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文久1 (1861) |
■7月:三樹三郎(三木荒次郎)(26歳)、深川の伊東道場で塾頭を務める兄・伊東(鈴木大蔵、29歳)を何度か訪ねる。(三木荒次郎書簡) ■篠原秦之進(34歳)、水戸から江戸に戻り、愛宕下の戸塚彦助道場(柔術)入門。(「秦」) ■加納鷲尾(加納道之助)(23歳)、この頃、深川の伊東道場に出入り。伊東に指導され「師匠同様」にする。(『史』) |
文久1年 2月-露軍艦ポサドニック号、対馬上陸・占領。 5/28-水戸浪士らによる英国公使館襲撃事件 7/26〜28−幕府、桜田門外の変犯人の水戸浪士の死罪・追放等の処分を行う。 11/15-和宮江戸到着。(★) 12/8−長州藩、「航海遠略策」を正式に建白(★ 12/23-江戸・大坂の開市、兵庫・新潟の開港延期のための幕府遣欧使節出発。 文久2:(本館「幕末日録文久2」 1/15-坂下門外の変(★) 2/11:将軍家茂、皇女和宮と結婚(★) 4/23:寺田屋事件(★) 6月:勅使大原重徳&島津久光の率兵東下。(★) 8/21:生麦事件。(★) 閏8.1:松平容保、京都守護職就任(★) 閏8.14宇都宮藩主戸田忠恕、山陵修補御用掛に 12/5:幕府、攘夷を奉答。 12.12:高杉晋作・久坂玄瑞ら、品川御殿山の英国公使館焼討ち。 12.13:諸藩に攘夷を布告(★) 12.15:水戸藩、勅諚(戊午の密勅)奉承を許される。 開国開城:「第2の勅使三条実美東下と攘夷奉勅&親兵問題 |
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文久2 (1862) |
■加納(24歳)、横浜金武所で剣術・槍術・柔術を修業。 ■服部三郎兵衛(服部武雄)、一説に「奸臣」を斬って赤穂脱藩。だとすれば幕末赤穂藩の「奸臣」暗殺事件は文久2年12月であるので、この時期。 |
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文久1? 文久2? |
■伊東甲子太郎(29,30歳?)、師伊東の娘ウメと結婚し、道場を継ぐ。また、この頃?京都に赴いたが浪人の詮索が厳しく江戸に戻るともいう。(「伯」『殉』) ■内海次郎・(28,29歳?)中西登(20,21歳?)、伊東道場で修業(元治元年には師範代を務めている。先代に弟子入りしていた可能性もあると思う) ■藤堂平助(18,19歳?)、深川の伊東道場で修業(寄弟子ともいう)(『史』)。入門時期は、文久元年以前、先代時だった可能性もないとはいえない ■篠原・加納・服部・佐野七五三助・大村安宅らが知り合う。この頃?彼らは伊東・三樹と知り合う。(「壬」) ■藤堂、近藤道場に出入り。(藤堂が近藤の内弟子だった説は根拠なし。逆に文久3年3月付近藤書簡によれば、近藤道場に剣術道具を置いていなかった模様なので、内弟子や食客として住み込んでいたわけではなさそう) |
文久3 (1863) |
1/7:幕府、「一方の御固め」に「尽忠報国」浪士募集(★) 1/16:近藤勇、小島家から鎖帷子借用。この日以前に、浪士募集に応じることを決める・藤堂も同じか? 1月:篠原、服部・加納・柴田小源太・元井和一郎・北村吉六・佐野・松本某・中野某・太田某・北川某らとで横浜における尊攘の機会を待つという。(「秦」)←恐らく大村も同様かと思われる。 |
文久3:(本館「幕末日録文久3」) 1月−後見職慶喜、入京。 1/29:国事御用掛、諸藩に浪士攘夷先鋒を諮問。 2月-総裁職春嶽入京。朝廷に国事参政・国事寄人設置。足利木像梟首事件。浪士組入京。 2/5:容保、春嶽に、武田耕雲斎に浪士をまとめさせて攘夷先鋒にと提案「「天誅」と幕府/守護職の浪士対策」 3月-水戸藩慶篤入京(藤田小四郎、金子建四郎も)将軍家茂上洛。親兵設置。加茂&泉涌寺行幸に将軍ら随従。 4月-石清水行幸。幕府、朝廷に対して攘夷を約束。慶喜、江戸に帰る。 5月-長州、攘夷決行(下関外国船砲撃事件)。老中格小笠原長行の率兵上洛。姉小路公知暗殺。 6月-将軍東帰。「梱外の委任」を守護職へ。越前藩の挙藩上京計画 7月-薩英戦争。越薩提携の政変計画 8月-大和行幸布告。会薩連携。天誅組大和挙兵。禁門(8.18)の政変。 9月-親兵解散。攘夷強硬派諸侯の滞京。横浜鎖港交渉開始。 10月-平野国臣の挙兵(生野の変)。島津久光、松平春嶽入京。 10/10:新選組局長近藤勇、一力茶屋で公武合体による攘夷を述べる 10/15:新選組、禄位辞退の上書を会津藩公用方に提出 11月-伊達宗城入京、慶喜入京(賢明諸侯会議への動き) 12月−長州の入京嘆願、参与会議創設 関連■本館「開国開城文久3」 |
