小生の干支も残すところ一日となった。時の進むのは早い。昨日新年を迎えたような気分だ。若い時と大違いである。 最近入手したMWS放散虫プレパラートだ。大量の放散虫を敷き詰めた珍しいプレパラートである。厚みのあるものないもの取り交ぜて最大厚の放散虫の位置に収めて固定してるのだろう。放散虫と骨針だけで余計なものは入っていない。この状態がごく普通のような気分なのだが大間違いなのである。MWSの仕事なればこそなのだ。 この画像は我ながら美しくないと反省しきりなのであるが実力なので仕方ない。プレパラートが届いたとき、撮影はしなかった。肉眼で見る楽しさを優先したのだ。キラキラと輝くような見え方で実に美しい。撮影はモニターを見たりシャッタを押したり撮った画像の確認と忙しい。そんな煩わしさなしにゆったりと美しい世界に浸りたかったのである。
今年の冬は今までの所、暖かい日も多くて過ごしやすいようでもあるが、寒い日は一際つらく体がこたえる。年が明けると厳しい寒さの続く日々になるかもしれないし、あまりありがたくはないものだ。 箱根の入り口風祭にはかまぼこの里があるがすぐ近くの早川を撮影したものだ。上段は今月20日の撮影だが奥の小山に紅葉がまだ残っている。 今、中州はゴロゴロした玉石が見られるだけだが、ほんの少し前までは立ち木が茂っていた。各地に被害をもたらした台風19号できれいさっぱり流されてしまったのである。 ここまで茂ったものがなくなるとは思わなかったので台風の翌日にこの景色を見たときは驚きだった。芦ノ湖も1000ミリの降水量だったそうだから、ここら辺も物凄い流れだったのだろう。自然恐るべしである。
クワガタの特徴を調べるので描いた絵だ。 寸法は取ってなくて気合で可能な限り正確に描こうというやり方である。デッサンの勉強でもある。 ノコギリクワガタの大あごは立派で描きごたえもある。触覚の出方とか脛節のギザギザなども番号を振るほど興味をもって描いている。 複眼の付き方は意外であった。前を見るよりも上下の視界を優先しているようだ。 見た感じは凸凹していない丸みを帯びている形だが点刻は全面にある。煩さなので一部を描いた。 棘毛が沢山あるのが昆虫の特徴みたいなものだが少ないのもいる。クワガタはそうなのだろう。ほとんど見かけなかった。
人体のDNAの総延長はどのくらいあるのか。考えたこともなかったが放送大学を見てたら太陽系ほどの大きさがあると解説されていた。そんな馬鹿なと言いたいところである。 図に示したのはDNAがヒストンと呼ばれるタンバク質の粒子に巻き付き、それが積み重なってクロマチン繊維となり、さらに分裂時にたたみこまれて染色体に変化する様子だ。真核細胞の核には必ずDNAがあり、人では2mほどだそうである。随分な長さだが核の中にたたみこまれているわけだ。ただ人体は60兆個の細胞からなっているそうだから総延長は2mの60兆倍で1200億kmになってしまう。太陽と地球の平均距離の天文単位にすると約800天文単位だそうだ。冥王星の軌道が40天文単位ぐらいだそうだから差し渡し10倍ぐらい外側まで伸ばせる。太陽系クラスで間違いないわけだ。 もっとも重さは20gほどだそうだから量はささやかなもので総延長のようには驚かされることはないのだ。
文化大革命中に発掘された殷代の青銅器の写真を模写したものだ。口径が19.6センチだそうだから両手で持って丁度よいくらいの大きさだろうか。 「しきようとか」と言うそうだ。文字化けするので漢字は画像を見てもらいたい。「しきよう」はミミズクのことで胴腹に模様化されて翅を広げた姿で三匹が飾られている。「徒」は器の内底の鋳銘から。「か」は器の種類で、三本の先の尖った脚を持ち、器口が広く、器口から二本の柱が立ち、一つの把手を持つものだそうだ。祭祀のとき香酒を温め、盛るための酒器だそうだ。 神や祖先霊に捧げる器で飾りなどは深い意味を持っているのだろう。人は今や地球の主人になって神をも恐れれない生き物になっていると思うが時代をさかのぼるほど神や祖先霊を恐れ敬っていたのだと思う。この器も現代人は美術品として鑑賞するわけだが、殷人にとっては心を込めて作った恭しい器だったのだろう。
タミヤ1/700独駆逐艦Zクラス(Z37-39)である。古いキットで部品点数も少なくあっさりした作りである。値段は安いが二隻分入っていて対空砲火を強化した型も出来るというお得さである。素組に近いがマストを細くしたりとか少しいじっている。ケースと水色の半透明の下敷きを百円ショップで求めてビスで固定した。下敷きの表面にジェルメディウムを薄く塗り、しわくちゃにして黒く染めた紙を敷いたが肉眼で見ている分にはなかなか良い。 全体のプロポーションがよいのだろう、少し手を入れただけで随分実艦らしさが出たと思うのだ。
前回のギロシグマ(エスガタケイソウ)を対物レンズ40X、NA=0.65で検鏡し、暗視野で編斜照明の向きを変えて撮影したものだ。上段が上から、下段が左から光を当てたものである。 中央部が盛り上がっているせいか光の当たらないほうは影になったようだ。縦横の胞紋の並び方の違いと思っているのだが色は全く異なってしまう。
MWS珪藻プレパラートJ297の別のカットだ。前回よりトリミングしているので大きめに写っている。 開口絞りを絞り込んでいくと明るい青色が特に濃くなるのがいる。ギロシグマ(エスガタケイソウ)というのだと思うが左上の奴である。その隣の奴もエスガタだが微妙な色で赤っぽい色も交じっていたりして妙な気分にさせられる。
MWS珪藻プレパラートJ297だ。青色しか出ないと思い込んでいたがやり方によっては赤い色も出るのがわかったので試したのが今回の画像だ。 暗視野用のコンデンサを持ってなくて自作のアタッチメントを付けて暗視野にしているいい加減な顕微鏡使いなのだが、開口絞りを絞り込んでいったらご覧のような状態になった。目で見ているものはもっと美しく見惚れてしまうが、こればかりは実際に見てもらうしかないだろう。 それにしても見事な並び方と平面性である。この標本あってこそのこの画像である。
キクスイカミキリの表皮は部位によって様子が違う。 特に前胸部の赤いところは溝が彫られているものの、ほぼ平坦で周辺部になってから窪みが現れる。 頭部は大きい丸い窪みが密にあり、画像では写っていないが中央から黒い剛毛が出ている。透明な棘毛は小さな黒丸から出ている。平らなところはしわ状に溝が入っていてきれいなものだ。 翅鞘部は前回に詳細な画像を載せているが、黒い剛毛の出ている黒い窪みの間隔は広く、透明な棘毛の出ているソケットは数が多い。平らなところはごつごつしていて荒々しいものだ。 昆虫の彫刻をしげしげと見る機会はそうないだろうが興味深いものがあると思うのだ。
