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文久3年8月12日(1863年9月24日)
【京】親征:右大臣二条斉敬、孝明天皇の意を受けて、因幡藩主池田慶徳に
攘夷親征の朝議阻止の密命を下す
【京】池田慶徳・池田茂政、二条右大臣に対し天皇の勅書案・自分たちの回答案を呈し天皇に「御強被仰出様」求める
【京】朝議、近日の大和行幸を治定
【京】浪士、越前藩と関わりある西本願寺用人松井中務殺害・梟首、油小路通り井筒屋半兵衛殺害・梟首/
壬生浪士?生糸商大和屋焼き討ち

■攘夷親征か西国鎮撫かvs-攘夷親征の詔前日、禁門の政変まで後6日
(1)江戸への急使
【京】文久3年8月12日朝、在府の後見職一橋慶喜らに、親征の不日布告・中川宮西国鎮撫使等の京都の切迫した情勢を知らせるために、因幡藩主池田慶徳・備前藩主池田茂政の命を受けて、水戸藩士梅沢孫太郎が出京・東下しました。


この日、水戸藩在京役から江戸藩邸に宛てた書簡の概容は以下の通り。
(朝廷は、攘夷親征を)是非とも不日に御布告遊ばされたい御都合のようである。万一そうなれば、恐れながら「徳川御家の御一大事此の上無く、最早官武の御間も今日切の事」であるので、因備両公(=因幡藩主池田慶徳、備前藩主池田茂政。水戸徳川家からの養子)始め、力の限りを尽くされている。
また、中川宮様へ(西国鎮撫の)内命があった。(中川宮は)これが横浜掃攘等の先鋒を勤めよとのことならば早速御請けするところ、西国筋へ派遣され、小倉その他「不遜の藩」を平定せよとの御沙汰では不本意なので御受けし難いと言上されたそうなので、急速に御発表にもならないだろうが、昨日(11日)、再度の御内意があったとのことだ。
「公辺の御安危立ち所に相分れ」ることで、因備両公の御配慮はひとかたならず、右の形勢を、具に中納言様(=水戸藩主徳川慶篤)、一橋様へお伝えしたいとのお考えである。よって梅沢孫太郎へ火急使いを命じられ、かつ御老中方一統まで御書を差し出され(こちら)、同人が持参にて今朝発足・東下いたした。同人が参着すれば、委細申し上げよう。六日切(=上方〜江戸を6日で走る早飛脚)にてお知らせする。
(出所:『水戸藩史料』より要約by管理人。素人なので引用の際は必ず原文にあたってね)

参考:『水戸藩史料』(2004.10.4)

(2)因幡・備前・阿波・米沢四候の上書
【京】文久3年8月12日朝、因幡・備前・阿波・米沢の在京有力四候は、連署して、親征布告・八幡行幸・全国諸侯召命等の上書を鷹司関白に提出しようとしましたが、関白は議奏・伝奏に提出するよう指示しました。また、この際、鷹司家の家臣から、親征は前日粗決定し、本日、関白参内の上、本決定する様子だと伝えられました。


事情を阿波藩世子より報じられた備前藩主の因幡藩主宛書簡は以下の通り。(()内、下線は管理人)
別封の通り淡路守(=蜂須賀茂韶)より申してきたのでお廻し申し上げる。下官は別存なく同意である。
昨夜前に申し上げた通り、今朝、家来信太郎が殿下(=鷹司関白)へ(連署の上書を)差し出したところ、御参内の供揃の最中で、拝謁はできなかったが、諸大夫に掛け合った。「昨日之處ニ而は御親征行幸と申ニ粗決定之由、今日殿下御参之上弥御決定ニ相成候御様子」だとのこと。よって四人の上書提出も「疾御承知」で()、殿下から議奏・伝奏へ差し出すよう御沙汰があったと承り、帰ってきた。少子の愚存では、殿下の御指図通り議伝に早々に差し出す方がよろしかろう。御三方で御相談の上、差し出して下されば、異存はない。
                            淡路守(=蜂須賀茂韶)
因幡中郎将君・米沢少将君・備前侍従君
:去る8月10日、中川宮に八幡行幸の建白を督促した議奏に対し、宮は、(自分とは別に)因幡藩からこの件の言上があるはずだと告げていました(8/10の(3))。
(出所:8月12日付相賢兄(=池田慶徳)宛備(=池田茂政)書簡『鳥取池田家文書』一p563-564より作成)

なお四候連署の上書の概容は以下の通り(箇条書き、下線by管理人)
宸断をもって御親征御布告は止められ、中川宮の西国鎮撫進発の御内意を仰せ出されたことは、畏れ入ります。宮方の諸道御進発は容易ならぬことではありますが、御英断をもって仰せ出された上は、是非を申し上げません。
しかしながら、御親征布告・八幡行幸という策もございます。
もっとも、御親征は重大事で、殊に皇国の一大事ですから、毎々申し上げる通り、浅識の臣等はとても見込みを付け兼ね、可否は申し上げられません。この上は、叡断をもって(親征を)仰せ出されれば、ただ、勅命を奉じ、御輿に随従する心得です。自然、御祈願のため、八幡へ行幸されることもあるでしょから、(親征布告・八幡行幸は)朝議に任せられますよう存じます
しかしながら、(実際の親征に際しては)在京の二、三の諸侯を召し連れ、遠く宮中を御離れになるのは如何かと存じますので、あまねく東西の大名を召出され、御進発されるべきかと存じます
(後略)←管理人:『贈従一位池田慶徳公御伝記』には以降が省略されています。結構大事な部分が省略されてる気がするんですけど・・・・。『鳥取池田家文書』にもありませんでした。探せたら追加します。
(出所:8月11日御連署(松平相模守・松平淡路守・松平備前守・上杉弾正大弼)上書控『贈従一位池田慶徳公御伝記』二p447-448より作成)

