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御陵衛士年表【A】前史(3)上京へ
元治元年(1861〜64)

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1/2:慶喜ら有力諸侯、長州処分を議定。
1/13:久光、朝廷参与に
1/15:家茂二度目の入京、
1/21-将軍家茂参内。公武一和の勅愉(「汝は朕が赤子、朕之を愛する事子のごとし。汝朕を親しむこと父の如くせよ」が下る
1/29-山陵補修の功により、将軍家茂に従一位推叙の宣下


2/8:孝明天皇、容保に宸翰
2/11:幕府、長州訊問条目・征長出陣部署決定/容保、陸軍総裁職と征長軍副将任命/参与大名、慶喜に改革を迫る
2/13:容保・軍事総裁職転出
2/14:将軍家茂、諸侯と幕議相談することを朝廷に約束/慶喜、開国から鎖港攘夷に方向転換(参与会議の崩壊へ)
2/15:春嶽、守護職就任/横浜鎖港をめぐって参与の意見が対立
2/16:孝明天皇、容保に再び宸翰(守護職復帰要請)
2/19:朝廷、横浜鎖港攘夷・摂海防御を幕府に諭す

3/1:春嶽、朝廷尊奉と政体一新の意見書を提出/
3/2:枡屋宅に体制批判の張り紙/越前藩中根、町奉行永井尚志に政体一新を説くが容れられず
3/5:長州藩末家大坂召出しの朝命/
3/8:中川宮ら、慶喜に幕政一新の努力を求める
3/9:慶喜の朝廷参与辞任が許可される。(朝廷参与会議の廃絶へ
3/11:春嶽、慶喜に幕政一新を説く。
3/19:長州久坂玄瑞、水戸藩士と帰藩。大挙上京延期
3/20:慶喜、総督・指揮職任命の朝議
3/21:春嶽、守護職辞表を提出。
3/23:幕府、守護職・町奉行・新選組に市中守衛を命ず
3/25:将軍の上意により、慶喜総督・指揮職就任
3/27:天狗党の挙兵/長州入京嘆願

4/1:慶喜、水戸藩から守衛兵を借りる。
4/7:朝廷、春嶽の辞職許可/容保、京都守護職に復職の幕命/容保、守護職辞表提出
4/8:水戸藩主徳川慶篤、横浜鎖港断行を建言。
4/11:桑名候松平定敬の所司代任命
4/18:久光帰国
4/19:春嶽帰国
4/20:将軍家茂参内。庶政委任の勅定獲得。
4/21:容保、守護職の請書
4/27:朝議で三港閉鎖の討論。将軍帰府の勅許。

5/3−新選組近藤、進退うかがいで幕府を脅す
5/7:将軍退京
5/14:見廻組、会津藩に新選組の召抱えを打診
5/20:内山彦次郎暗殺事件
5/29:長州藩、進発を決定

6/5:池田屋事件(1)
6.15-長州軍進発
6/21:長州軍着坂。
6/24:薩摩藩、出兵を拒否。
6/27:孝明天皇、長州兵入京拒否の勅。

7/4-横浜鎖港交渉開始
7/17:新選組・会津藩士、慶喜の宿舎に乱入
7/19:禁門(蛤門)の変
7/23-長州追討の勅命。
7/28-天狗党追討軍出発。

8月〜幕閣の京都・諸藩敵視政策

8.5:四国艦隊、下関を攻撃
8.7:幕府、徳川慶勝に征長総督を任命。
8.8:宍戸藩主松平頼徳、水戸鎮撫のため江戸出立
8.13:幕府、征長部署決定
8.14:長州、四国艦隊と講和条約
8.18:唐門(会津藩守衛)開く
8.22:頼徳、水戸城にこもる市川派と開戦。
8.24:幕府、勅命により毛利父子の官位剥奪
8.30:将軍上洛の勅命

下旬頃-近藤勇の増長に反発した永倉新八・斎藤一・原田左之助ら切腹覚悟の近藤批判を会津藩にする。(★)
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5 ■藤堂、近藤・土方・沖田らと酒宴。