キクスイカミキリの翅鞘を金属顕微鏡で見たのが今日の画像だ。実体顕微鏡では丸いくぼみが沢山並んでいて透明だけれども白っぽく見える棘毛がびっしり見え黒い剛毛も見えた。その様子を確認しようというわけだ。 画像の向きは左が頭の方で右側はお尻だ。透明な棘毛は基部がソケットになっていて後方に傾いている。数も多い。黒い剛毛は分かりずらいが模式図のようにくぼみの前側壁から出ていた。中央の底面からかと思ったが意外だった。
コウチュウ目(鞘翅目)カブトムシ亜目ハムシ上科カミキリムシ科フトカミキリ亜科キクスイカミキリと言うみたいだ。体長1.0センチメートル。 漢字で書けば菊吸天牛だ。ヨモギなどキク科の植物に産卵するそうだから菊に縋り付いて養分を吸い上げているように見える昆虫なのだろう。 黒く小さいので目立ちにくいはずだが背に赤丸をしょって我から存在をアピールしている変な虫だ。乾燥標本をスケッチしたので赤丸はオレンジ色になっている。捕まえたときはかなりはっきりした赤だったのをすっかり忘れてそのまま描いてしまった。
川上尉平先生作「鬼無里」F8だ。制作年は不明だが晩期の作だろう。写真に撮ると緑も目立つが実作を見ていると紅葉の赤ばかりのような感じを受ける。画面上の面積はそれほどでもないが目に焼き付いた赤の強烈さをしっかり写しているのであろう。現場主義の強みだと思う。山の稜線に青紫が入るのも先生の特徴だが、遠くの高い山にはふさわしい。 我が家の居間に飾るのは8号で十分な大きさで内容も濃いので不満があるわけではないが、20号とか30号の大きさのものには格別なところがある。だんだん欲しくなってきた。
MWS珪藻プレパラートBKK_02(沼)のスタウロネイス(じゅうじけいそう)だ。大きめのやつでまれにしかいない。散らしのプレパラートなのでいくつかの珪藻が重なって見苦しいところもあるが、スタウロネイスくんはカバーグラスに張り付いているようで水平がよく取れており、胞紋も明確に撮れた。繊細さは感じられないが、ざっくりしたおおらかさがあって楽しく検鏡できる奴だ。
MWS珪藻プレパラートASK_01(池)も早い時期に求めたやつだ。絵にしたのもいくつかある。小形のものが多いが中型も目立つ程度にはあり大型もまれにある。といったプレパラートだが種類も数も多くて長く楽しめる。 右にあるのはカロネイスというみたいだが、下のは押されて折れたのか中央から裂け目が入っている。その上のキチンとしたのはほかにあったやつを合成したものだ。中央縦の条線から粘着質のものを出して水底を移動するみたいなので群体を作らないで単独で生活しているのだろう。このプレパラートでは見つけにくいし、そこそこ居る程度の奴ではなかろうか。
MWS珪藻プレパラートHKZ_01(渓流)は顕微鏡を始めた頃に求めたやつだ。小形のディアトマ(ヌサガタケイソウ)やシネドラ(ハリケイソウ)とかコッコネイス(コメツブケイソウ)がたくさん入っていて賑やかではあるが、40Xで見ると適度なばらつきになって見やすい。点線の枠内がピクセル等倍の画像で細部がわかりやすくなる。ここにはコメツブケイソウは見えないがロイコスフェニア(マガリクサビケイソウ)や半分欠けたフルスツリア(ヒシガタケイソウ)が見える。こいつは少し沈んでいるみたいで胞紋がボケている。散らしのプレパラートは微妙なものなのだ。
MWS珪藻プレパラートSBG_01(渓流)からディアトマ(ヌサガタケイソウ)のピント位置を変えた二枚を合成したものだ。下はすこしピントを下げたところで殻面の胞紋がわずかに見られる。この種類をいくつか撮影したがこれだけが胞紋がわかった。まぐれ当たりをしたわけだ。淡水や汽水の長いジグザク群体で生活する付着珪藻だそうだ。 MWSのリサーチグレードプレパラートKBG-01(河川珪藻試料)の説明文に「ニッチア,シネドラ(旧名),メロシラ,ディアトマを主に含みますが,特にディアトマ(Diatoma vulgaris, ヌサガタケイソウ)に焦点を当てて製作したプレパラートです。この珪藻には細かい条線があり,その条線の間にはさらに細かい点紋があります。そう簡単に見えるものではありませんので,テクニックを磨くためのテストプレートとして有用です。」とあって、どうしたらこんなに詳細に撮影できるのだろうかと驚嘆してしまう画像が載せてある。 それに比べるとあまりにもお粗末なのであるが、なんとか撮れたというだけでもうれしいのである。
MWS珪藻プレパラートのJ228はピンヌラニア(ハネケイソウ)が二個ないし三個が連なっているものを集めたやつだ。昔に求めたものであるが初めて紹介するのだ。大きいのは生物顕微鏡で倍率40X、NA=0.95の対物レンズで撮影したもの。小さいのは20X、NA=0.4の対物レンズを付けた金属顕微鏡で撮影したものだ。「本日の画像」で金属顕微鏡では表面だけの描写が観察できる旨が出ていたので、真似したもののまともな画像にならなくてガックリきたところなのであるが、20Xのものは縮小すれば多少は見れるかなと二つを並べたわけだ。 これをじっと見ていると表面に櫛模様のある箸箱に思えてくる。電子顕微鏡写真だと立体として捉えられているのが多いが、生物顕微鏡ではあまりないので、こんな具合に向きを変えて二つ並んでいて立体を感じられるのは素晴らしい。
新作家展は10月16日からで、まだ間があるが搬入は早くて30日には業者が作品を取りに来る。大きくて自分では運べないので専門のところに頼んでいるのだ。それでこれで完成となった。 20年ほど前新作家に参加したときは白黒の都市風景だったのだが、変遷を重ねたので今これを出しても小生の作品だとは誰も気が付かないだろう。この傾向の人もいないので誰が描いたのかと不審に思われるに違いない。どんな反応が返ってくるのか楽しみである。 年を取ると筆力が落ちるのが通例だが、60代で実体顕微鏡で昆虫をしつこくスケッチしていた効果がこの絵にはあるのではなかろうか。左右対称で微妙な曲線で囲まれている昆虫を捉えるのは苦しい作業だったが数を重ねるうちにそれらしい感じが出てき、うれしく思っていた。日頃の習練が原画の写真に写っている多数の人物を破綻なく一つの平面上にちゃんと立っているように写せたと思えるのだが、さて、そう見てもらえるだろうか。そうであってもらいたいものである。