<ヒロ>
茂韶書簡のポイントは、鷹司家から得た前11日の段階で親征行幸が粗決定し、本日の朝議で正式決定の様子「昨日之處ニ而は御親征行幸と申ニ粗決定之由、今日殿下御参之上弥御決定ニ相成候御様子」)だという情報です。前日、粗決定ということは、関白が裁可したと思われます。この日(12日)、関白は本決定を裁可するつもりだったのでしょう。この時点で、関白は、親征を好まぬ天皇の意思より、圧力をかけ続ける急進派公卿の主張を選んでいたといってよいと思います。関白は、10日の中川宮の建白を通して、因幡藩がいずれ八幡行幸の建白をするということを知っていました。こういうタイミングで、今さら親征布告・八幡行幸(→親征実行は暫し猶予)という建白を受け取っても処置に困るというところじゃないでしょうか。

四候連名の上書は、最終的に議奏・伝奏に提出されたと思われます。(提出を裏付ける史料をみつけられたら修正します)。なお、阿波藩世子蜂須賀茂韶は鷹司関白の甥(茂韶の母が関白の妹。ちなみに茂韶祖母も鷹司家出身)なので、四候を代表して建白を差し出す役目になったのだと思います。

差し迫った状況下、天皇-二条右大臣は、親征阻止のため、ついに慶徳に密命を下します((3)↓)。

(3)因幡藩主池田慶徳への密命
【京】文久3年8月12日昼前、右大臣二条斉敬は、孝明天皇の意向を受けて、因幡藩主池田慶徳に密書を送り、一両日中に、御前において、攘夷親征/大和行幸の可否は因幡・備前・米沢・阿波の四藩の評議に任せるという「書付」(=勅書)を出すので、天皇の内意を含んで回答すること、また、四藩が評定・結論を奏上をするまでは「模様替」がないよう強く主張することを命じました。


二条右大臣の密書の概容は以下に整理する通り、
親征・行幸の事は「過日来内定の意味」(=親征不採用)とは、「少々模様替り」(=親征決定)になりそうである。
一両日中に、貴官始め四藩(=因幡・備前・阿波・米沢)とも宮中に召し、御前において「御書付」を出されるとのこと。その内容は、「親征行幸之事可否共滞在之四藩江被任可然相談取極言上可有之旨(=親征行幸の可否を滞京の四藩に任せるので、然るべく評議の結果を言上せよという趣旨)」である。その際は、貴官は「兼て之(天皇の)御内命差含御答」()するよう「極密」に通し置くべしとのことである。
(天皇が)いよいよ御任せになるかに仰せ出された際には、御油断なく、こう御答えする「御心得」が「専要」である。<このように御任せになるからには「四藩評定取極」を(天皇に)「相伺」うまでは官家方からは聊かも(意見を)出してはならず、また「模様替り抔之御沙汰」がないように>と。貴官はこの「御心得」をもって、その際には「屹度御押引肝要」(=どこまでも主張することが肝要)だと、早々に申し通せとの(天皇の)御内命である。
悪からず御含み置かれたく存じる。その他「巨細之秘事」は、何卒、近日御入来になられ、その上ならでは申し述べ難い。取り急ぎ、ざっと急務のみ申し入れる。
三白 この儀は備前守殿には極密御申含置かれるように。「其餘は決而〜〜御莫言〜〜〜極内々々御心得有度候事」
「兼て之御内命」の内容は、文脈からは、親征阻止だと思われますが、いつ下りたのか、慶徳の伝記及び『鳥取池田家文書』には明確な記述がちょっとみあたりませんでした。なお、慶徳が、親征が叡慮でないと知っていたことは、8月17日付慶喜宛慶徳書簡(『贈従一位池田慶徳公御伝記』)や8月13日付かとされる中川宮奉答案(『孝明天皇紀』)にも示唆されています。
(出所:8月12日付因幡中将宛斉敬書簡『贈従一位池田慶徳公御伝記』二より作成)

<ヒロ>
「過日来内定の意味」は去る7日の朝議で天皇の断固とした反対により、親征が不採用になったことを指していると思われますので、「少々模様替り」は親征が採用される可能性がでてきたことを示すはずです。上(2)の茂韶書簡の「昨日之處ニ而は御親征行幸と申ニ粗決定之由、今日殿下御参之上弥御決定ニ相成候御様子」の下りとも平仄があうと思います。

去る7日、親征を断固拒んだ天皇は、自分が好まぬ親征の代案として、中川宮に西国鎮撫使を命じました。背景には、急進派公卿に<中川宮の西国鎮撫使任命か、さもなくば「おイヤな」親征か>と強奏されたことがあったようです。ところが、西国鎮撫を好まぬ中川宮がこれを固辞したので、親征論が優位になり、急進派公卿が頻りにに親征を迫って、「昨日(=11日)之處ニ而は御親征行幸と申ニ粗決定」になったのではないかと思います。(他に急進派が事を急いだことにつき、考えられる事情は(7)↓で)。