<ヒロ>
小説などではいわゆる「試衛館一派」とされる藤堂だが、実は彼らとともに行動した記録は少ない(出動は別として)。これはそういう意味で珍しい記録。この時期、新選組は自分たちを預かっていた会津藩が、征長戦のために守護職から軍事総裁職に転出し、守護職に前越前藩主松平春嶽が任命されたことに動揺していた。新選組が春嶽を暗殺する計画を立てているとの風評が会津藩に届いていたくらいである(★)。その風評が影響したのか、3月3日には新選組は会津藩の指揮下へとの幕命が届いていた(★)。軍事総裁職の指揮下に入るということは、新選組も市中見廻という警察的役割から脱皮できることを意味している。尊攘の先鋒となることを希望している彼らには願ってもないことであるそんなわけで、この日の酒宴は、新選組が会津藩の指揮下に入ったことを祝うものかもしれない。

結局、会津藩が守護職に復帰するので、新選組の役割も従前通りとなる。見廻の職務を不満とする近藤は、進退伺いを出している。その大意は「わたしたちは昨年以来、尽忠報国の有志の募集に応じて京にやってきている。去年8月に市中見廻を命令されてありがたく勤めている。しかし、見廻のための募集ではなかったはずだ。また、わたしたちも、見廻りなどのご奉公をするみこみではなかった。まんいち、変事(攘夷の機会)がおこったときに御奉公するつもりである。将軍が2度も上洛したのに、その決断がなく東下されることになれば、われわれの見込みもおぼつかなく、迷惑をかけるだけなので、自然とみんなが失策をすることになる。かえって幕府に苦労をかけることになるのではと恐れている。もし、将軍が(決断しないまま)京を発つなら、新選組解散を命じるか、一同、帰らせてほしい」(『改訂肥後藩国事史料』より:口語訳ヒロ)というものである。
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3/27に攘夷先鋒を目指す水戸藩激派(天狗党)が筑波挙兵。

加納鷲尾(加納道之助)(26歳)らは喜び、大村安宅を筑波に派遣。横浜における攘夷挙兵を待つ。(「履」)

<ヒロ>
文久元年1月以来、篠原秦之進、服部三郎兵衛(武雄)・加納佐野七五三助らは横浜での尊攘の機会を待つことにしていたという(「秦」)。横浜鎖港は朝廷の意思であり、幕府もその方針を固めていた(★)。天狗党挙兵後の4月8日には、水戸藩主徳川慶篤が横浜鎖港断行を建言しており、横浜での攘夷気運は高まっていた・・。

■伊東は天狗党を「慕」っていた。(「壬」) 加納ら同様、天狗党と呼応しての攘夷の機会を待っていたのではないか?→伊東の事件簿元治元年?
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阿部十郎、隊内粛清を繰り返す近藤勇路線を厭い、同調する者と脱走。(当人の史談では蛤門の変の前)脱走後は、大坂の谷万太郎道場に潜伏。高野十郎を名乗る。
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5 池田屋事件藤堂、額を割られて重傷を負う。→藤堂の事件簿元治元年

19 禁門(蛤門)の変藤堂も出動?
池田屋事件に激怒して京都に向かって出発した長州軍が、会津藩討伐のために京都市内に進入。戦闘が始まる。会津・薩摩・等の連合軍の前に長州は敗退。戦闘で京の市街は大火となる。新選組は会津藩の一隊として参加。7月21日には長州勢追討のため天王山を攻めた。永倉新八関係の諸資料では、この戦闘に藤堂が参加したとされていることがある。

<ヒロ>池田屋で重傷を負った藤堂が禁門の変に参加したはずはなく、療養のため江戸向かっていたという見方がある(史料的根拠はない)。永倉は一貫して藤堂は出動と記しており、出動した可能性も捨てられない。 →藤堂の事件簿元治元年
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4 藤堂、池田屋事件の働きに対し、恩賞金10両と別段金10両の合わせて20両を受け取る。