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2/6:藤堂(20歳)、浪士組一員として江戸を出立 2/23:藤堂、浪士組一員として入京。清河、朝廷への建白を提案 (★) 2/24:浪士組、朝廷学習院に尊王攘夷の建白書提出 2/28:浪士組御所拝観/清河、安積を京都に招く 2/29:浪士組に攘夷の勅諚。浪士組に攘夷について意見を述べるように達し。 2/30:浪士組、東帰・攘夷を命じるようにとの内容を含む上書を学習院に? |
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3/3:攘夷のための浪士組東帰を命じる達文 (★) 3/10:藤堂、近藤ら17人と連署して会津藩に嘆願書(★) 3/14頃?藤堂、清河八郎襲撃に参加?(★) 3/15:残留浪士(藤堂含む)会津藩お預かりとなる。(★) 3月:篠原、将軍家茂上洛に前後して大坂に下り、その後、中国・九州を回り、京摂間で有志と交わり、特に、久留米藩の水野渓雲斎とはともに王事に尽すことを誓ったという。(「秦」) |
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4/10:残留浪士芹沢と近藤らの志の差が問題化/(★) 4/16:藤堂、守護職松平容保の御前稽古試合で土方歳三と対戦。(★) 4/17:残留浪士近藤の増長「水会利一存んの意図に」(★) 4/21:将軍警衛の壬生浪士下坂。藤堂も? (★) 4月:のちに篠原(36歳)に横浜居留地警備を依頼する(とされる)窪田治部右衛門、清河八郎と謀議の角で山岡鉄太郎らとともに謹慎・小普請入り。(『維』) |
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5月:篠原、大坂出立。上総・下総・奥州・越後等遊歴。(「秦」) | |||
6月:窪田、神奈川奉行所定番役取締役頭取に。(『高』)*篠原(36歳)・加納(25歳)・服部(32歳)・佐野・大村が、神奈川奉行窪田の依頼を受けて横浜居留区の警備を始めた(「壬」)というのはこの頃ではと思われる。 | |||
7月頃:この頃作成の壬生浪士リストに阿部慎蔵の名前がある。阿部十郎とも考えられる。(本人の史談では、元治元年に大坂に出て谷万太郎に入門したことになっている) | |||
8/18:藤堂、禁門の政変に壬生浪士一員として出動 | |||
9/18:藤堂、芹沢鴨襲撃に参加?(★) 9/26:藤堂、沖田総司とともに長州間者を襲撃?(★) |
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10月:篠原ら英国人3名が乱暴を働いたので、彼らを縛り上げて海岸に放置。外国人暴行の嫌疑を受け、横浜を脱出。篠原はその後、大目付伊沢美作守の子力之進を頼り、親類の雅橋勘之進宅に潜伏。(「秦」) |
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<主な参考文献> 『史談会速記録』・『回天実記』・『幕末京都の政局と朝廷』 『高台寺党の人びと』・『共同研究新選組』・『幕末史研究』(三十一人会) 『新選組覚書』・『新選組史料集コンパクト版』・『新選組日誌上』収録の上記史料 参考資料欄にサイトのタイトルとURLを明記することなく、他HP・同人誌・商業誌(創作を含む)・ レポート・論文等の参考に資すること、及び無断転載・複写・引用はお断りします。 なお、やおい(エロ)作品への悪用は絶対にしないでくださいm(__)m。 |
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