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天保6〜文久3(1835〜1863) 数え1〜29歳 |
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年号 (西暦) |
歳 | 伊東のできごと | 幕末のできごと |
天保6 (1835) |
1 | 常陸志筑藩(交替寄合旗本の本堂家)郷目付鈴木専右衛門長男として誕生。(「伯・岳」) | 天保3〜ー天保の大飢饉。 天保8(1838)大塩平八郎の乱、米国船モリソン号浦賀入港。 天保10(1840)蛮社の獄 天保13(1842)無二念打払令廃止 天保14(1843)首席老中阿部正弘。 関連■本館「開国前夜(1)」 |
天保9 (1838) |
4 | 弟多聞(のちの三樹三郎)誕生 | |
天保14 (1843) |
9 | 妹よし(のち須磨)誕生 | |
時期不明 | 父専右衛門、家老と対立して脱藩・一家志筑追放:父が家老の横手惣蔵と対立し、閉門・蟄居を申し付けられるという。しかも、父は閉門中に脱藩してしまった(出家して高野山へ)。本来ならお家断絶となるところだったが、甲子太郎(当時大蔵を名乗る)が家督相続を許される。しかし、父が方々に借金をしていたことがわかり、一家は志筑追放となった。(「故鈴木忠良伝」 以下「故」) 一家は父の祖母の実家(小桜村川俣の桜井家)に身をよせた。甲子太郎(当時大蔵)は弟とともに村塾に通ったという(「故」) |
弘化1(1844)−水戸藩主斉昭、幕府より江戸にて隠居謹慎の命。10代当主は慶篤に。斉昭派(武田耕雲斎・吉成信貞)、無願出府して幕府に斉昭雪冤を訴え、謹慎解除。 弘化2(1845)−斉昭派水戸藩士・神官ら無願出府して斉昭親政を幕府・諸藩に嘆願。水戸藩、弘道館教授頭取会沢正志斎(斉昭派)を罷免。 弘化3(1846)−米国使節ビットル浦賀来航 弘化4(1847)幕府、品川砲台建設 嘉永2(1849)−斉昭、幕政参与に復帰。英国船マリナー号浦賀入港。 嘉永3(1850)−斉昭、老中に蝦夷地開拓を建議(行われず)。 嘉永4(1851)−斉昭、鉄砲の鋳造を命じる。那阿湊に砲台建設 関連■本館「開国前夜(2)開国勧告とペリー来」「水戸藩事件簿」 |
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(1847) | 13 | 甲子太郎(鈴木大蔵)、水戸へ遊学に。沢小路の金子健四郎道場に学ぶ (こと書簡) | |
時期不明 | 父・専右衛門が、高野山本王院のとりなしで許されて志筑近郊の高浜村大橋に戻る。村塾を開いて漢籍を教える。(「故」) | ||
時期不明 | 甲子太郎(鈴木大蔵)、水戸から戻り、小井戸に村塾の支塾を開いて漢籍を教える。(「故」) | ||
嘉永5 (1852) |
18 | 父・専右衛門の死。 *弟、三郎(多聞)、父の跡を継いで村塾で漢籍を教える。しかし、楠多聞丸という旗を掲げて村の子供と合戦ごっこばかりやっていたので、生徒の数が減り、村塾は閉鎖に^^;(「故」) |
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嘉永6〜 万延1 (1853〜 60) |
19 〜 26 |
*この時期には、剣(北辰一刀流)・国学・和歌・水戸学などを修め(深め)たと思われる。 *時期不明ながら江戸に出る。姉ことの晩年の書簡によれば、伊東は金子の供で江戸に出たとされる。金子は安政元年に水戸藩江戸馬廻組として江戸へ出ているのでこの時のことか?なお、万延元年の桜田門外の変の水戸脱藩者の多くは金子門下。伊東とは相弟子になるはず←大河で桜田門外の変と芹沢や近藤を結びつけるくらいなら、伊東を出してほしかったなぁ)。 *こと書簡によれば、そののち、伊東は志筑藩邸の伯母の屋敷から麹町の杉山に師事したという。江戸切絵図によれば、麹町の近くに杉山藤七郎という武家があるがその人物か。また、『千代田村史』によれば「志筑藩の剣豪」に杉山藤七郎なる人物がいて、本堂家家臣が道場に通ったとの記述があるので、伊東が師事したという杉山はこの人物だと思われる。また、金子の剣の師匠は杉山東七郎だが、同一人物の可能性あり (時期不明:一度京都に向かったが、幕吏に疑われて江戸に舞い戻ったとも。(『殉難録稿』)) |