■8月上旬? 加納、武田耕雲斎への助勢を断る
加納、千葉道場の先輩である庄司弁吉・真田範之介から<武田耕雲斎が水戸に帰り、攘夷の指揮を執り、奸物を一掃しようとしている>と水戸行きを誘われるが、思うところあって断った(「履」)

■8月上旬? 伊東、天狗党助勢を断念
水戸藩主名代松平頼徳の常陸出張時、江戸上野の雁鍋屋で同志60数名が天狗党助勢のための集会を開いた。伊東も加わるつもりで集会に参加したが、伊東を見込んだ久留米藩脱藩の古松簡治に、「今回はきっと負けるに違いないから、あなたは江戸に残って、後日を期してくれ」と説得されて断念した。京都で国事のために尽くしたいとの気持ちは高まる一方で、同志の篠原・服部らと上洛を誓った。(「壬」)

■背景
水戸では、5月、筑波に挙兵した天狗党(筑波勢)の属する尊攘激派(改革派)の政敵、市川三左衛門ら保守門閥派(鎮派)が、「天狗狩」に動き出し、南上して江戸に迫った。市川派シンパの幕閣は26日激派の執政武田耕雲斎らを譴責し、水戸藩主徳川慶篤は28日武田ら激派を罷免・謹慎に処した。市川派が執政について藩政を掌握し、武田らは水戸に去った。6月9日、幕府は市川派の働きかけで天狗党追討令を出し、18日には市川らは、天狗党鎮圧のため江戸を出立た。一方、水戸の激派は慶篤が横浜鎖港を実行せず、また武田らを罷免したことに憤激し、江戸の藩庁を刷新しようと南上して小金に屯集した(大発勢)。7月5日、激派の説得で、慶篤は再び激派を登用した。水戸で謹慎していた武田も南上し、松戸に至った。これら政治的動きとは別に、筑波勢は9日、追討軍を破った。市川派は激派に帰した江戸に戻れず、水戸を目指し、23日に入城すると、自派を執政につけて水戸を掌握し、激派を圧迫した。筑波勢は25日に水戸城に迫ったが、市川派に撃退された。

藩内の混乱を鎮撫するために、慶篤は水戸藩支藩の宍戸藩主松平頼徳を水戸に派遣する許可を幕府に求めていたが、同月30日、頼徳に水戸に赴くようにとの幕命が下った。頼徳は8月4日に江戸を出発し、8日に常陸片倉に到着したが、頼徳の下には下総国小金付近に屯集していた水戸藩士民数千人が集り、武田らもこれに加わった。10日、頼徳は兵を率いて水戸城下に迫ったが、市川らは兵の入城を拒んだ。そうこうしているうちに城兵が頼徳の兵に発砲し、戦闘となった・・・。入城をめぐって騒乱となるのを嫌った頼徳はいったん引いたが、18日、水戸藩家老榊原新左衛門らを率いて再び水戸に向かい、入城を求めた。しかし、市川はこれを拒み、22日、両軍は開戦した・・・。(本館の「水戸藩かけあし事件簿」で天狗党挙兵を準備中)

伊東の参加した集会について→伊東の事件簿元治元年
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■藤堂、将軍上洛要請と隊士募集に東下する近藤に先発し、伊東に会って新選組加盟を勧誘。(加納談『史談会速記録』)

(元治元年8月下旬〜9月上旬?−藤堂、東下して伊東を新選組に勧誘。
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■9月中〜下旬頃、伊東、近藤勇と話し合う
(1)上京して尊王攘夷に身を捧げる計画をしているとき、近藤の隊士募集との噂を耳にした。伊東はよい機会だと近藤に面会して、主義・長州処分などについて議論した。近藤が伊東の議論に賛成したので加盟を約束した。(『新撰組(壬生浪士)始末記』)
(2)近藤とともに東下した藤堂は伊東の寄弟子である。彼が、新選組の同志はほとんどが尊王派であり、加盟しないかと誘った。そこで近藤に会って、いろいろ話し合った。(加納談 『史談会速記録』104)←加納は伊東の元へは剣を学ぶために出入りしていた。