今描いている絵の左半分だ。 上野公園はよく行く場所である。駅を出て、東京文化会館と西洋美術館の間のゆったりとした道?広場?を過ぎると広場に出る。左手は奥に国立博物館のある噴水広場、右手は桜並木だ。春は花見で大賑わいのところである。 この日は春のモダンアート展を見た帰り広場に立って写真を撮る。今年は寒くて桜も満開でなく人々も厚着の人もいたりして例年とは大違いで戸惑うところもあったが、お構いなしの撮影だった。 歩きながらあちこちを写すのだが、これはと思う場所ではカメラを構えたままじっと待って群衆の動きが変化していく様と、魅力的な人がくるとシャッターを押す。これを繰り返して運が良ければ絵にできるわけだ。 銀塩時代は写せるコマ数もしれたものでシャッターを押すのに気合が入ったものだか、デジタルは初期はともかくとして現在ではメモリーも大きくなり、画素数も上がって細部まで明確にわかるカットを写し放題である。よい時代になったものだが屑を量産しているだけともいえるので気合は必要だが思うようにはいかないものだ。 ネットで見た内容は忘れやすいが、じっくり読んだ本の中身はしっかり残るとも言われるが、身銭を切ってやっと手に入れたものでないと身につかない。というのかなぁ。 「何事も楽しちゃいけないよ」なのでしょうね。
資力があれば張りキャンを求めればよいのだがそうでないので10メートル巻きのキャンバスを買って自分で張っている。それが切れて買わなければならなくなったが、この頃ピンと張れないし使いきれるかなどと余計な考えも出てきてベニヤに描くことにする。いずれ92×182cmを三枚繋げたものを描くつもりだが今回は二枚をつなげて描いている。この左側はアベックが手をつないで歩いてる図があって合わせて一枚とするわけだ。ここまで延べ二十日ほどかかっているが秋の新作家展に出品するので残り時間も少なくなってきた。 合板に水性塗料の白を重ね塗りして下地を作りその上に描くのだから安上がりな乱暴な遣り方で粗末そのものという感じがある。そこに水性塗料の限られた色で荒々しさのある絵を描くことを目標として始めたのであるが、どんどん違う方向に進んで、水性塗料は墨に変わり色はなくなってしまった。 遠景の桜はぼんやりと、中景の群衆は濃淡の雰囲気だけ、前景の四人はディフォルメするつもりだったのだが、遠景はともかく、中景の人物は輪郭線をしっかり描き、前景は写真そのものに限りなく近づく描き方で目標はどっかに行ってしまった。自分のことながら、なんでそうなるかは理解も説明もできないのであるが小生の絵は意図したことがドンドン違う方向に進んでいくことは多々ある。それだからマンネリに陥らず新生面が開けたと言えるのであろうか。それとも、あれこれつまみ食いの締まりのないものにしか過ぎないのであろうか。悩ましいことである。
ファルマコン'90には、今、大人気の草間彌生も4点出ていた。特別の思いがなかったので覚えていないが、図録にあるので間違いない。 画像は、「Red Rots」 1985 acrylic on canvas 12 panels each:194×130cmのコメントのついたやつだ。F120号を12枚使っているが切れ目はきれいに見える。水玉模様にはまだなっていなくてアクリル絵の具の点々が厚く塗りこめられている。 草間彌生の作品で今も印象深く覚えているのは14年ほど前になるが新潟市美術館で見たやつだ。かなり大きな展示室に入ると、赤の水玉がぐるりと展示されていた。びっしりと描きこまれた小さな水玉の群れに圧倒されたのである。 部屋全部が水玉の印象が残っているのだが、カタログを持っていないので具体的なキャンバスの並べ方とか水玉の大きさとかの確認はできないし、現実は違うかもしれない。圧倒されたのは事実だが、記憶とはあてにならないものでもあるし現実より大げさになっているのかもしれない。悩ましいところだ。
ルリクビボソハムシと思っていたが、腹の後ろがオレンジでキバラルリクビボソハムシと言うようだ。 いくつかのカットを撮影しているのでそれらを組み合わせると普段見慣れていない横からの姿を堪能したもらえるのではないかと試みたところだ。 昆虫の六本脚の真価は平らなところではわからないが、それでも、姿勢を高く、あるいは低くを自在にやっているのを感じてもらえたらうれしい限りだ。
1990年に幕張メッセで国際現代美術展ファルマコン'90が開催された。画像はその時のカタログからジェームス・ローゼンクイストのページである。キャンバスに油彩の「ニュー クリア ウーマン」512.5×1380cmの巨大な絵だ。近づくと切れ目が見えたのでF120号を縦に4枚横に7枚計28枚を組み合わせたもののようだった。題名とキャンバスの組み合わせは記憶に残って何かの折に思い出していたものだ。 当時の日本は気力も財力もみなぎっていたのだろう。見本市をやるような広大な会場での現代美術展である。この作品は一際大きかったが負けず劣らずの巨大な平面や立体作品が所狭しと並べられ、構造材むき出しで天井も高く、だだっ広い会場と調和していたのを思い出す。その当時に生み出されている現代美術のただなかに放り込まれて強烈な刺激を受けたわけだ。30年ほど前、小生43歳の忘れられない経験である。
小生の持っている放散虫プレパラートはMWSに特注したものだ。完全なものではなく壊れたもの主体でお願いした。 これなどは内球がよく見えて外殻の様子も分かる向きで封入してあるという優れものだ。 上段が深度合成したもので下段がその中のワンカットである。 内球は2個で梁をめぐらして支えているのがお分かりいただけるだろう。上段では外殻、下段で内球の厚みが分かるので内部ほど薄くなっていると言いたいところであるが、外殻の厚みは一様ではなく場所によっては中球より薄いようである。前回のと大違いでもあるし、複雑な世界なのだろう。 MWSJシリーズの完璧で美しい姿を検鏡するのが王道だが、こんな変わったのも世の中を賑やかにするのに役に立つに違いないなどと思ってやっているわけだと言えばカッコイイが、単に変わったのが好きなのが本当だろう。
放散虫の展示会を最終日に行ってきた。「放散虫とはなにか」が見に来た人の記憶に残るように思えた。大きなパネルの電子顕微鏡写真はみごたえがあったし、それ以上に大きなパネルの光学顕微鏡写真は圧巻だった。 立体模型がいくつかあって、ゴルフボールくらいの大きさで球体のものを弄ったが、内部に小球を覗き見ることができた。凹凸のある分厚い外殻に繊細な内球が実感できた。どうやって作ったのか驚きである。ピント範囲を狭めた数千枚の光学顕微鏡写真から立体模型を作ったとのパネルもあったから、詳細な立体図を作って3Dプリンターで出力したのであろうか。 手持ちの放散虫プレパラートから二重構造の感じを出せるように深度合成してみたがうまくゆかない。あきらめて上部と下部のもの二枚に分けた。なんとか分かってもらいたいと期待を込めて載せるのだ。
