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御陵衛士年表【A】前史(1)生い立ち
文政11〜万延1

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文政11
(1828)
篠原秦之進、筑後の石工篠原元助長男として誕生。その後、幼少から家業を省みず武芸を嗜む。(「秦」) 文政8-異国船打払い令(無二念打払い令)

天保3-徳川斉昭、幕府に海防を説く

天保4-全国で天保の大飢饉始まる





天保8-大塩平八郎の乱モリソン号事件

天保10-<アヘン戦争勃発>
天保12
-天保の改革
天保13-天保薪水給与令<南京条約>

関連:本館「開国開城:開国前夜(1)

弘化1-水戸藩主徳川斉昭、幕命により隠居・蟄居。幕府へ開国を勧告するオランダ国王の親書が届く。

弘化3- 米国東インド艦隊司令官ビットル、巨艦2隻(コロンバス号等)で浦賀来航。通商を求めるが幕府は拒否。孝明天皇、海防勅諭を幕府に下す。幕府、水戸藩に大砲鋳造許可

嘉永4-<中国で太平天国の乱始まる・ナポレオン3世即位>

関連:本館「開国開城:開国勧告とペリー来航予告
天保3
(1832)
服部三郎兵衛(武雄)、播州赤穂藩武士の家庭に誕生という。
天保6
(1835)
新井忠雄、奥州磐城平藩士山崎覚兵衛の次男として誕生。(「墓」)
伊東甲子太郎、志筑本堂家郷目付鈴木専衛門長男として誕生。
天保7
(1836)
内海次郎、武州川越で誕生←会津藩庁記録より逆算
天保8
(1837)
三樹三郎(伊東の弟)、志筑本堂家郷目付鈴木専衛門次男として誕生。
富山弥兵衛、薩摩に誕生。
阿部十郎、奥州出羽(秋田)に誕生(?)
天保10
(1839)
加納鷲尾、伊豆賀茂郡加納村に誕生。
天保13
(1842)
中西登、武州川越に誕生←会津藩庁記録より逆算
弘化1
(1844)
藤堂平助、武州江戸に誕生(藤堂和泉守落胤説あり)。←戒光寺墓碑より逆算
弘化2
(1845)
篠原(18歳)、久留米藩下坂五郎に入門。(「秦」)*下坂五郎は藩の柔術師範(良移心倒流)である。(『高』)
時期
不明
新井、母の実家、新井家を継ぎ、新井姓を名乗る。読書と剣術の稽古に励む。(新井墓碑より)
篠原、久留米城下に出て、藩士森兵右衛門に入門し、剣術を修行する。(「秦」)*森兵右衛門は久留米藩槍術師範(宝蔵院流)である。(『高』)
伊東・三樹の父、家老と対立して脱藩・一家志筑追放。父が家老の横手惣蔵と対立し、閉門・蟄居を申し付けられた。しかし、父は閉門中に脱藩してしまった(出家して高野山へ)。本来ならお家断絶となるところだったが、甲子太郎(当時大蔵を名乗る)が家督相続を許される。しかし、父が方々に借金をしていたことがわかり、一家は志筑追放となる。一家は父の祖母の実家(小桜村川俣の桜井家)に身をよせ、伊東・三樹は村塾に通った。(「伯・岳」)
伊東(鈴木大蔵)、水戸へ遊学に。(「伯・岳」)
伊東・三樹の父が、高野山僧侶のとりなしで許されて志筑近郊の高浜村大橋に戻り、村塾を開いて漢籍を教える。伊東、水戸から戻り、小井戸に村塾の支塾を開いて漢籍を教える。(「伯・岳」)
嘉永5
(1852)
伊東(18歳)・三樹(16歳)父の死。三樹、父の跡を継いで村塾で漢籍を教える。しかし、楠多門丸という旗を掲げて村の子供と合戦ごっこばかりやっていたので、生徒の数が減り、村塾は閉鎖に^^;(「伯・岳」)
新井(18歳)、志を抱いて江戸に出る。(「墓」)
嘉永5
6-オランダ商館長クルチウス、翌年の米国船来航を予告。