<ヒロ>
近藤の江戸到着は9月9日なので、伊東と近藤が会ったのもそれ以降。(藤堂の江戸到着は近藤と同時かそれより前だとされるので、藤堂が勧誘したのは8月中の可能性もありますが)。ちょうど、攘夷を本旨とした天狗党の筑波挙兵が藩内党争に変質し、それをきらって攘夷実行のため横浜に向った天狗党応援の諸士(芳野桜陰ら)が捕縛され、横浜攘夷も不可能になった頃になります。さて、近藤は、かねてから市中見廻の役目を不満に思っていました。自分たちは尽忠報国(尊王攘夷)のための集団だと定義していたからです。ところが、池田屋事件により、ますます、彼が本来目指していた姿からは遠ざかってしまいました。そんな近藤にとって、京都に上って尊王攘夷に尽力したいと考える伊東とは意見があったこのではないでしょうか。

(3)藤堂は長年の親友、伊東を訪ね、−自分は尊王攘夷のために近藤と同盟を結んだが、近藤は「幕府の爪牙」となり、当初の目的である尊王攘夷は達成できそうもない。近藤が江戸に来るので、これを機会に彼を殺して、尊王家のあなたを隊長とし、新選組を純粋の尊王党にしたい−と言った。伊東は驚いたが藤堂に同意し、とりあえず新選組に同盟して、京都でこれらを実行することを密約した。その後、近藤と面談し、尊王について談じた。近藤は伊東のたくらみに気づいたがさりげなく伊東に同意したので、伊東の同盟が決まった。(永倉の談話等を基に記者が書いた読み物『新撰組顛末記』)

元治元年9月頃−伊東、近藤に会って新選組加盟について話合う

<ヒロ>永倉は、藤堂と伊東の会話を知りうる立場にはいえません。また、近藤殺害密約が本当にあったとしたらそれを誇示することこそあっても、隠す必要のない御陵衛士生き残りの遺談・回想録においても、殺害密約は語られていません。また、近藤が伊東のたくらみに気づきつつ加盟を了承するのも不自然。『顛末記』の藤堂の殺害教唆説は後の対立をふまえた後づけの想像であり、信憑性に欠けるといっていいと思います。もともと『顛末記』は、おもしろおかしくするために記者の想像・誇張も入っていることにも留意が必要です
9.1:幕府、参勤交替を文久2年の改革前の状態に戻す
9.5:天皇、禁門の変の功により容保に剣一口下賜。
9.6頃−近藤・永倉・尾形・武田、江戸へ出立(★)
9.9:近藤勇ら江戸到着・会津藩公用人野村左兵衛・公用方広沢安任、幕閣と面談するが形式的に終わる。
9.10-幕府、会津藩に月1万両米2千俵を与えると決定
9.11-大目付、野村を呼び出し、叱責。勝、西郷と会見。天狗党応援の芳野桜陰ら幕府に捕縛される。
9.15-御所の九門開く
9.17-容保、将軍に上洛要請の直書
9.26-容保、公用人小森を尾張藩に遣わし、上京要請。頼徳、元水戸藩家老鳥居瀬兵衛らを従えて幕府監軍戸田互助と会見。ともに江戸に向うことを約束。
9.27-常野追討軍総括田沼意尊、頼徳らを水戸に召喚。
9.28-田沼、頼徳及び従士を監禁。頼徳家士、主難を救えず自刃。
■伊東、同志に相談し、自費上京を決定
伊東は近藤に会った後、同志と相談の上、上京することを近藤に約束した。しかし、加盟するかどうかは上京してから決めることにした。自費で上洛と決し、上洛前に会津藩公用人野村左兵衛に挨拶をした。(加談 『史談会速記録』104)
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加納、神奈川奉行所に暇願いを出す。 10.1−在京老中阿部、関白二条に詰問される/幕府、頼徳(宍戸藩主)と父頼位の官位を奪い、藩邸没収。
10.2−阿部、東下
10.5-幕命により、頼徳切腹。
10.7−公用人手代木、征長諸藩重臣とともに尾張藩士に出征緩慢を詰問。
10.11-近藤勇、松本良順を訪ね、西洋事情について聞く