掃除機をかけていたら筒先に1.2センチぐらいのハエがのたうっていた。飛べなくなったんですね。ヤドリバエが家の中に迷い込んで腹中の幼虫が大きくなりすぎても産み付ける相手先がみつからないせいでこうなるみたいである。さっそくケースに入れて様子を見ると一日で幼虫10匹が出てきた。母体を食い破ってはいなかったので正常な出方をしたのだろう。昔、何も知らず、室内に転がっていたハエを実体顕微鏡で見ていたら突然腹が動いて幼虫といっても口爪のあるウジが出てきて仰天したことがあるが、今ではヤドリバエは腹中で幼虫を育てて寄生先に産み付けるのがわかっているのでケースに閉じ込めて様子を見たわけだ。 昔の写真に同種のものがあり画像処理したものを載せる。肉眼だと白に黒の模様で割とよく見るやつだ。なんに寄生しているか不明だが、葉上に産み付けられた幼虫が、飛んできたある程度大きな昆虫に口爪で縋り付くのだろう。生き抜くのもなかなか大変だ。
1/700ウォーターラインシリーズ、アオシマの初春1941だ。ロンドン軍縮条約で小型艦の制限を受けて1400トンに重武装を施したものを昭和8年に完成させたが「無理なものは無理」で改修してスマートになった姿である。 初めからこうすればよかったのだろうが、数の劣勢を質で補おうとするのは良しとしても、行き過ぎてしまうのが日本人の悪い癖のような気がする。図面が完成した段階で実用になるかならないかの合理的な検証をしていればトップヘビーで復元力の不足は明らかにされただろうし、設計者はわかっていたのではないかとも思うが、用兵側の偉いさんに押し切られたということだろう。水雷艇の転覆事故や台風下駆逐艦の船首切断など痛い思いをしてこの姿になったそうである。
精密画は人目を引くがラフスケッチもよいものだ。この絵はずるをして画像ソフトで写真をなぞったもの。こんな調子のものが簡単でもないがそれほど時間を取らずにできる。ただしデジタルデータなので肉筆のオリジナルは存在しない。 元の写真は菜の花にとまったハエと菜の花を採集して観察用のケースに入れて実体顕微鏡で撮影したものだ。自然そのままではないが、まったくのウソでもない。 花の中に潜り込んで盛んに花びらについているものを食べていた。おそらく花粉だろう。ハエも花粉とか蜜とかを食べているものは多いようだ。腐敗物にたかるハエというイメージが一般だろうが大きな誤解だと思う。
「ほうさんちゅう ちいさなふしぎな生きもののかたち」では、建物それともロケットとして放散虫の電子顕微鏡写真を載せているわけだが、月から見た地球の画像に合成するとロケットらしく見えないだろうか。
MWS「本日の画像」に絵本・児童書「ほうさんちゅう ちいさなふしぎな生きもののかたち」出版の紹介記事が出ている。アマゾンに3点のイメージがあって建物それともロケットとして沢山の放散虫の電子顕微鏡写真が載っている。 電子顕微鏡写真は隅々までピントの合った精緻なものだが、光学顕微鏡でどれくらいまで迫れるか試みた画像だ。無論ピント位置は狭いので深度合成しないと立体として見えるようにはならない。輝きはないが立体感はまあまあ出てきたのではないだろうか。それにしても不思議な写真だ。光の当たり方のせいだろうが表面の細かい模様が右は凹、左は凸、中央は凹のようでも凸のようでもあるが、その中に小円の穴があるように見える。
参議院選挙の投票に駅裏の体育館に歩いてゆく。往復40分ぐらいかかるがのんびり行くとカブトムシ三匹を拾った。小生は積極的に昆虫採集していないのでカブトムシには縁がない。しかし道路に転がっていたのだからいることはいるわけだ。もっとも、まともな姿ではない。いずれも腹はすっかり無くなりご覧のようなところが残っているだけだ。おいしいところが無いので鳥の仕業かもしれない。オスのわずかに残っているだけのは大きめの鳥かもしれないなどと考えた。 久しく昆虫スケッチもしてないし、三匹を組み合わせて画用紙に筆と墨で描いたが東洋画のようにはならない。洋画のデッサンになってしまうのは長年の習練が身についているためだ。立体感を殺して平面化するのはそう簡単ではない。
MWS珪藻プレパラートBKK_02沼は散らしのプレパラートで対物レンズ10Xだと賑やかさの具合はよくわかる。ごく小さいものがたくさんあって中型がちらほら見え、大型はたまにあるといったものだ。 @は大型のスタウロネイス(ジュウジケイソウ)の周りに小型のものがひしめき合っているのがよくわかるところだ。残念ながらこのスタウロネイスは傾いているし状態も良いようには感じられない。実際、対物40Xで撮影したAを他の状態のよいBと比較するとがっかりさせられる絵にしかならないのがご理解いただけると思う。しかし、小生はそれを楽しんでいるので散らしのプレパラートは大好きなのである。
MWS珪藻プレパラートBKK_02沼からのナビクラ(フナガタケイソウ)などが寄り集まっているところだ。沼は穏やかな環境で栄養も豊富なのだろう。大小さまざまな珪藻たちが生活している。というのが想像できる賑やかなプレパラートで大好きな奴だ。 小生は光学に疎い。顕微鏡の取扱説明書やネットの記事を頼りに検鏡しているだけなのでちゃんと見えているのか怪しい限りだし、そもそも正しい像がどんなものなのかわかっていない。ただMWS珪藻プレパラートは見本の画像があるのでなんとかして同じようになるように努力はしている。このナビクラの場合は胞紋がラクビーボールのような形までわかるようにと思ってやっているわけだ。
女性の顔を最後に仕上げたのだが、これが大変難しい。元の顔はニッコリとまではいかないまでもさわやかな表情をしているのが泣きべそ的なものにしかなってくれない。全然違う表情なのである。 これではならじと消しては描きの繰り返しをしていると密度が濃くなってくる。全体にあっさりした調子を保って書き進めてきたのに齟齬をきたしていたようだが、夢中になってしまい時間切れになり、そのまま展覧会場に持ち込んだが、離れて落ち着いてみると助演者だった女性が主役になっていた。 全体の密度を上げるとまた別の展開になりより絵らしくなるはずだが、そうはしたくない気持ちがある。あっさり仕上げて存在感のあるのを作り出したいのだ。 高望みの癖はいつになっても治らないものである。
退職してから東京に出かけることは月に何度もないが、ここのところ街の様子は様変わりしているのに心動かされる。建物が大きく奇麗になっているし、人も外人が増えて、働いている若い女性も目立つ。久しく都会風景を描かずにいたが描けそうな気がして撮影をするようになった。 中央に人物を配し横からの光が印象的な場面は得意のパターンなのか身についているのかそんなところを選んでしまう。背景は昭和の香りの濃いところなのが爺臭い。まあ爺なので当然であるが。
2019.12.30
小生の干支も残すところ一日となった。時の進むのは早い。昨日新年を迎えたような気分だ。若い時と大違いである。
最近入手したMWS放散虫プレパラートだ。大量の放散虫を敷き詰めた珍しいプレパラートである。厚みのあるものないもの取り交ぜて最大厚の放散虫の位置に収めて固定してるのだろう。放散虫と骨針だけで余計なものは入っていない。この状態がごく普通のような気分なのだが大間違いなのである。MWSの仕事なればこそなのだ。