この密命は、タイミング的に、参内した関白から前日の朝議の結果を上奏された天皇が、急きょ、二条右大臣と打ち合わせて慶徳に出したのではないかと思います。恐らく、一両日中に慶徳らを招集することまでは関白に承知させたのではないでしょうか。天皇〜二条右大臣は、四藩を御前にて下問し、改めて親征慎重論を上答させることで、再び親征不採用の流を作れると考えました。いつもの他人任せですが、それだけ自分だけでは抗しきれない流れを感じたのだと思えます。四藩がその結果を言上するまでは「模様替り」(=親征の沙汰)をせぬよう主張せよと求めているあたりは、なるべく時間を稼ごうとしているようにも思えますし、これ以上急進派に迫られるのは御免だという本心が見え隠れしている気もします。

二条右大臣本人も親征は反対で、この日(12日)、親征を好まぬ天皇の意を酌んで、親征を反対するよう密命を下しましたが、前11日には、自らに内命された西国鎮撫を避けるために親征(八幡行幸)を推進する中川宮の指示で、慶徳たちと中川宮の橋渡しをしています。12日の時点で、二条右大臣は、中川宮を捨てて天皇についたというべきなのか、それとも、11日に差し出された慶徳・茂政の建白案(中川宮の建白内容を取り入れて、親征布告・祈願のための八幡行幸・「廟算一定」の上の幕府への厳重な沙汰・なお幕府が因循する場合の親王による内外の征伐実行を主な内容とする)をみて、八幡行幸を落としどころと考えていたのか、ちょっと、この辺はよくわかりません。

●孝明天皇-二条右大臣ライン(鷹司関白はずし)
今回は、孝明天皇=二条右大臣ラインの内命です。天覧馬揃え時は慶徳らと天皇を仲介していた鷹司関白は関与していません。これは、やはり、天皇-右大臣が、関白が急進派公卿の圧力に負けて親征を可とする方に転じたこと(つまり「敵」方にまわったこと)を、この日までに、はっきり、悟ったからではないかと思います。また、、今回の密命は、因幡・備前(慶徳・茂政)限りで「其餘は決而〜〜御莫言〜〜〜極内々々御心得有度候事」と念押しをされています。実は、慶徳・茂政には、中川宮が内々に依頼した親征推進・西国鎮撫中止周旋について、阿波藩世子・米沢藩主に事情を「何となく申聞」た上でともに上書を作成した”前科”があります。ことに阿波藩世子蜂須賀茂韶は、女系でみると茂韶は鷹司関白の甥です(茂韶は祖母・母ともに鷹司家出身)。茂韶を通して鷹司関白に万一も密命の内容が漏れる可能性を避けたかったのではないでしょうか?(「豆知識:幕末将軍・大名・宮家・公家の姻戚関係」)

●穏健な密命
天皇は、かねてから急進派公卿の圧力で自らの意が通らず、権威が失墜していることに業を煮やしており、島津久光には急速上京・「姦人掃除」の密命を出し、また守護職松平容保にも事に臨んで依頼する旨(軍事行動の期待)を密かに伝えさせていました。今回の密命は、それに比べて穏やかで御前会議を通して急進派の策謀をひっくりかえそうというものです。因幡藩の場合は、まず政治的手腕に期待されたようです。

(4)池田慶徳・茂政、親征阻止のシナリオ
【京】文久3年8月12日深夜、因幡藩主池田慶徳・備前藩主池田茂政は、二条右大臣に返書し、密命に従い、死をかけて行幸を阻止すると伝えました。

また、当日のシナリオとして、まず天皇から<親征に一決すれば八幡に行幸して軍議を定めたいが、親征は一大事なので武家の存意を尋ねたい>との御下問があり、それに対して<親征布告は朝議に任せるが、自分たちが速やかに東下して将軍を説得して必ず横浜攘夷を実行させるので、その結果を復命するまでは、断じて行幸は見合せるよう願う>したいと記し、天皇には「御強被仰出様」覚悟を求めました。


