9月の「今日」 幕末日誌文久3 テーマ別文久3 j事件:開国-開城 HP内検索 HPトップへ

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文久3年8月10日(1863年9月22日)
【江】将軍家茂、老中以下有司を召出し、不日の鎖港交渉開始を布告。
京】西国鎮撫使辞退の中川宮、代案として八幡宮行幸を建議。
京】中川宮から親征建議を依頼された因幡藩主池田慶徳・備前藩主池田茂政打ち合わせる
(親征布告、八幡行幸、
廟算一定、関東に厳重な沙汰、なお因循すれば親王の内外征討)
【京】土佐藩士下許武兵衛、会津藩公用局員を訪ね、会土連携を図る
【京】壬生浪士、佐伯又三郎殺害(久坂玄瑞による殺害説あり)

■横浜鎖港交渉
(1)老中・諸有司への交渉開始宣言
【江】文久3年8月10日、将軍家茂は老中以下布衣有司を召出し、不日の鎖港交渉開始を告げ、奮励するよう諭しました。
いよいよ破約攘夷だというので、諸家・町家問わずは大騒ぎになったそうです。(*11日説もあり。仮に『維新史料綱要』の10日説を採りました)。

関連■テーマ別文久3「横浜鎖港交渉」 参考:『東西紀聞』ニp32・『維新史料綱要』四(2004.10.2)

しかし、江戸での動きを未だ知らない京都では・・・↓
☆真木和泉のお天気日記 晴

■禁門の政変へ
(2)在京薩摩藩、政変の連携相手を探り始める
【京】文久3年8月10日、在京薩摩藩士奈良原幸五郎(繁)、高崎左太郎(正風)、上田郡六、井上(石見)弥八郎等は、政変の連携相手を見極めるため、諸藩の様子を探り始めました。

同年8月中(推定)に作成された奈良原幸五郎覚書(意訳by管理人。以下同様)全文意訳こちら
主上が、大和国神武陵へ行幸等を仰せ出される(但し、8/13)。そのほか、「暴論之三条」(=三条実美)は、「第一逆威逞」しく、上は主上に迫り、下は万民を驚かせ、「種々様々偽勅拵」え、此節に至っては、さらに「跋扈」が「甚敷」、この結果、浪人共は殺害・放火を心のままに行う。その上、今回の行幸について、御家・加州・細川・久留米・土佐・長州に対し、御高割で十万金の献金を来る二十七日までに上納せよとの朝命が下る(但し、8/15)。かつ、中川宮様へ西国鎮撫将軍の勅命が下り(8/9)、急々に下向される様、昼夜分けず、伝奏衆より御催促がある。その上、牧和泉(=真木和泉)・桂小五郎等も毎度参殿して、甚だ不届きな主張をし、宮様(=中川宮)の諸大夫・武田相模守へ浮田何某と申す者を遣し、「不似合」な振舞をするなど、あれといい、これといい「実々神人怒るべきの時節到来の機会と見及び候間」、奈良原幸五郎(繁)、高崎左太郎(正風)、上田郡六、井上(石見)弥八郎らで談じて、「去る十日頃より頻りに諸藩の模様相伺い候処、会藩以ての外奮発致し居り候事情俄に探り得候間・・・(後略)
(出所:京都政変ニ付奈良原幸五郎覚書『玉里島津家史料』ニp426より作成。、()内、下線by管理人)

<ヒロ>
なぜ、諸藩の模様を調べる必要があったのか。
高崎・奈良原は、かねてから、天皇の意に反して尊攘急進派が親征を強行しようとするなら、彼らを「朝敵」として直ちに討伐すべきだと考えていました。