嘉永6
6ペリー浦賀来航・開国要求の大統領書簡を渡す(★)。将軍家慶没。
7-幕府、徳川斉昭を海防参与に任命
9-幕府、大船建造を解禁
嘉永5,
6頃
篠原(24,25歳頃)、久留米藩士小倉一之進に奉公する。(「秦」)
嘉永7/
安政1
(1854)
加納(16歳)、下田に入港した黒船をみて攘夷思想を抱く。江戸に遊学し、深川に居住して、北辰一刀流・漢学を学ぶ。 1-ペリー再び来航。
3-日米和親条約。下田・箱館開港(★)
12-日露和親条約
時期
不明
篠原、久留米藩家老有馬右近に奉公する(「秦」)
安政2
(1855)
加納(17歳)、安政の大地震にあい、郷里に戻る 10-安政の大地震。
安政3
(1856)
不明 7-米国総領事ハリス着任(★)
この頃、将軍後継&条約勅許問題起る
安政4
(1857)
不明 11-松下村塾発足。
安政5
(1858)
篠原(31歳)、有馬の出府に随行し、久留米を発って江戸へ。赤羽の久留米藩邸に入る。酒井伝次郎・妹尾末之進と交わり、尊攘の大義に身を捧げることを誓う。(「秦」)

*酒井は、文久2年、清河八郎の京都挙兵計画に参加するが、計画は失敗。さらに元治元年8月に天誅組の大和挙兵に参加するが、捕縛され、翌2年に六角獄で処刑される。(『高』)
1-老中堀田、条約勅許獲得のため京都へ。(★)
3-朝廷、勅許不可
4-井伊直弼、大老就任
5-将軍後継に家茂決定(一橋派敗北)
6-日米修好通商条約(無断調印)。
7-将軍家定没。家茂、14代将軍就任。幕府、斉昭らに隠居・謹慎を命ず。(★) 英・蘭・露と通商条約。外国奉行設置。
8-孝明天皇、戊午の密勅を水戸藩に。(★戊午の密勅と安政の大獄)
9-日仏通商条約。幕府、梅田雲浜らを捕縛。
12-家茂将軍宣下。
安政6
(1859)
加納(21歳)、娘をもうける。まもなく、再び江戸へ。 安政6年
6-神奈川(横浜)・長崎・箱館開港
8-幕府、斉昭に永蟄居・慶喜に隠居慎を命ず。
10−慶篤、勅書を祖廟に収めさせる。幕府、橋本左内・吉田松陰ら処刑。容堂、謹慎。
12−勅書返納の朝旨。返納反対派(水戸尊攘激派)の長岡屯集
時期
不明
(嘉永5
以降)
三樹、志筑藩士寺内増右衛門の養子として勤務→離縁→御役御免。志筑藩中小姓格寺内増右衛門の養子になる(寺内多門?)。山林取締役兼御朱印番につく。もともと酒好きだったが、酒量が増えた。養父はこれを好まず、離縁された。三木荒次郎と改名(鈴木姓は名乗れないので)。しかし、同僚の菅谷竹蔵と意気投合し、つるんで藩則をしばしば軽視。ついに職をとかれる。だが、藩主は三樹三郎(三木荒次郎)を惜しみ、他国へ行くことを禁じて金を若干下賜。しかし、国事に奔走しようと江戸へ向う。(「伯・岳」)
万延1
(1860)
■4月:篠原(33歳)、有馬家を脱して水戸へ。有志と交わる。(「秦」)*同月酒井は帰国。
三樹(25歳)、浪人詮議が厳しくなり、潜伏。
加納(22歳)、神田お玉ヶ池千葉道場入門。
3-桜田門外の変★)
8-水長両藩士による成破盟約(★)
9-幕府、慶喜・慶勝・容堂の謹慎解除。神奈川奉行所設置。
10-和宮降嫁勅許(★)
12-ヒュースケン暗殺
2003.1.10更新

前史(生い立ち・同志集結・新選組時代) 衛士時代 赤報隊
文政11-万延1 文久1−3 元治1 慶応1 慶応2 慶応3-1 慶応3-2 慶応4

<主な参考文献>
『史談会速記録』・『回天実記』・『幕末京都の政局と朝廷』
『高台寺党の人びと』・『共同研究新選組』・『幕末史研究』・・『新選組覚書』
『新選組史料集コンパクト版』・『新選組日誌上』(新人物往来社)収録の上記史料


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