慶徳・茂政の返書の概容は以下の通り
御内命の趣、謹んで承りました。「行幸之儀ニ不及様、以死論判を尽候間」叡慮を安んじられるよう、御内奏願います。
時宜により、明日早朝に参殿して委細を言上しますが、(慶徳・茂政が)申し合わせたところ、次の趣旨の勅命を下されば、言上するに非常に都合がよいと思いますので、その辺を御含みになるよう御内奏をお願いいたします。
「朕、千年来毎々申聞候通り、日夜攘夷之宿念難忘、依之、大樹えも委細申含、承知に候得共、面従のみにて、而今、其実効無之段、不審之至、始終之宿念に候得は、早々遵奉可有筈之処、右等猶予之段、終に違勅に帰し申候。依之、中川宮、鎮撫大将軍推任発行之存意も候得共、強て及辞退、不及其儀、此上は、朕、親ら干戈て、衆人に先立ちチ辱国体之罪ヲ、神官以下歴祖に詫、続て、神州之人気を引起さんと思ふに、親征は一大挙之儀、不容易事柄に候得は、武門之存意承度、親征一決之上は、八幡え参籠て可定軍議思ふ、各可否無腹蔵可申述
そう御下問があれば、下官共の返答は<親征とまで思食されたことは、恐入る次第です。神州は武国であり、叡慮がこのように御果断でなくてはなりません。しかし「武臣共未尽本職以前に、右等親征は御早過」ぎる様に存じます。そこまで御決定の上は「暫時猶予」になられたい。臣等は、速かに奉命し、朝に勅を奉じ、夕には出発して関東へ下り、この段、大樹へ申し達して堅く説得し、早々に攘夷の確証を顕して、速かに横浜の攘夷を実行いたします。もし、臣等の意を大樹が承知しなくとも、横浜鎖港の端緒は、臣等が死力をもって、顕すようにいたしますので、この尽力の間、(親征を)御延引願いたい>という内容にいたしたく思います。
さらに<(親征)「御布告」だけは朝議に任せますが、行幸の件は臣等が(関東から帰って)復命するまでは、たとえ三公諸卿が言上しようと「宸断」をもって御見合わせになるようされたい>と言上し、早々に東下して、必死に励み、叡慮を安んじ奉ります。深夜乱筆恐れいります。
未熟ながら武門を汚す身ですので、「死する迄は、行幸之儀、御止申上候」。もっとも、上(=天皇)よりは、前段申し上げたくらい「御強被仰出様」お願いいたしたく、今日の(親征を決定事項とするかのような)建白も差し出した次第です。「実心」は必ず必ず行幸を止めるという心意です。
(出所:8月12日付右府公宛茂政・慶徳書簡『贈従一位池田慶徳公御伝記』二より作成)

<ヒロ>
●天皇-在京諸侯、反転攻勢のシナリオ
○慶徳ら在京諸侯のシナリオ
二条右大臣の密命を受けて慶徳・茂政兄弟が描いたシナリオは次のようなものになります。

先ず、召によって参内した慶徳らに対し、天皇が、慶徳らが用意した「趣旨」に添った勅書を下し、「武門之存意」を下問する。その「趣旨」は、幕府の攘夷は実効がなく「終に違勅に帰」した。中川宮を鎮撫将軍に任命したいと思ったが強く固辞されて叶わなかった。この上は「親ら干戈て・・・神州之人気を引起さん」。しかし「親征は一大挙」なので「武門之存意」を尋ねる。親征が一決すれば八幡に行幸して軍議を定めたいが、その可否を申し述べよ・・・というもの。そこで、慶徳らは上答して、「武臣共未尽本職以前に、右等親征は御早過」ぎると親征の「暫時猶予」を願い、自分たちが東下して将軍を説得し、速やかに横浜における攘夷を開始させたい、もし将軍が承知しなくても自分たちが攘夷を端緒につけるべく死力を尽くすので、その間、親征実行は「御延引」するように求める。さらに、親征布告は朝議に任せるが、行幸(&軍議一定)は自分たちが復命するまで見合わせるよう申し入れる。

実際の親征/行幸の実行は、将軍の説得により、あくまで阻止する決意なのですが、建前上は親征を可としており、親征布告までは譲っています。慶徳が差し出した7月14日の建白(こちら)のように、親征の評議自体を時期尚早として一蹴できなかったのは、何よりも中川宮の依頼を無視しきれなかったことがあると思います(親征布告&八幡行幸論は、10日の中川宮の建白にみられ、宮の意を反映した慶徳らの上書(↑(2))にも含まれていますら)。また、慶徳らは、8月上旬に長州藩士や真木和泉の入説を受けて、その勢いに、穏健な鎖港攘夷論が実行されがたいことを痛感して、一時は国事諮問を辞退することを申し合わせたほどですから、親征を全く否定することは、現実的ではないと感じたのかもしれません。

○天皇-右大臣のシナリオとの違い
親征行幸の可否について、天皇-右大臣のシナリオでは、四藩の評議に任せておけば、四藩が親征行幸に反対してとりやめになることを期待しており、天皇は何か主体的に行動をとることを想定されていせん。ところが、慶徳のシナリオは、建前上は親征を可としており、しかも天皇は親征/行幸中止のために自ら動かなければなりません。まず慶徳らの勅書において、本心とは異なり、親征を行う意思を表明せねばならず、親征布告は朝議次第、つまり布告される可能性は大です。慶徳シナリオでは、親征/行幸の実行は暫時見合わせですが、いったん、布告されれば、急進派が勢いづくことは想像に難くありません。しかも、慶徳ら有力諸侯は、将軍説得のためにこぞって東下します。味方になってくれる諸侯が不在の間、天皇は、誰がなんといおうと、断固として、親征/行幸見合わせを主張し続けねばなりません。慶徳らもそこに不安を感じ、わざわざ「御強被仰出様」にと釘をさしたのだと思われます。

参考:『贈従一位池田慶徳公御伝記』二p451-453(2013.1.6)

(5)中川宮の西国鎮撫辞退(直奏)
【京】文久3年8月12日、中川宮は、天皇に、直接、西国鎮撫使内命の辞退を奏しました。これに対し、天皇は、婉曲に、中川宮が断れば自分が「いや」な行幸に行かなくてはならなくなると言ったので、閉口した中川宮は熟考するといって退出したそうです