7月12日、久光召命の沙汰が下りると、奈良原は、沙汰書ならびに近衛忠煕前関白父子・二条右大臣・徳大寺内大臣連署の久光急速上京を求める書簡(こちら)を携えて鹿児島に戻りましたが、薩英戦争直後の混乱で、久光は直ちに上京することが困難でした。そこで久光は奈良原に「趣意」を言い含めて、折り返し上京させました。 奈良原は8月4日に入京しますが、出京時とは京都の形勢が一変しており、翌5日、「趣意」が立たなくなったことを国許に知らせています。管理人は、その「趣意」は、在京薩摩藩が、天皇の了解のもと、朝廷上層部の公武合体派/攘夷親征反対派、そして挙藩上京する越前藩と連携して、久光入京前に政変(急進派追放/朝廷改革)を決行することではないかと推測しています(8/5の(1))。 しかしながら、在京の薩摩藩士はこの頃、約100名。単独では事を起こせません。そこで彼らが組もうとしていたのが越前藩でしたろが、7月23日、越前藩の藩論が一転して挙藩上京派の重職は罷免され(こちら)、気脈を通じていた監察村田氏寿も帰国してしまいました(こちら)。しかも越前藩の挙藩上京計画は尊攘急進派に察知されており、それを阻止しようとするテロ・脅迫行為で京都は大騒動になっていました。越前藩と手を組むことはあきらめざるを得ない状況でした。さらには、親薩摩の中川宮が尊攘急進派の嫌疑を恐れて薩摩藩と音信を絶っていました。

ではどうすべきか。まず、7月17日に下った召命撤回を伝えるために鹿児島に向かった村山斎助が、久光から「趣意」について何らかの指示を受けて、折り返し上京してくるはずですから、それを待つということが考えられます。奈良原は京都・鹿児島を23日間で往復しました。村山の出京日が明確ではないのですが、仮に7月17日に発ったとすると、8月10日ぐらいには着京すると思われていたのではないでしょうか。しかし、村山は帰ってこない(「道中不順」のため、8日に小倉着)。その間、事態はますます悪化し、村山の帰りを待つ間、連携相手を模索し始めたといったところでしょうか。

■攘夷親征か西国鎮撫かvs
(3)中川宮、再度の西国鎮撫固辞
【京】文久3年8月10日、中川宮は、親征であれば先鋒を願うが西国鎮撫は断ると、西国鎮撫の内命を改めて固辞しました。

昨日、御使いを通して、「御親征御基本」をお立てになるので鎮撫の御沙汰を御請するようにと仰せつけられました。もし、御親征の儀であれば、群議を御聞きになった上で先鋒を命じられるようどこまでも願いますが、鎮撫一條の儀は、御断り申し上げます。
(出所:久邇宮文書『孝明天皇紀』巻百六十七p14-15の奉答案より作成。)

<ヒロ>
中川宮は、前9日、西国鎮撫の内命の辞退を上書しましたが、朝廷は、即日議奏二名(徳大時実則・長谷川信篤)を派遣して、請けるよう説得させました(こちら)。宮は受諾しませんでしたが、改めて使者の趣に奉答したのだと思われます。

(4)中川宮、西国鎮撫の代案・八幡行幸を建議
【京】同日、中川宮は、「上之失体」である西国鎮撫を固辞し、その代案として、八幡宮行幸の布告・諸藩の召命を建議しました。上書中、西国鎮撫の内命は、天皇が、中川宮が親征を度々言上するのを疎んで他国へ遠ざけようとするようだ、と批判しました。


前9日に中川宮邸に使者として赴いた議奏二名は、この日、書を以て、中川宮に八幡行幸の建白を督促しました。これに対する宮の奉答(案)は以下のようなものでした。
昨夕、徳長(徳大時実則・長谷川信篤)両名が入来し、勅諚の旨を段々申し聞けたが、尊融は、「飽迄御請」け申し上げぬ旨を答えた。いろいろと話したが、頓着致さぬ両人より、何とか勘考はないかと尋ねたため、八幡行幸にては如何かと申した。すると、それを建白にするよう頼むので、やや勘考の上、そうならば明日上書しようと申したところ、ようやく帰参した。定めし今日は因州よりこの件の言上があると存ずるゆえ、その辺、御採用にてゆるゆると行幸を催されたく存じ上げる。「表へ差出候書面」は、実に「上之御失徳数候様」になり畏れ入るが、そのように認めねば、叡慮の場に到らぬと存じた。失言、罪多きことを御断り申し上げる。
(出所:久邇宮文書『孝明天皇紀』巻百六十七p14-15の奉答案より作成。)