10.16-容保に御所内凝華洞詰警衛継続の朝命

10.22−大阪城で征長の軍議


10.25−第一次征長戦、天皇、容保に禁門の変以降の功をねぎらい短刀下賜。


10.27−近藤、帰京
10.29−容保、将軍進発要請のため公用人小森を東下させる。
三樹(三木荒二郎)、志筑藩より隠居料2俵授かる。(「分限帳」)←市居浩一氏提供資料
12 近藤、隊士募集での新規入隊者(一の印)と入隊希望者(ニの印)を会津藩に通知。ニの印は伊東・三木・篠原・内海・柴田・加納・大村・浜本・中西・佐野。(『会津藩庁記録』(東京大学史料編纂所蔵)。(★)
15 ■伊東ら、入隊希望者(入隊者ではない)として江戸を出立近藤・永倉らは、新入隊士14名と加入希望の伊東・三木・篠原・内海・加納・大村・中西・元井ら8名、江戸を出発(井上家文書)。ただし、伊東らは別途、大森の旅宿「寿留賀楼」から発つ。(「残」)(★)
16 大村安宅、神奈川の関所を避けて間道に入る(西村兼文「新撰組始末記」・「残」)。伊東ら戸塚に宿泊(「加納家系譜」)(★)
17 鶴岡八幡宮に参詣。藤沢宿で近藤らと合流。(「系譜」「履歴書」)
大村安武、横浜での攘夷が露見し、幕府に捕まる(「秦林親日記」)
27 近藤・伊東ら一行、京都に着く。伊東らはしばらく近藤妾宅に遊食する(『殉難録稿』)(★)
11
新選組土方、征長軍念頭の「行軍録」作成。伊東らの名前も。

伊東の上洛以来、新選組副長の山南と意気投合するという(『新撰組顛末記』)
11.2−西郷隆盛(総督参謀)の長州藩(吉川経幹)調停
11.4−征長総督使者(薩摩の大島、吉井ら)岩国出張
11.11−長州三家老ら切腹
11.16−新選組近藤、大阪問屋筋に15万両の献金を申し付け
11.18−天狗党追討に会津藩出動の勅命、慶勝、長州藩謝罪を上奏
11.27−問屋筋、献金の日延べを要請
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20 伊東らの同志大村安宅、横浜で切腹 (「秦」) 12.3−天狗党追討軍京を出立。
12.15−老中松前・若年寄立花上洛(慶喜江戸召喚のため)
12.18−幕府、会津藩に金7000両を賞賜。
12.22−天狗党加賀藩に降伏。
12.26−高杉晋作挙兵
12.27−慶喜帰京。慶勝、征長軍撤兵の指令
12月中:新選組、大阪豪商から銀6600貫金策
2001.11.09 (2002.4.26、2003.1.10、2004.3.8)

【A】前史(生い立ち・同志集結・新選組時代) 【B】衛士時代 【C】赤報隊
文政11-万延1 文久1−3 元治1 慶応1 慶応2 慶応3-1 慶応3-2 慶応4

(注)参考史資料は同時代史料後年の回想録・回顧談伝記・口伝、実話に取材した読物の4種類に分けて色分けしました。同項目に関して複数の史資料がある場合は成立年代順に並べました。資史料の語句をそのまま引用しているのは*「」*で囲んだ箇所だけで、残りは要約/パラフレーズです。
<主な参考文献>
『史談会速記録』・『回天実記』・『幕末京都の政局と朝廷』・『徳川慶喜公伝』
『高台寺党の人びと』・『共同研究新選組』・『幕末史研究』・『新選組覚書』
『新選組史料集コンパクト版』・『新選組日誌上』(新人物往来社)収録の上記史料

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