薩摩藩士高崎左太郎(正風)が、政変後、前宇和島藩主伊達宗城に語ったところによると・・・
八月十二日頃(ママ。実際は8月8日)、尹宮へ内々の使者が訪れ、西国諸藩の鎮撫大将軍の内命が下った。宮は「以之外御驚愕且御不審」に思われ、容易ならぬ儀なので熟考して御請申し上げる、と仰せ置かれ、内密に相模守に御沙汰をされた(注:8月9日)。佐太郎の考えをお尋ねになったので、<宮の尊虜はいかがですか>と伺うと、御断りを直に申し上げたい思し召しだった。佐太郎は<容易なららぬ「奸策」だと存じます。まずは御直に御断りになられますように>と言上して退出した。
尹宮が参内して「御断之儀」を直奏したところ、主上も「御当惑の御様子」で、(急進派公卿から)<宮が「此事被畏候ハヽ」(=西国鎮撫使を拝命すいれば)、先ず親征には及ばず、御断りになれば「御いやに」思召される行幸をされるように>と「強奏」されたのだと言われた。宮も頗る閉口して、それでは又熟考仕りますと言って退出した。
(出所:『伊達宗城在京日記』p209より作成)

<ヒロ>
孝明天皇と中川宮のエゴのつかりあいです^^:。最初の内命は8月8日(こちら)。中川宮が上書して固辞したのは10日(こちら)ですが、『水戸藩史料』によれば、11日、再度の内命があったようです(↑(1))。再命を受けて天皇への直談判に及んだのがこの日だと推測してみました。(もちろん、11日、13日の出来事の可能性もあり。内命を受けた直後の9日の出来事だという可能性も否定しきれませんが、中川宮はこの頃、薩摩藩と距離を置こうとしており↓、そんなに直ぐに高崎を呼ぶだろうか、というのと、10日には直奏でなく上書で辞意を示しているので、ちょっと違うのではないかと思いました)

●中川宮と薩摩藩
実は、7月27日、中川宮は、参殿した高崎左太郎に対し、(急進派の中川宮への)嫌疑も、最近薄くなってきたが、それで「少シ暴論家之心に叶」ったのか、「御親征一條」を迫られるので「大ニ心配」している、と述べた上で、「薩ヲ離候得は、疑晴候様之気味」なので、「此涯暫時之処、音信普通」にすることを告げていました(8月5日付中山仲左衛門様・大久保一蔵様宛高崎左太郎書簡『玉里島津家史料』ニ)。ところが、嫌疑どころか火の粉が自分にふりかかってきた西国鎮撫をめぐり、8月9日には急進派の領袖的存在の真木和泉と「離別」してしまいました。そして、西国鎮撫阻止には、あまりつきあいのなかった因幡藩に依頼するだけでなく、自ら距離をおいた薩摩に再接近。よほど、西国鎮撫がいやだった模様です。中川宮は因幡藩には朝議での周旋を期待していましたが、薩摩藩には何を期待して最接近したのでしょう。やはり、久光上京・急進派排除ということになるんでしょうか??

参考:『伊達宗城在京日記』p209、『玉里島津家史料』ニp408-409

(6)大和行幸/攘夷親征決定
【京】文久3年8月12日、朝議において、近日の行幸が治定されました。

「八月十三日 近日行幸之事昨日治定」
(出所:「定功卿記」『孝明天皇紀』巻百六十七p19)

同日、国事参政に拝謁して「大挙」を知った真木和泉守は、すぐ長州藩邸に向かい、やはり鷹司関白から内報を受けた長州藩家老益田右衛門介とともに長州藩邸で祝杯を上げました。
「(八月)十ニ日 (前略)参政(=国事参政)御中に拝謁。大挙を被告。余喜可知。切飯を賜。直に長邸に行。益田に逢。益田亦殿下(=鷹司関白)にて内々承り候由。夜一杯賀之。
(出所:『真木和泉守遺文』p605)

<ヒロ>
鷹司関白・・・すっかり長州のお仲間です^^;。

この日の朝、阿波藩家臣が鷹司家家臣からきいたところによると「昨日之處ニ而は御親征行幸と申ニ粗決定之由、今日殿下御参之上弥御決定ニ相成候御様子」でした(↑(2))。天皇の内意を受けて二条右大臣が慶徳に密命を下したのが午前中になりますから、既に相当切迫していたことは伺えますが、その時点では、一両日中に朝議が開かれ、その場で可否が評議されるはずでした(少なくとも天皇-二条右大臣はそう理解していました)(↑(3))。ところが、午後以降、それが一転してしまったようです・・・。(詳細は探せませんでした)

天皇の出座なしの朝議で決まり、天皇は事後報告を受けたのでしょうか。あるいは急進派に迫りに迫られ、関白まで親征を勧めるのに抗いきれず、ついに天皇は裁可してしまったのでしょうか。(慶徳の請書がいつ二条右大臣/天皇の手許に届いたのかは不明ですが、請書が認められたのが深夜なので、いずれにせよ12日中には届かなかったと推察)。

いずれにしても、いったん、天皇が親征はないと断固拒否したものが覆されたわけです。7月に久光の召命が朝議で覆されたとき、天皇は召命中止を強く迫った三条実美らに激怒し、久光召命を願っていた孝明天皇は召命中止を強く迫った三条実美らに激怒し、今後たやすく勅を返すなら関白始め辞職・辞表の覚悟を決めよとの勅諚を出していました(こちら)。今回はどうなるのか、また天皇-二条右大臣の内意を受けて慶徳の描いたシナリオはどうなるのか・・・は明13日の「今日」にて。