中川宮の奉答案中にある「表差出候書面」、すなわち八幡行幸の建白の概容は以下のようなものだったようです。(箇条書き、下線、()内は管理人)
・・・(天皇が)「親王御軽、諸臣同様之思召之様」に存じられます。また、尊融が「時々伺公(=伺候)御親征辺申上ヲ御疎ミニテ他国へ被遠サケ候様」に存じます。
全体、今度の一件は、「朝廷二兵権被為有様勤王之諸藩初浮浪等申上候儀」と存じます。であれば、尊融に鎮撫を命じられた儀は「如何成御失策」と後年にはなるやも計り難く、よって御為になるとは飽く迄存じられません。また、この儀が、(天皇の本心から出たものではなく)他より言上されたのであれば、叡慮を推察し、そうそう御請は申し難いことです。尊融が一身に勅勘を蒙る方が御為と存じ、御断り申し上げた次第です。
このままでは「人心折合」も如何。そこで「八幡行幸ヲ先天下ノ諸藩ニ布告上京ヲ被命存候」。この辺であれば「内々天子二ヘイケンハ可帰」と存じ上げます。この辺について、今一度叡慮をめぐらされるよう存じ上げます。
(出所:久邇宮文書『孝明天皇紀』巻百六十七より作成。注:『孝明天皇紀』には、「御稿塗抹改竄御文理完からされとも姑く左に繕寫して時事の参照とす」との注釈あり)

<ヒロ>
中川宮、強気・・・というよりかなり怒っているようです。天皇にもかなりキツイことをはっきり言ってます、あてこすっています。(内命降下の内情はこちら)。この書面からは、中川宮が従前から親征推進派(少なくとも表面上は)だったこともうかがえます。

参考:『孝明天皇紀』巻百六十七(近代デジタルライブラリー)p14-16(2013.1.3)

***
(5)因幡・備前両候の建白案
【京】文久3年8月10日、中川宮から親征の建議を依頼された因幡藩主池田慶徳・備前藩主池田茂政は、打ち合わせの結果、親征布告・祈願のための八幡行幸・「廟算一定」の上の幕府への厳重な沙汰・なお幕府が因循する場合の親王による内外の征伐実行を上書することになりました。


この日、慶徳・茂政兄弟が打ち合わせた内容は以下の通り
宸断をもって御親征を止められ、中川宮が「巡撫使」として西国に御進発という御内意を仰せ出された儀は、御英断のほど、畏れ入ります。しかし、親王家が諸道を下られることは容易ならぬことですので、「御廟算御一定」の上でなくては御成功はあるまいと存じます。
先ごろ、御親征を下問蒙った際、とかく可否の儀は申し上げませんでした(注)。いよいよ御親征を仰せ出されては「公武之間判然相分」れる重大事ですので、関東で「決断」すべきと存じますが、関東は「姑息苟安而巳」で「毎事朝政二悖」りますから、時勢は益々切迫しましょう。
この上は、先達ての御内意の通り、御親征の儀を御決断になり、天下へ御布告になり、祈願のため八幡宮に行幸の上、「御廟算御御一定御基本御一定」になり、「厳二関東へも御沙汰」を下せば、関東も定めて「驚愕悔悟」し、真に叡慮を尊奉仕るかと存じます。
それでも(幕府が)「因循姑息」ならば、その時には、諸親王方を「大将軍」に配されて、内は「不順之徒を平」らげ、外は「胡虜を攘斥」されれば、御成功となるでしょう。
中川宮の儀は、既に「叡断」をもって仰せ出されたものの、「深く御失体之儀」と存じます。
(出所:8月11日付二条(斉敬)殿宛因幡中将書簡『鳥取池田家文書』一p560-561より作成)