この画像は我ながら美しくないと反省しきりなのであるが実力なので仕方ない。プレパラートが届いたとき、撮影はしなかった。肉眼で見る楽しさを優先したのだ。キラキラと輝くような見え方で実に美しい。撮影はモニターを見たりシャッタを押したり撮った画像の確認と忙しい。そんな煩わしさなしにゆったりと美しい世界に浸りたかったのである。
2019.12.25
今年の冬は今までの所、暖かい日も多くて過ごしやすいようでもあるが、寒い日は一際つらく体がこたえる。年が明けると厳しい寒さの続く日々になるかもしれないし、あまりありがたくはないものだ。
箱根の入り口風祭にはかまぼこの里があるがすぐ近くの早川を撮影したものだ。上段は今月20日の撮影だが奥の小山に紅葉がまだ残っている。
今、中州はゴロゴロした玉石が見られるだけだが、ほんの少し前までは立ち木が茂っていた。各地に被害をもたらした台風19号できれいさっぱり流されてしまったのである。
ここまで茂ったものがなくなるとは思わなかったので台風の翌日にこの景色を見たときは驚きだった。芦ノ湖も1000ミリの降水量だったそうだから、ここら辺も物凄い流れだったのだろう。自然恐るべしである。
2019.12.20
クワガタの特徴を調べるので描いた絵だ。
寸法は取ってなくて気合で可能な限り正確に描こうというやり方である。デッサンの勉強でもある。
ノコギリクワガタの大あごは立派で描きごたえもある。触覚の出方とか脛節のギザギザなども番号を振るほど興味をもって描いている。
複眼の付き方は意外であった。前を見るよりも上下の視界を優先しているようだ。
見た感じは凸凹していない丸みを帯びている形だが点刻は全面にある。煩さなので一部を描いた。
棘毛が沢山あるのが昆虫の特徴みたいなものだが少ないのもいる。クワガタはそうなのだろう。ほとんど見かけなかった。
2019.12.15
人体のDNAの総延長はどのくらいあるのか。考えたこともなかったが放送大学を見てたら太陽系ほどの大きさがあると解説されていた。そんな馬鹿なと言いたいところである。
図に示したのはDNAがヒストンと呼ばれるタンバク質の粒子に巻き付き、それが積み重なってクロマチン繊維となり、さらに分裂時にたたみこまれて染色体に変化する様子だ。真核細胞の核には必ずDNAがあり、人では2mほどだそうである。随分な長さだが核の中にたたみこまれているわけだ。ただ人体は60兆個の細胞からなっているそうだから総延長は2mの60兆倍で1200億kmになってしまう。太陽と地球の平均距離の天文単位にすると約800天文単位だそうだ。冥王星の軌道が40天文単位ぐらいだそうだから差し渡し10倍ぐらい外側まで伸ばせる。太陽系クラスで間違いないわけだ。
もっとも重さは20gほどだそうだから量はささやかなもので総延長のようには驚かされることはないのだ。
2019.12.10
文化大革命中に発掘された殷代の青銅器の写真を模写したものだ。口径が19.6センチだそうだから両手で持って丁度よいくらいの大きさだろうか。
「しきようとか」と言うそうだ。文字化けするので漢字は画像を見てもらいたい。「しきよう」はミミズクのことで胴腹に模様化されて翅を広げた姿で三匹が飾られている。「徒」は器の内底の鋳銘から。「か」は器の種類で、三本の先の尖った脚を持ち、器口が広く、器口から二本の柱が立ち、一つの把手を持つものだそうだ。祭祀のとき香酒を温め、盛るための酒器だそうだ。
神や祖先霊に捧げる器で飾りなどは深い意味を持っているのだろう。人は今や地球の主人になって神をも恐れれない生き物になっていると思うが時代をさかのぼるほど神や祖先霊を恐れ敬っていたのだと思う。この器も現代人は美術品として鑑賞するわけだが、殷人にとっては心を込めて作った恭しい器だったのだろう。
2019.12.05
タミヤ1/700独駆逐艦Zクラス(Z37-39)である。古いキットで部品点数も少なくあっさりした作りである。値段は安いが二隻分入っていて対空砲火を強化した型も出来るというお得さである。素組に近いがマストを細くしたりとか少しいじっている。ケースと水色の半透明の下敷きを百円ショップで求めてビスで固定した。下敷きの表面にジェルメディウムを薄く塗り、しわくちゃにして黒く染めた紙を敷いたが肉眼で見ている分にはなかなか良い。
全体のプロポーションがよいのだろう、少し手を入れただけで随分実艦らしさが出たと思うのだ。
2019.11.30
前回のギロシグマ(エスガタケイソウ)を対物レンズ40X、NA=0.65で検鏡し、暗視野で編斜照明の向きを変えて撮影したものだ。上段が上から、下段が左から光を当てたものである。
中央部が盛り上がっているせいか光の当たらないほうは影になったようだ。縦横の胞紋の並び方の違いと思っているのだが色は全く異なってしまう。
2019.11.25
MWS珪藻プレパラートJ297の別のカットだ。前回よりトリミングしているので大きめに写っている。
開口絞りを絞り込んでいくと明るい青色が特に濃くなるのがいる。ギロシグマ(エスガタケイソウ)というのだと思うが左上の奴である。その隣の奴もエスガタだが微妙な色で赤っぽい色も交じっていたりして妙な気分にさせられる。
2019.11.20
MWS珪藻プレパラートJ297だ。青色しか出ないと思い込んでいたがやり方によっては赤い色も出るのがわかったので試したのが今回の画像だ。
暗視野用のコンデンサを持ってなくて自作のアタッチメントを付けて暗視野にしているいい加減な顕微鏡使いなのだが、開口絞りを絞り込んでいったらご覧のような状態になった。目で見ているものはもっと美しく見惚れてしまうが、こればかりは実際に見てもらうしかないだろう。
それにしても見事な並び方と平面性である。この標本あってこそのこの画像である。
2019.11.15
キクスイカミキリの表皮は部位によって様子が違う。
特に前胸部の赤いところは溝が彫られているものの、ほぼ平坦で周辺部になってから窪みが現れる。
頭部は大きい丸い窪みが密にあり、画像では写っていないが中央から黒い剛毛が出ている。透明な棘毛は小さな黒丸から出ている。平らなところはしわ状に溝が入っていてきれいなものだ。
翅鞘部は前回に詳細な画像を載せているが、黒い剛毛の出ている黒い窪みの間隔は広く、透明な棘毛の出ているソケットは数が多い。平らなところはごつごつしていて荒々しいものだ。
昆虫の彫刻をしげしげと見る機会はそうないだろうが興味深いものがあると思うのだ。
2019.11.10
キクスイカミキリの翅鞘を金属顕微鏡で見たのが今日の画像だ。実体顕微鏡では丸いくぼみが沢山並んでいて透明だけれども白っぽく見える棘毛がびっしり見え黒い剛毛も見えた。その様子を確認しようというわけだ。