嘉永6(1853)ペリー浦賀来航。 安政1(1854)日米和親条約 安政2(1855)安政の大地震 安政3(1856) ハリス来日 安政5(1858)勅許なしの日米修好通商条約、水戸藩へ密勅降下。安政の大獄始まる。 安政6(1859)勅書返納問題。水戸藩激派長岡屯集 万延1(1860)−桜田門外の変、斉昭死去、水長盟約 関連■本館「ペリー来航」「和親条約と安政の幕政改革」「総領事ハリス来日・通商開国へ」「将軍後継問題と条約勅許」「戊午の密勅と安政の大獄」「勅書返納問題と桜田門外の変」■「水戸藩事件簿」 |
文久1 (1861) |
27 | 7月−このころ、甲子太郎(鈴木大蔵)、江戸深川の伊東道場ですでに塾頭を務める(三木書簡) このころ?加納鷲尾(のちの御陵衛士)が深川伊東道場に出入りを始め、甲子太郎に?指導を受ける。(加納談『史』) |
3月:長州藩、航海遠略策を藩論に。 5月:水戸浪士、英国公使館を襲撃。(東禅寺事件) 6月:幕府、大船の建造、外国商船の購入を解禁 10月:皇女和宮、家茂との婚儀のため江戸へ。 12月:遣欧使節品川出港 関連■本館「公武合体策と和宮降嫁」 「水長盟約と航海遠略策」 |
文久2 〜文久3 (1862 〜63) |
28 〜 29 |
時期不明:師匠の伊東精一(誠一郎?)が病没。遺言と門弟の推挙で、師の娘ウメを嫁にし、伊東道場を継ぐ(伊東大蔵と改名。以下、伊東)。塾頭は内海次郎・中西登、門弟は50〜60名。(「伯・岳」) このころ?藤堂平助、伊東の寄弟子となる。(加納談『史』) |
文久2:(本館「幕末日録文久2」 1月−坂下門外の変 2月−和宮降嫁 3月- 吉村寅太郎、坂本龍馬脱藩 4月−吉田東洋暗殺、島津久光の率兵上洛。寺田屋事件。 5月−長井雅楽謗詞事件。松平容保・松平春嶽政務参与に。 6月−勅使大原重徳&久光東下。 7月−長州藩、藩是を「破約攘夷」へ。慶喜・将軍後見職、春嶽総裁職。 8月−松平容保の守護職就任問題。久光叙任問題。薩長融和の勅諚改竄。生麦事件。将軍上洛決定。国是七条。 閏8月−容保、守護職拝命。宇都宮藩、修陵の建白。参勤交代の緩和(文久2年の幕政改革の始まり) 9月−幕府留学生(榎本武揚ら)、長崎出港してオランダへ。攘夷奉勅問題。 10月−大政奉還が初めて幕議に。大久保一翁の大政奉還論。勅使三条実美・姉小路公知東下。 11月−幕府、攘夷勅旨奉承決議・親兵設置拒否。大赦の令 12月−長州の高杉晋作ら、英国公使館焼き討ち。守護職容保京都着。 関連■本館「開国開城文久2」 文久3:(本館「幕末日録文久3」) 1月−後見職慶喜、入京。 2月-総裁職春嶽入京。朝廷に国事参政・国事寄人設置。足利木像梟首事件。浪士組入京。「「天誅」と幕府/守護職の浪士対策」 3月-将軍家茂上洛。親兵設置。加茂&泉涌寺行幸に将軍ら随従。 4月-石清水行幸。幕府、朝廷に対して攘夷を約束。慶喜、江戸に帰る。 5月-長州、攘夷決行(下関外国船砲撃事件)。老中格小笠原長行の率兵上洛。姉小路公知暗殺。 6月-将軍東帰。「梱外の委任」を守護職へ。越前藩の挙藩上京計画 7月-薩英戦争。越薩提携の政変計画 8月-大和行幸布告。会薩連携。天誅組大和挙兵。禁門(8.18)の政変。 9月-親兵解散。攘夷強硬派諸侯の滞京。横浜鎖港交渉開始。 10月-平野国臣の挙兵(生野の変)。島津久光、松平春嶽入京。 11月-伊達宗城入京、慶喜入京(賢明諸侯会議への動き) 12月−長州の入京嘆願、参与会議創設 関連■本館「開国開城文久3」 |
時期不明(文久3年7−12月か?):篠原秦之進・服部三郎兵衛(当時武雄))・加納・佐野七五三助・大村安宅ら、のちの同志、横浜居留区の警備に就く。神奈川奉行所の窪田治部右衛門に頼まれたという(西村兼文『壬』)←窪田が神奈川奉行支配定番役頭取取締に任じられたのは文久3年7月21日であり、、同年12月3日には西国郡代(日田の代官)を命ぜられているのでその間のことになる。また、服部が赤穂藩出身で家老暗殺事件に関りがあったという説が本当なら、事件は文久2年12月なので、横浜警備についたのもそれ以降のこととなる。 (おそらく加納の紹介で)、伊東、篠原らと知り合う。国事に奔走することを約する。(『壬』) |
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(時期不明:一度京都に向かったが、幕吏に疑われて江戸に舞い戻ったとも。(『殉』)) |
(注)参考史資料は同時代史料、後年の回想録・回想談、伝記・口伝、実話に取材した読物の4種類に分けて色分けしました。同項目に関して複数の史資料がある場合は成立年代順に並べました。資史料の語句をそのまま引用しているのは「」で囲んだ箇所だけで、残りは要約/パラフレーズです。 |
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