文久3年7月7日、朝廷は因幡藩主池田慶徳を召して攘夷親征布告の可否を下問しました(こちら)。慶徳は、同月14日、親征は時期尚早であるので布告を見送るようにとの上書を提出しましたが、上書中、親征自体の可否は明瞭にしていません(こちら)。←ホンネはもちろん親征反対です。

<ヒロ>
前日(8月9日)、中川宮は、伺候した因幡藩京都留守居安達清一郎に対し、因幡・備前両家で親征を建議して西国鎮撫使が沙汰やみになるよう周旋せよと命じていました。中川宮の「表差出候書面」と似通っている箇所(八幡行幸、西国鎮撫は「失体」など)がありますから、昨9日の段階で、中川宮はある程度方向性を清一郎に言い含めたものと思われます。

慶徳は、去る7月14日、幕府・大名が職掌を尽さぬうちの親征は時機尚早であり、幕府も今の状況では必ず攘夷を実行するだろうからと、親征/布告の見送りを建白しています(こちら)。これに対し、とにかく親征論を主張せねばならぬ今回の上書案は、親征の前に先ず幕府による攘夷という大枠は変わらないものの、その内容は大幅に改め、幕府を「姑息苟安而巳」で「毎事朝政二悖」だと批判し、この上は親征を一決して布告し、八幡行幸の上で廟算を定め、それから幕府に沙汰を下すことによって、「驚愕悔悟」した幕府は攘夷を実行するだろう、というものになっています。さすがに、即時親征を主張はできず、幕府に攘夷を督促する手段としての親征布告という、苦労のあとの偲ばれる折衷案をひねり出します。

参考:『贈従一位池田慶徳公御伝記』二p447(2013.1.3)

(6)真木和泉の西国鎮撫周旋
【京】文久3年8月10日、真木和泉は烏丸光徳侍従(国事参政)に中川宮による西国鎮撫を説きました。

十日晴、朝烏公往。説王之事。
(出所:「文久癸亥(きがい)日記」『真木和泉守遺文』p605)

<ヒロ>
真木和泉は、前9日、中川宮から「離別」を言い渡されていましたが、諦めていません!

***
(7)御所放火・関東征伐の流言
【京】このころ、大和行幸につき、次のような秘密の流言が流れました。それは天皇を大和に行幸させた留守中に急進派が御所に放火して帰京をあきらめさせ、錦旗を箱根に翻して関東を征伐させる計画があり、そのために錦旗と旅行の準備が命じられており、急進派公卿の三条実実らと装具をつくっている
・・・というものでした。

近々に迫る(と信じられていた)慶喜の上京前に事を成そうとしているのだという噂もあったようです。(「又傳ふ、一橋中納言慶喜の上京近ければ、其着京に先だちて、事を成さんと、狂奔するなり」)

参考:『七年史』一p416(2002.9.12)