画像の向きは左が頭の方で右側はお尻だ。透明な棘毛は基部がソケットになっていて後方に傾いている。数も多い。黒い剛毛は分かりずらいが模式図のようにくぼみの前側壁から出ていた。中央の底面からかと思ったが意外だった。
2019.11.05
コウチュウ目(鞘翅目)カブトムシ亜目ハムシ上科カミキリムシ科フトカミキリ亜科キクスイカミキリと言うみたいだ。体長1.0センチメートル。
漢字で書けば菊吸天牛だ。ヨモギなどキク科の植物に産卵するそうだから菊に縋り付いて養分を吸い上げているように見える昆虫なのだろう。
黒く小さいので目立ちにくいはずだが背に赤丸をしょって我から存在をアピールしている変な虫だ。乾燥標本をスケッチしたので赤丸はオレンジ色になっている。捕まえたときはかなりはっきりした赤だったのをすっかり忘れてそのまま描いてしまった。
2019.10.30
川上尉平先生作「鬼無里」F8だ。制作年は不明だが晩期の作だろう。写真に撮ると緑も目立つが実作を見ていると紅葉の赤ばかりのような感じを受ける。画面上の面積はそれほどでもないが目に焼き付いた赤の強烈さをしっかり写しているのであろう。現場主義の強みだと思う。山の稜線に青紫が入るのも先生の特徴だが、遠くの高い山にはふさわしい。
我が家の居間に飾るのは8号で十分な大きさで内容も濃いので不満があるわけではないが、20号とか30号の大きさのものには格別なところがある。だんだん欲しくなってきた。
2019.10.25
MWS珪藻プレパラートBKK_02(沼)のスタウロネイス(じゅうじけいそう)だ。大きめのやつでまれにしかいない。散らしのプレパラートなのでいくつかの珪藻が重なって見苦しいところもあるが、スタウロネイスくんはカバーグラスに張り付いているようで水平がよく取れており、胞紋も明確に撮れた。繊細さは感じられないが、ざっくりしたおおらかさがあって楽しく検鏡できる奴だ。
2019.10.20
MWS珪藻プレパラートASK_01(池)も早い時期に求めたやつだ。絵にしたのもいくつかある。小形のものが多いが中型も目立つ程度にはあり大型もまれにある。といったプレパラートだが種類も数も多くて長く楽しめる。
右にあるのはカロネイスというみたいだが、下のは押されて折れたのか中央から裂け目が入っている。その上のキチンとしたのはほかにあったやつを合成したものだ。中央縦の条線から粘着質のものを出して水底を移動するみたいなので群体を作らないで単独で生活しているのだろう。このプレパラートでは見つけにくいし、そこそこ居る程度の奴ではなかろうか。
2019.10.15
MWS珪藻プレパラートHKZ_01(渓流)は顕微鏡を始めた頃に求めたやつだ。小形のディアトマ(ヌサガタケイソウ)やシネドラ(ハリケイソウ)とかコッコネイス(コメツブケイソウ)がたくさん入っていて賑やかではあるが、40Xで見ると適度なばらつきになって見やすい。点線の枠内がピクセル等倍の画像で細部がわかりやすくなる。ここにはコメツブケイソウは見えないがロイコスフェニア(マガリクサビケイソウ)や半分欠けたフルスツリア(ヒシガタケイソウ)が見える。こいつは少し沈んでいるみたいで胞紋がボケている。散らしのプレパラートは微妙なものなのだ。
2019.10.10
MWS珪藻プレパラートSBG_01(渓流)からディアトマ(ヌサガタケイソウ)のピント位置を変えた二枚を合成したものだ。下はすこしピントを下げたところで殻面の胞紋がわずかに見られる。この種類をいくつか撮影したがこれだけが胞紋がわかった。まぐれ当たりをしたわけだ。淡水や汽水の長いジグザク群体で生活する付着珪藻だそうだ。
MWSのリサーチグレードプレパラートKBG-01(河川珪藻試料)の説明文に「ニッチア,シネドラ(旧名),メロシラ,ディアトマを主に含みますが,特にディアトマ(Diatoma vulgaris, ヌサガタケイソウ)に焦点を当てて製作したプレパラートです。この珪藻には細かい条線があり,その条線の間にはさらに細かい点紋があります。そう簡単に見えるものではありませんので,テクニックを磨くためのテストプレートとして有用です。」とあって、どうしたらこんなに詳細に撮影できるのだろうかと驚嘆してしまう画像が載せてある。
それに比べるとあまりにもお粗末なのであるが、なんとか撮れたというだけでもうれしいのである。
2019.10.05
MWS珪藻プレパラートのJ228はピンヌラニア(ハネケイソウ)が二個ないし三個が連なっているものを集めたやつだ。昔に求めたものであるが初めて紹介するのだ。大きいのは生物顕微鏡で倍率40X、NA=0.95の対物レンズで撮影したもの。小さいのは20X、NA=0.4の対物レンズを付けた金属顕微鏡で撮影したものだ。「本日の画像」で金属顕微鏡では表面だけの描写が観察できる旨が出ていたので、真似したもののまともな画像にならなくてガックリきたところなのであるが、20Xのものは縮小すれば多少は見れるかなと二つを並べたわけだ。
これをじっと見ていると表面に櫛模様のある箸箱に思えてくる。電子顕微鏡写真だと立体として捉えられているのが多いが、生物顕微鏡ではあまりないので、こんな具合に向きを変えて二つ並んでいて立体を感じられるのは素晴らしい。
2019.09.30
新作家展は10月16日からで、まだ間があるが搬入は早くて30日には業者が作品を取りに来る。大きくて自分では運べないので専門のところに頼んでいるのだ。それでこれで完成となった。 20年ほど前新作家に参加したときは白黒の都市風景だったのだが、変遷を重ねたので今これを出しても小生の作品だとは誰も気が付かないだろう。この傾向の人もいないので誰が描いたのかと不審に思われるに違いない。どんな反応が返ってくるのか楽しみである。
年を取ると筆力が落ちるのが通例だが、60代で実体顕微鏡で昆虫をしつこくスケッチしていた効果がこの絵にはあるのではなかろうか。左右対称で微妙な曲線で囲まれている昆虫を捉えるのは苦しい作業だったが数を重ねるうちにそれらしい感じが出てき、うれしく思っていた。日頃の習練が原画の写真に写っている多数の人物を破綻なく一つの平面上にちゃんと立っているように写せたと思えるのだが、さて、そう見てもらえるだろうか。そうであってもらいたいものである。
2019.09.25
今描いている絵の左半分だ。
上野公園はよく行く場所である。駅を出て、東京文化会館と西洋美術館の間のゆったりとした道?広場?を過ぎると広場に出る。左手は奥に国立博物館のある噴水広場、右手は桜並木だ。春は花見で大賑わいのところである。
この日は春のモダンアート展を見た帰り広場に立って写真を撮る。今年は寒くて桜も満開でなく人々も厚着の人もいたりして例年とは大違いで戸惑うところもあったが、お構いなしの撮影だった。
