である長州藩の家老が入京し(こちら)、親征派はさらに勢いづきました。孝明天皇や近衛前関白らは、12日、薩摩藩国父島津久光に対して召命の沙汰(表向きは親征「御用」)を出して、久光に急進派を掣肘させようとしました(こちら)。また、親征に慎重な慶徳は、異母弟の後見職一橋慶喜らに親征論が起ったことを知らせて幕府の攘夷断行を促すとともに、14日には、親征布告見送りを建白しました(こちら)。相前後して、親征反対&久光召命派公卿に「天誅」等の脅迫が続きました。久光の召命も、急進派の主導する朝議で16日に中止が決定しました(こちら)。自分の意向が通らないことに孝明天皇は激怒しましたが、翌17日、久光上京猶予の沙汰が出されました。

そして、7月18日には、長州藩が鷹司関白に攘夷親征の建白書を差出しました(こちら)。翌19日、鷹司関白は、因幡・備前・阿波・米沢等の在京諸侯に攘夷親征について諮問しましたが、諸侯は攘夷親征に慎重論を唱えました(こちら)。憤った急進派公卿は参内を停止しました(こちら)

参考:『贈従一位池田慶徳御伝記』二p432(2012.12.30)
関連:■開国開城:「大和行幸計画と「会薩−中川宮連合」による禁門(8.18)の政変」■テーマ別:「大和行幸と禁門の政変」 「因幡藩文久3後半」「将軍・後見職の再上京

■城代召命
【坂】文久3年8月1日、朝廷から上京の命のあった大坂城代の松平信古(のぶひさ)は、上京の請書を伝奏に提出しました。そこには、御用があってすぐには上京できないこと、委細は松平容保(京都守護職)に尋ねるようかかれていました。信古は、同時に容保に書簡遣わして上京延期を伝え、その旨を伝奏に説明するよう依頼しました。

<・・・先月29日、飛鳥井中納言殿(伝奏)より、大津詰家来をお呼び出しになり、別紙御書付(上京を命じたもの)をお渡しになった(こちら)。早々上京仕るべきだが、攘夷拒絶の件を仰せ出された時節柄であるので、いつ近海に異国船が渡来するとも測り難い。御城郭(大坂城)は海岸近辺にあり、異変時は火急に手配せねば間に合いかね申すので、上京となっては非常に心配である。もっとも朝廷からの御用を遅らせては恐れ入るので一応申し上げる。ぜひとも私が参上せねば成らぬのであれば早々に上京仕るが、先ず、御手前様までこの段を申し上げ置く。伝奏へも申し上げ置くので、右等をお含みの上、よろしく申し述べるようひとえにお願いする>(『七年史』の引用箇所より。意訳by管理人)

参考:『七年史』一(2004.9.26)

■越前藩の挙藩上京計画
【越】文久3年8月1日、京都から帰着した挙藩上京派の村田氏寿(巳三郎)は監察を解かれ、御側物頭を命じられました

村田は越前藩の挙藩上京計画のための探索・周旋のため、京都に滞在していましたが、 同月23日に、挙藩上京(参府延期)の藩論は逆転し、上京派(参府延期派)で藩の要職にあった本多飛騨(家老)・松平主馬(家老)・長谷部甚平(寺社奉行兼勝手方勤向心得)・千本藤左衛門(監察)が解職されるという政変が起こりました(こちら)。その後、村田は同月25日に京都を発って福井に向かっており、この日、降格に処せられたのでした。

関連:■「開国開城」「大和行幸計画と「会薩−中川宮連合」による禁門(8.18)の政変」■テーマ別文久3年:「越前藩の挙藩上京(政変)計画」「大和行幸と禁門の政変■越前藩日誌文久3  
参考:『続再夢紀事』ニ(2004.9.26)

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