関連:■「開国開城」「大和行幸計画と「会薩−中川宮連合」による禁門(8.18)の政変」■テーマ別文久3年:「大和行幸と禁門の政変

●おさらい:攘夷親征vs西国鎮撫
文久3年6月9日に、将軍家茂が東帰のために幕兵とともに退京・下坂し(こちら)、13日に大坂を出港しました(こちら)。そして、将軍と入れ替わるように、真木和泉が入京して、攘夷親征論は一気に具体化しました(こちら)が、孝明天皇は、攘夷親征を好まず、近衛忠煕前関白父子・二条斉敬右大臣らも親征には反対でした(こちら)。7月5日には、近衛前関白らは、攘夷親征に関して外様藩を含む諸大名を召して衆議をこらすようにと上書しましたが(こちら) 翌6日には急進派公卿が連署して、将軍へ攘夷委任の不可&攘夷親征の布告を建言しました(こちら)。親征布告は朝議の重要課題となり、7日には、因幡藩主池田慶徳を召して攘夷親征布告等を下問し(こちら)、次いで9日には真木和泉を召し出して攘夷親征について下問しました(こちら)。 11日には、急進派公卿の後ろ盾である長州藩の家老が入京し(こちら)、親征派はさらに勢いづきました。孝明天皇や近衛前関白らは、12日、薩摩藩国父島津久光に対して召命の沙汰(表向きは親征「御用」)を出して、久光に急進派を掣肘させようとしました(こちら)。また、親征に慎重な慶徳は、異母弟の後見職一橋慶喜らに親征論が起ったことを知らせて幕府の攘夷断行を促すとともに、14日には、朝廷の下問に対し、幕府・大名が職掌を尽さぬうちの親征は時機尚早だと断じ、布告の見送り・攘夷監察使の西国要港派遣を建白しました(こちら)。相前後して、親征反対&久光召命派公卿に「天誅」等の脅迫が続きました。 7月18日には、ついに尊攘急進派の後ろ盾である長州藩が攘夷親征を建白し、朝廷に決断を迫りました(こちら)。しかし、鷹司関白に諮問された因幡・備前・阿波・米沢等の在京有力諸侯はいずれも親征に同意せず(こちら)、親征論は一時頓挫しました。

長州藩や真木和泉は、8月に入り、在京諸侯の中心的存在である因幡藩を味方に引き入れようと藩主池田慶徳に頻りに入説しました。慶徳や同席した諸侯は彼らの強硬な主張に同意しませんでしたが、これでは自分たちの望む穏健な方策は行われぬまいと、一時、国事諮問の辞退を申し合わせたほどでした。

この間、真木和泉の発案により、中川宮に西国鎮撫を命じる動きが活発化しました。急進派公卿は親征を好まぬ天皇に対し、中川宮の西国鎮撫使任命か、さもなくば「おイヤな」親征かと迫りました。孝明天皇は、8月7日、攘夷親征論を時機尚早だと断固退け、その代りに、中川宮に西国鎮撫(具体的には四国・九州における攘夷掃斥・小倉藩処置)を命じたいとの強い意向を示しました(こちら)。8日夕、急進派の圧力により、中川宮に西国鎮撫の内命が下りました(こちら)。 翌9日、西国鎮撫の内命に裏があることを察した中川宮は、因幡・備前両家に対して、親征を建議して、西国鎮撫が沙汰やみになるよう周旋せよと命じました。その一方で、上書して、西国鎮撫使の内命を辞退しました。朝廷は即日使者を遣わして説得しましたが、中川宮は受諾せず、西国鎮撫より八幡行幸が至当だと述べました(こちら)。


■会津藩と土佐藩
(8)【京】文久3年8月10日、土佐藩士下許武兵衛と生駒清次が三本木にすむ会津藩公用方の寓居を訪問し、藩の内情を吐露して山内容堂の真意を告げ、嫌疑をしないでほしいと告げました
↓。以来、彼等は行き来して交誼を深めたそうです。

僕等は老寡君容堂候の命を受けて上京し、国家の為に、力を尽さんとしている。これまで、土佐人には、上京して堂上に出入りし、「尊攘之説」を主張する者がいたが、老寡君はこれを甚だ好まず、すべて下国させようとした。彼らは「根檬」を固くし、勅意を戴くと称するので、強制すると累を生ずるかもしれず、そこを斟酌して説諭し、国に帰らせた。今、京に残る者は僅かに十余人に過ぎないが、自己の意見を主張して動かぬので、その処置に苦労している。彼等は同国人だが、士分以上の者は一人もない。ところが、彼等は、堂上に対し、己が私見を主人(=容堂)の意として説き、ひどい場合は、一藩の定論だと唱えて人を欺き、自らを正義の士と称して、堂上に主人に説かせて、抜擢登用を望もうとする。武市半平太、平井牧次郎のような者は、皆この類である。老寡君は、常に、祖先以来大藩を保ち、枕を高くして今日に至るのは、皆徳川家の恩沢だと思っている。これ故に僕等は命を受けて、上京しており、我公子(=藩主名代として滞京している山内兵之助)の期する所もまた同じである。嫌疑されることなきよう願う。
(出所:『七年史』一p415-416より作成。意訳、()内by管理人)