●急進派が事を急いだ事情(想像するに)
また、なぜ急進派はことを急いだのでしょうか?もちろん、上に書いたように、中川宮が西国鎮撫をあくまで固辞したことや、親征慎重論を採る因幡藩等が中川宮の依頼を受けて親征布告を可とする上書を出すという情報がまわっていたことで、天皇が親征を受け入れざるを得ない状況になり、急進派にはこの機を逃してはならぬ、という気持ちはあったと思います。その他、急進派を焦らせた事情に、近々に迫る(と思われていた)慶喜の再上京、そして越前藩の挙藩上京の噂があったのではと思います。

○慶喜再上京の決定
実は、この頃、京都では、近々に慶喜が再上京すると思われていました。慶喜は、4月に帰府後、攘夷が実行できないことを理由に度々辞表を出していましたが、朝廷はこれを許さず、7月22日には、一橋慶喜の請書が京都に届き、その中で、慶喜は上京の上、委しく叡慮を伺い、御沙汰次第、捨身の微衷を尽くす決意を奏していました(こちら)。当初の予定では慶喜は8月5日に出発するはずでした。陸路だと、たとえば守護職の松平容保は江戸から京都まで15日で到着していますので、慶喜も、8月20日頃には着京する可能性があります。海路だともっと早いです。急進派としては、慶喜が入京するまでに、朝議で親征を一決させ、慶喜/幕府の意図を挫く必要があったはずです。(実際には、8月9日に、横浜鎖港交渉開始が決定したことを受けて、慶喜は上京を延引していますが、その報は未だ京都には届いていませんでした)。

春嶽の率兵上京の風聞
また、当時、開国派で知られる松平春嶽(前越前藩主)が率兵上京するという風聞が盛んで、尊攘急進派は非常に神経を尖らせていました。春嶽/越前藩の上京計画は、既に、6月下旬までには急進派の中心的存在、真木和泉、宮部鼎蔵、久坂玄瑞らに察知されており、彼らが三条実美に「越を拒之策」が献じたことが、真木の日記からうかがわれます。実は、越前藩では、7月23日に藩論が一転して、挙藩上京/政変計画は取りやめになっていました(こちら)が、急進派は上京が近いとみていたようで、7月末から、反・春嶽上京のテロ・脅迫行為が続発しました。

まず、7月26/27日に春嶽上京時の宿舎に予定されていた高台寺が焼き討ちされ(こちら)、次いで越前藩宿舎の西本願寺にも放火予告が張り出されたため、近隣住民が動揺し、伝奏が同藩重役を呼び出して立ち退きを勧告するほどの騒ぎになりました。8月2日には、大津において、越前藩御用達の豪商矢島藤五郎宅が浪士集団に襲撃され、翌3日には大津制札場に「朝敵」春嶽・関係者への宿提供者への「天誅」予告、さらに京都五条・四条・蹴上街道筋に「国賊」春嶽入京即「天誅」予告の高札が掲げられました。市中は、春嶽が大津まで進軍し、備前藩が討手を命じられた、いや長州が大砲を以て蹴上に出張るのだという虚説が飛び交い、騒然としていました。攘夷親征論が再び活発になった11日、大津には、再び「朝敵」春嶽等の道中に協力する者への「天誅」予告が張り出されました。この頃には、越前藩上京が朝命によって差し止めるという噂が流れており、三条大橋には、春嶽が勅勘を押して上京すれば全ての宿舎に放火するとの脅迫状が張られました。そして、ついに越前藩宿舎の西本願寺用人松井中務が殺害され、13日、梟首されています(↓(8))。

また、政変後に中川宮が春嶽に語ったところによると、当時、朝廷は、守護職松平容保に対し、春嶽がいよいよ上京すれば途中で遮り、帰国させるようにとの内命を下しており、容保も帰国勧告が万一聞き入れられねば、懇親の間柄ながら、死を以て朝命を支える覚悟だったとのことです(こちら)

春嶽の上京の風聞は、単なる噂レベルを超えて、かなりの切迫感を伴って受けとめられていたことが窺えると思います。春嶽上京前に、攘夷親征問題に一挙に片を付けたいと急進派が思ったとしても無理はないのではないでしょうか。(万一、慶喜と合流すされるとさらにやっかいになります)。

←越前藩と薩摩藩(&肥後藩)と連合して政変を起こす計画を立てていましたが、薩摩藩の関与は噂にもなっていませんでした。急進派の目下の敵は越前藩。こちらを恐れるばかりに、かねてから敵視してきた薩摩藩や会津藩への警戒感が薄くなっていたのかもしれません・・・。

参考:『孝明天皇紀』巻百六十七p19、『七年史』二p384-385(2013.1.7,1.13)

(7)因幡藩と会津藩(慶徳の容保への返書)
【京】文久3年8月12日、因幡藩主池田慶徳は、前日の会津藩主松平容保の書簡にに返書して、中川宮小倉入城の風説を否定し、自分は宮の将軍職任命には不承知である旨を伝えました