歩きながらあちこちを写すのだが、これはと思う場所ではカメラを構えたままじっと待って群衆の動きが変化していく様と、魅力的な人がくるとシャッターを押す。これを繰り返して運が良ければ絵にできるわけだ。
銀塩時代は写せるコマ数もしれたものでシャッターを押すのに気合が入ったものだか、デジタルは初期はともかくとして現在ではメモリーも大きくなり、画素数も上がって細部まで明確にわかるカットを写し放題である。よい時代になったものだが屑を量産しているだけともいえるので気合は必要だが思うようにはいかないものだ。
ネットで見た内容は忘れやすいが、じっくり読んだ本の中身はしっかり残るとも言われるが、身銭を切ってやっと手に入れたものでないと身につかない。というのかなぁ。
「何事も楽しちゃいけないよ」なのでしょうね。
2019.09.20
資力があれば張りキャンを求めればよいのだがそうでないので10メートル巻きのキャンバスを買って自分で張っている。それが切れて買わなければならなくなったが、この頃ピンと張れないし使いきれるかなどと余計な考えも出てきてベニヤに描くことにする。いずれ92×182cmを三枚繋げたものを描くつもりだが今回は二枚をつなげて描いている。この左側はアベックが手をつないで歩いてる図があって合わせて一枚とするわけだ。ここまで延べ二十日ほどかかっているが秋の新作家展に出品するので残り時間も少なくなってきた。
合板に水性塗料の白を重ね塗りして下地を作りその上に描くのだから安上がりな乱暴な遣り方で粗末そのものという感じがある。そこに水性塗料の限られた色で荒々しさのある絵を描くことを目標として始めたのであるが、どんどん違う方向に進んで、水性塗料は墨に変わり色はなくなってしまった。
遠景の桜はぼんやりと、中景の群衆は濃淡の雰囲気だけ、前景の四人はディフォルメするつもりだったのだが、遠景はともかく、中景の人物は輪郭線をしっかり描き、前景は写真そのものに限りなく近づく描き方で目標はどっかに行ってしまった。自分のことながら、なんでそうなるかは理解も説明もできないのであるが小生の絵は意図したことがドンドン違う方向に進んでいくことは多々ある。それだからマンネリに陥らず新生面が開けたと言えるのであろうか。それとも、あれこれつまみ食いの締まりのないものにしか過ぎないのであろうか。悩ましいことである。
2019.09.15
ファルマコン'90には、今、大人気の草間彌生も4点出ていた。特別の思いがなかったので覚えていないが、図録にあるので間違いない。
画像は、「Red Rots」 1985 acrylic on canvas 12 panels each:194×130cmのコメントのついたやつだ。F120号を12枚使っているが切れ目はきれいに見える。水玉模様にはまだなっていなくてアクリル絵の具の点々が厚く塗りこめられている。
草間彌生の作品で今も印象深く覚えているのは14年ほど前になるが新潟市美術館で見たやつだ。かなり大きな展示室に入ると、赤の水玉がぐるりと展示されていた。びっしりと描きこまれた小さな水玉の群れに圧倒されたのである。
部屋全部が水玉の印象が残っているのだが、カタログを持っていないので具体的なキャンバスの並べ方とか水玉の大きさとかの確認はできないし、現実は違うかもしれない。圧倒されたのは事実だが、記憶とはあてにならないものでもあるし現実より大げさになっているのかもしれない。悩ましいところだ。
2019.09.10
ルリクビボソハムシと思っていたが、腹の後ろがオレンジでキバラルリクビボソハムシと言うようだ。
いくつかのカットを撮影しているのでそれらを組み合わせると普段見慣れていない横からの姿を堪能したもらえるのではないかと試みたところだ。
昆虫の六本脚の真価は平らなところではわからないが、それでも、姿勢を高く、あるいは低くを自在にやっているのを感じてもらえたらうれしい限りだ。
2019.09.05
1990年に幕張メッセで国際現代美術展ファルマコン'90が開催された。画像はその時のカタログからジェームス・ローゼンクイストのページである。キャンバスに油彩の「ニュー クリア ウーマン」512.5×1380cmの巨大な絵だ。近づくと切れ目が見えたのでF120号を縦に4枚横に7枚計28枚を組み合わせたもののようだった。題名とキャンバスの組み合わせは記憶に残って何かの折に思い出していたものだ。
当時の日本は気力も財力もみなぎっていたのだろう。見本市をやるような広大な会場での現代美術展である。この作品は一際大きかったが負けず劣らずの巨大な平面や立体作品が所狭しと並べられ、構造材むき出しで天井も高く、だだっ広い会場と調和していたのを思い出す。その当時に生み出されている現代美術のただなかに放り込まれて強烈な刺激を受けたわけだ。30年ほど前、小生43歳の忘れられない経験である。
2019.08.30
小生の持っている放散虫プレパラートはMWSに特注したものだ。完全なものではなく壊れたもの主体でお願いした。
これなどは内球がよく見えて外殻の様子も分かる向きで封入してあるという優れものだ。
上段が深度合成したもので下段がその中のワンカットである。
内球は2個で梁をめぐらして支えているのがお分かりいただけるだろう。上段では外殻、下段で内球の厚みが分かるので内部ほど薄くなっていると言いたいところであるが、外殻の厚みは一様ではなく場所によっては中球より薄いようである。前回のと大違いでもあるし、複雑な世界なのだろう。
MWSJシリーズの完璧で美しい姿を検鏡するのが王道だが、こんな変わったのも世の中を賑やかにするのに役に立つに違いないなどと思ってやっているわけだと言えばカッコイイが、単に変わったのが好きなのが本当だろう。
2019.08.25
放散虫の展示会を最終日に行ってきた。「放散虫とはなにか」が見に来た人の記憶に残るように思えた。大きなパネルの電子顕微鏡写真はみごたえがあったし、それ以上に大きなパネルの光学顕微鏡写真は圧巻だった。
立体模型がいくつかあって、ゴルフボールくらいの大きさで球体のものを弄ったが、内部に小球を覗き見ることができた。凹凸のある分厚い外殻に繊細な内球が実感できた。どうやって作ったのか驚きである。ピント範囲を狭めた数千枚の光学顕微鏡写真から立体模型を作ったとのパネルもあったから、詳細な立体図を作って3Dプリンターで出力したのであろうか。
手持ちの放散虫プレパラートから二重構造の感じを出せるように深度合成してみたがうまくゆかない。あきらめて上部と下部のもの二枚に分けた。なんとか分かってもらいたいと期待を込めて載せるのだ。
2019.08.20