<ヒロ>
この時期、容堂の弟山内兵之助が滞京していました。兵之助は、因幡藩主池田慶徳らと歩調を合わせて、親征慎重論をとっています。なお、下許武兵衛は、去る8月4日には、薩摩藩の高崎左太郎を中山源太兵衛・福富健次とともに訪れ、三条実美が「此頃ニ至、余程悔心」している様子、最近、平井収二郎ら三人が死を賜ったことなどを話しています(こちら)

参考:『七年史』一p415-416(2002.9.12)

(9)佐伯又三郎暗殺
【京】文久3年8月10日、長州出身だという壬生浪士の佐伯又三郎が殺害されました
。佐伯の殺害理由には(i)長州の間者だったが久坂玄瑞に殺害された、(ii)芹沢鴨を怒らせて殺された、の2説あります

【城兼文『近世野史』より】

元長州藩、当時壬生浪士組斉木又三郎と申者、昨夜嶋原廓中に於て召捕、千本通朱雀村上ノ入口畑中にて今暁切害有之候事。 八月十日

【西村兼文(=城兼文)『新撰組始末記(壬生浪士始末記)』より】

新選組の隊中に佐伯又三郎は元長州脱藩なり。本藩の進退を探らしめん為め、之を間諜とす。長州人其灰遷を察し、或日同藩士久坂玄瑞、島原の遊郭角屋徳右衛門の楼に登り佐伯を招き、酒席に於て謀て捕縛し、千本朱雀村の北野原に引出し詰問の上帯刀をひ、裸体になし路傍に斬首す。

【「八木老人昔話」『新選組遺聞』より】*
「あれは長州人で、新選組に入ったのは怪しからんといって、長州の奴に殺された」といったものもあり、「島原の女に迷って隊長(=芹沢鴨)の物を盗んだからだ」というた者もありました。

*子母沢寛の作品はフィクションがかなり混じっているので、基本的に、傍証がない限り、管理人は採らないことにしていますがご参考までに。

<ヒロ>
佐伯は芹沢派だったとされています。その芹沢鴨に殺されたというのは子母沢寛の『新選組遺聞』の八木老人昔話が出典で、あまり積極的に信じる気にはなれません。子母沢の新選組三部作は聞き書き形式をとっていてもフィクションが多く混じっているからです(新選組マニアの中ではよく知られていることですが)。

西本願寺侍臣西村兼文による長州間者説ですが、新選組本では、間者とするには佐伯の合流時期が早すぎる(3月10日以前)・・・とされていることがあります。

ほんとうに早すぎるでしょうか。佐伯に長州間者の可能性はないのでしょうか。水戸藩急進派と長州藩との関係から、ちょっと考えてみたことを、覚書にアップしたいと思います。(今日は時間がありませ〜ん^^;)。

関連:「清河/浪士組日誌」「文久2年(寺田屋事件〜浪士組募集決定」「文久3年(浪士組上京・清河暗殺・新選組誕生」@衛士館(新しいウインドウが開きます)
参考:『新選組史料集コンパクト版』・『新選組日誌上』(2002.9.22)
*引用の際に適宜、カタカナは平かなに、また旧字を当用漢字になおしています。

追伸:整理する時間がいまだにないのですが、関連として、「歴史会議室」の「気になる一文(清河と桂小五郎)」に、浪士組と水戸尊攘激派と長州の関係に関する冬湖さんと管理人の投稿過去ログあり。管理人の「佐伯=長州とのつなぎ」説についても少し書いてありますので、ご参考までにどうぞ。(2004.10.3)

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