慶徳書簡の概容は以下の通り(()内は管理人)
過日は、種々御供応くださり、忝い(◆8/4の(3))。(挨拶略by管理人)風聞を御伝聞になられた小倉云々、中川宮の件は容易ならぬ事件であり、御心配の旨は尤も千万である。仰せのような風聞はがあるとは存じ申さぬが、去る8日、殿下が私共(=因幡・備前・阿波・米沢の四名)を御召になり、上杉(=米沢藩主)・阿州両人が参殿したところ、親征は有志より達ての建白があったが、親征は採用されず、叡慮にて断然と中川宮を西国鎮撫のため遣わされる思召があり、命じられたと伺った。しかしながら、いずれ容易ならぬ事であり、昨日も上杉・阿州・備前と集会・種々評議したが、(我々のみるところ)あえて小倉城へというようには窺えず、(中川宮を)将軍に任命されるようなら(我々は)不承知である。御同様に驚愕の次第、実に心を痛めている。御答えが遅れたが、こういうことである。なお、貴館でお聞き及びのことがあれば、伺いたい。
(出所:8月12日付肥後守様宛因幡守書簡『鳥取池田家文書』一p561-562より作成)

<ヒロ>
容保が昨11日に出した書状への返信になります。

8月4日からこの日までの間、慶徳は、中川宮からも二条右大臣からも内命を受けてあれこれ動いており、親征の朝議が差し迫っている状況も把握していましたが、容保に漏らすわけにもいかず、ごく差しさわりのない返答になっています。ただ、ここで、容保が、慶徳ら朝議参謀を務める在京有力諸侯が自分と同様に、親征・西国鎮撫どちらにも否定的であることを確認できたことは、翌13日、容保が政変にGoサインを出すにあたって、プラスに作用したのではないかと思います。

参考:『鳥取池田家文書』一p561-562(2013.1.8)
関連:■「開国開城」「大和行幸計画と「会薩−中川宮連合」による禁門(8.18)の政変」■テーマ別文久3年:「大和行幸と禁門の政変」「後見職・将軍の再上洛」■徳川慶喜日誌文久3

●おさらい:攘夷親征vs西国鎮撫
文久3年6月9日に、将軍家茂が東帰のために幕兵とともに退京・下坂し(こちら)、13日に大坂を出港しました(こちら)。そして、将軍と入れ替わるように、真木和泉が入京して、攘夷親征論は一気に具体化しました(こちら)が、孝明天皇は、攘夷親征を好まず、近衛忠煕前関白父子・二条斉敬右大臣らも親征には反対で(こちら)、7月12日には薩摩藩国父島津久光に対して召命の沙汰(表向きは親征「御用」)を出して、久光に急進派を掣肘させようとしました(こちら)。また、親征に慎重な因幡藩主池田慶徳は、異母弟の後見職一橋慶喜らに親征論が起ったことを知らせて幕府の攘夷断行を促すとともに、14日には、親征布告見送りを建白しました(こちら)。しかし、相前後して、親征反対&久光召命派公卿に「天誅」等の脅迫が続き、16日には、急進派の牛耳る朝議で、久光召命の中止が決定しましました(こちら)。 7月18日には、ついに尊攘急進派の後ろ盾である長州藩が攘夷親征を建白し、朝廷に決断を迫りました(こちら)。しかし、鷹司関白に諮問された因幡・備前・阿波・米沢等の在京有力諸侯はいずれも親征に同意せず(こちら)。親征論は一時頓挫しました。した

8月に入り、長州藩や真木和泉は、在京諸侯を味方に引き入れようと慶徳に頻りに入説しました。慶徳や同席した諸侯は彼らの強硬な主張に同意しませんでしたが、これでは自分たちの望む穏健な方策は行われぬまいと、一時、国事諮問の辞退を申し合わせたほどでした。

相前後して、真木和泉の発案により、中川宮に西国鎮撫を命じる動きが活発化しました。急進派公卿は親征を好まぬ天皇に対し、中川宮の西国鎮撫使任命か、さもなくば「おイヤな」親征かと迫りました。孝明天皇は、8月7日、攘夷親征論を時機尚早だと断固退け、その代りに、中川宮に西国鎮撫(具体的には四国・九州における攘夷掃斥・小倉藩処置)を命じたいとの強い意向を示しました(こちら)。8日夕、急進派の圧力により、中川宮に西国鎮撫の内命が下りました(こちら)。 翌9日、西国鎮撫の内命に裏があることを察した中川宮は、因幡・備前両家に対して、親征を建議して、西国鎮撫が沙汰やみになるよう周旋せよと命じました。その一方で、上書して、西国鎮撫使の内命を辞退しました。朝廷は即日使者を遣わして説得しましたが、中川宮は受諾せず、西国鎮撫より八幡行幸が至当だと述べました(こちら)。10日、中川宮は、親征であれば先鋒を願うが西国鎮撫は断ると、内命を改めて固辞するとともに、西国鎮撫の代案として八幡行幸・諸侯召命を建議しました。また、中川宮から親征建議を依頼された因幡藩主池田慶徳・備前藩主池田茂政兄弟(水戸家出身)は、徳川の屋台骨を揺るがしかねない親征には反対していましたが、打ち合わせの結果、親征布告、祈願の八幡行幸、廟算一定、関東に厳重な沙汰、なお因循すれば親王による内外征討を主旨とする上書を提出することにしました(こちら)。11日、中川宮の指示により、二条右大臣は慶徳に中川宮の建白書の写しを送り、「熟慮」するよう密かに依頼しました。慶徳と備前・阿波・米沢の三候は相談の上、四名連署で、鷹司関白に対し、親征布告、八幡行幸、全国大名召命等を主旨とする建白を差し出しすことに決めました(こちら)