掃除機をかけていたら筒先に1.2センチぐらいのハエがのたうっていた。飛べなくなったんですね。ヤドリバエが家の中に迷い込んで腹中の幼虫が大きくなりすぎても産み付ける相手先がみつからないせいでこうなるみたいである。さっそくケースに入れて様子を見ると一日で幼虫10匹が出てきた。母体を食い破ってはいなかったので正常な出方をしたのだろう。昔、何も知らず、室内に転がっていたハエを実体顕微鏡で見ていたら突然腹が動いて幼虫といっても口爪のあるウジが出てきて仰天したことがあるが、今ではヤドリバエは腹中で幼虫を育てて寄生先に産み付けるのがわかっているのでケースに閉じ込めて様子を見たわけだ。
昔の写真に同種のものがあり画像処理したものを載せる。肉眼だと白に黒の模様で割とよく見るやつだ。なんに寄生しているか不明だが、葉上に産み付けられた幼虫が、飛んできたある程度大きな昆虫に口爪で縋り付くのだろう。生き抜くのもなかなか大変だ。
2019.08.15
1/700ウォーターラインシリーズ、アオシマの初春1941だ。ロンドン軍縮条約で小型艦の制限を受けて1400トンに重武装を施したものを昭和8年に完成させたが「無理なものは無理」で改修してスマートになった姿である。
初めからこうすればよかったのだろうが、数の劣勢を質で補おうとするのは良しとしても、行き過ぎてしまうのが日本人の悪い癖のような気がする。図面が完成した段階で実用になるかならないかの合理的な検証をしていればトップヘビーで復元力の不足は明らかにされただろうし、設計者はわかっていたのではないかとも思うが、用兵側の偉いさんに押し切られたということだろう。水雷艇の転覆事故や台風下駆逐艦の船首切断など痛い思いをしてこの姿になったそうである。
2019.08.10
精密画は人目を引くがラフスケッチもよいものだ。この絵はずるをして画像ソフトで写真をなぞったもの。こんな調子のものが簡単でもないがそれほど時間を取らずにできる。ただしデジタルデータなので肉筆のオリジナルは存在しない。
元の写真は菜の花にとまったハエと菜の花を採集して観察用のケースに入れて実体顕微鏡で撮影したものだ。自然そのままではないが、まったくのウソでもない。
花の中に潜り込んで盛んに花びらについているものを食べていた。おそらく花粉だろう。ハエも花粉とか蜜とかを食べているものは多いようだ。腐敗物にたかるハエというイメージが一般だろうが大きな誤解だと思う。
2019.08.05
「ほうさんちゅう ちいさなふしぎな生きもののかたち」では、建物それともロケットとして放散虫の電子顕微鏡写真を載せているわけだが、月から見た地球の画像に合成するとロケットらしく見えないだろうか。
2019.07.30
MWS「本日の画像」に絵本・児童書「ほうさんちゅう ちいさなふしぎな生きもののかたち」出版の紹介記事が出ている。アマゾンに3点のイメージがあって建物それともロケットとして沢山の放散虫の電子顕微鏡写真が載っている。
電子顕微鏡写真は隅々までピントの合った精緻なものだが、光学顕微鏡でどれくらいまで迫れるか試みた画像だ。無論ピント位置は狭いので深度合成しないと立体として見えるようにはならない。輝きはないが立体感はまあまあ出てきたのではないだろうか。それにしても不思議な写真だ。光の当たり方のせいだろうが表面の細かい模様が右は凹、左は凸、中央は凹のようでも凸のようでもあるが、その中に小円の穴があるように見える。
2019.07.25
参議院選挙の投票に駅裏の体育館に歩いてゆく。往復40分ぐらいかかるがのんびり行くとカブトムシ三匹を拾った。小生は積極的に昆虫採集していないのでカブトムシには縁がない。しかし道路に転がっていたのだからいることはいるわけだ。もっとも、まともな姿ではない。いずれも腹はすっかり無くなりご覧のようなところが残っているだけだ。おいしいところが無いので鳥の仕業かもしれない。オスのわずかに残っているだけのは大きめの鳥かもしれないなどと考えた。
久しく昆虫スケッチもしてないし、三匹を組み合わせて画用紙に筆と墨で描いたが東洋画のようにはならない。洋画のデッサンになってしまうのは長年の習練が身についているためだ。立体感を殺して平面化するのはそう簡単ではない。
2019.07.20
MWS珪藻プレパラートBKK_02沼は散らしのプレパラートで対物レンズ10Xだと賑やかさの具合はよくわかる。ごく小さいものがたくさんあって中型がちらほら見え、大型はたまにあるといったものだ。
@は大型のスタウロネイス(ジュウジケイソウ)の周りに小型のものがひしめき合っているのがよくわかるところだ。残念ながらこのスタウロネイスは傾いているし状態も良いようには感じられない。実際、対物40Xで撮影したAを他の状態のよいBと比較するとがっかりさせられる絵にしかならないのがご理解いただけると思う。しかし、小生はそれを楽しんでいるので散らしのプレパラートは大好きなのである。
2019.07.15
MWS珪藻プレパラートBKK_02沼からのナビクラ(フナガタケイソウ)などが寄り集まっているところだ。沼は穏やかな環境で栄養も豊富なのだろう。大小さまざまな珪藻たちが生活している。というのが想像できる賑やかなプレパラートで大好きな奴だ。
小生は光学に疎い。顕微鏡の取扱説明書やネットの記事を頼りに検鏡しているだけなのでちゃんと見えているのか怪しい限りだし、そもそも正しい像がどんなものなのかわかっていない。ただMWS珪藻プレパラートは見本の画像があるのでなんとかして同じようになるように努力はしている。このナビクラの場合は胞紋がラクビーボールのような形までわかるようにと思ってやっているわけだ。
2019.07.10
女性の顔を最後に仕上げたのだが、これが大変難しい。元の顔はニッコリとまではいかないまでもさわやかな表情をしているのが泣きべそ的なものにしかなってくれない。全然違う表情なのである。
これではならじと消しては描きの繰り返しをしていると密度が濃くなってくる。全体にあっさりした調子を保って書き進めてきたのに齟齬をきたしていたようだが、夢中になってしまい時間切れになり、そのまま展覧会場に持ち込んだが、離れて落ち着いてみると助演者だった女性が主役になっていた。
全体の密度を上げるとまた別の展開になりより絵らしくなるはずだが、そうはしたくない気持ちがある。あっさり仕上げて存在感のあるのを作り出したいのだ。
高望みの癖はいつになっても治らないものである。
2019.07.05
退職してから東京に出かけることは月に何度もないが、ここのところ街の様子は様変わりしているのに心動かされる。建物が大きく奇麗になっているし、人も外人が増えて、働いている若い女性も目立つ。久しく都会風景を描かずにいたが描けそうな気がして撮影をするようになった。
中央に人物を配し横からの光が印象的な場面は得意のパターンなのか身についているのかそんなところを選んでしまう。背景は昭和の香りの濃いところなのが爺臭い。まあ爺なので当然であるが。