■反・春嶽率兵上京
(8)【京】文久3年8月12日、越前藩が宿舎とする西本願寺の用人松井中務(繁之丞)が殺害され、三条大橋高札場に梟首されました。(13日説あり)

捨て札(13日)の内容は以下の通り
「姦賊松平春岳の姦計ニ興シ、人民ノ膏血ヲ綴(ママ啜?)リ、驕■(旧字。にんべんに夫)ヲ事トスルニヨリ天誅ヲ加ウルモノ也」
(出所:『続再夢紀事』一p100)

同日 伝奏野宮定功は、越前藩上京を朝廷が差止めると聞いたがどうかとの中山忠能の問いに対し、そういう話は聞かないが、越前藩が押して上京すれば、因幡藩が止めるといっているらしいと回答しました。

<ヒロ>
越前藩では、政事顧問の横井小楠の建議を入れて、(1)各国公使を京都に呼び寄せ、将軍・関白を始め、朝廷幕府ともに要路が列席して彼我の見るところを講究し、至当の条理に決すること、(2)朝廷が裁断の権を主宰し、賢明諸侯を機務に参与させ、諸有司の選抜方法としては幕臣だけでなく列藩中から広く「当器の士」を選ぶよう定めることを朝廷・幕府に言上することを藩論としました。さらに、それには、「全君臣必死再び帰国致し申さず」との覚悟でならねばと、挙藩上京することを定めていました。しかし、7月23日に藩論が一転して挙藩上京派が更迭されるており(こちら)、同月25日にはキーパーソンの村田氏寿(巳三郎)も帰国のため退京していました(こちら

上(↑(6)で記したように、7月末から、急進派による示威行動が続発していましたが、実際に人が殺されたのはこれが初めてとなりました。攘夷親征布告を前に、急進派が越前藩への警戒をより一層高めていたからではないでしょうか。

関連:■「開国開城「大和行幸計画と「会薩−中川宮連合」による禁門(8.18)の政変」■テーマ別文久3年:「越前藩の挙藩上京(政変)計画■越前藩日誌文久3 
参考:『続再夢紀事』ニp100、『東西紀聞』ニp44、『中山忠能日記』一p123、『維新史料綱要』四p531 (2004.10.4, 2013.1.13)

■貿易商「天誅」
(9)同夜は、ほかにも貿易商への「天誅」事件がありました。

油小路四条の井筒屋半兵衛宅にも浪士が押し入り、殺害して梟首しました

また、大和屋庄兵衛宅に浪士が押し入って土蔵を焼き払い、西陣の本宅にも大勢押しかけて取り壊し、焼き払ったそうです。騒ぎは翌13日にも続きました

この大和屋焼き討ちを壬生浪士の仕業とする資料があります(「菱草年録」と「新撰組(壬生浪士)始末記」)。この事件については、攘夷親征(大和行幸)&禁門の政変との絡みで書きたいことがあったのですが、力尽きました。またいずれ・・・。

参考:『東西紀聞』ニp26-27・「官武通紀」など(2004.10.4)

■薩英戦争
(10)【江】文久3年8月12日、在府薩摩藩士高崎猪太郎(五六)は鹿児島の中山・大久保宛に江戸の情勢を知らせました

「・・・尤も三公(=島津久光)御出京御猶予仰せ出され候趣、爰元に於て吉井生(=京都から出府してきた吉井幸輔)より初めて承知、誠に以て驚愕堪えざる次第、実に天下の不幸長歎息の外之無く、左候えば御国元に於て承知の御用向も、其のまま尽力と申す訳にも参り兼ね候仕合、之より何分京師の一左右次第へと熟慮の上、至理至当の周旋仕るべき含みに候間、左様御含み下され候。何分にも重大の事件驚力の及ぶだけには之無く、此の兵難(=薩英戦争)は一旦ぜひ共遅緩(遅延)及ばず候ては、武備の基本相立たざる事故、時宜に依ては百方周旋、幕府をして程よく処置を行わしむる心組に御座候間、左様御承知下され候。若し此の事行われず候ては、是非一橋公の御出京を促し、今一往我が三公は勿論春(=春嶽)・容(=山内容堂)両公をも堂々と召させられ候て、天下の大廟策を御一決在らせられ候様の尽力仕るべき?共、愚考渉り候居り候事に御座候。尤も横浜鎖港の御決心も、一(=後見職一橋慶喜)・板(=老中板倉勝静)両公非常の御決断相成り居り候趣に窺われ、左候えば我藩のみ攘夷と申す訳にも之無く、天下一般の事に相成り候事故、兵難の解決策には及び間敷、いづれ遠路懸隔事情貫通致しかね、且つ又朝に定め夕に変るの世態故、其次第臨機応変の処置仕る外之無く、至当と見込み候は充分前後顧みず尽力仕るべく候間、左様御心得下さるべく候・・・」

参考:『忠義公史料』ニ、p766(「高崎」という署名のある書簡です。同史料では、高崎左太郎とされていますが、左太郎は、当時、京都にいましたので猪太郎が正しいと思います)

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